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【2383886】母の死 どうしたら立ち直れますか

投稿者: はな   (ID:fyMwEuprfUE) 投稿日時:2012年 01月 14日 11:03

母を12月に亡くしました。
入院中の母を家に連れて帰りました。
母は喜んでくれました。先生はもう日にちはないと言いました。
水も飲まさないようにと言われていました。母もほしがりませんでした。
それでも、母には奇跡が起きると思いました。母に綿に水を含ませ飲ませました。
母は、むせました。その後、吸引機を使い無理に吸引したように思います。
看護師が着いた時、母は横になりたがっていましたが、座らせるように言われました。
私はその通りにして、看護師が背中を叩くのを手伝いました。
母は叩かれてううんと2度言いました。息をしていませんでした。
それでも、叩き続ける看護師に「止めて下さい。もう戻ってこないなら止めて下さい。」と言いました。
「ごめんね。ごめんね。いやだ。いやだ。こんなお別れはいやだ。」と言いました。
看護師は「ごめんじゃない。よくやった。よくやったですよ。」と言った。
私はいまでも、母を私がこの手で殺した。殺すのを手伝った。悪いのは私だ。
殺した。殺した。殺した。と思うのです。
49日がもう少しで来ます。それでも、私は最後を思い出すのです。
幸せでした。母と一緒はとても幸せでした。母も幸せだと言ってくれました。
私は、母を殺してこの先生きていくのはとても辛いのです。

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  1. 【2665559】 投稿者: 悲しいけれどおなかはすく  (ID:nMtyYxP4B0Q) 投稿日時:2012年 08月 28日 20:29

    私の義母は、末期がんで、亡くなる数日前、自宅に一泊二日で帰ってきました。
    吸引器を病院は貸してくれました。
    私は看護師免許をもっていますが、保健師として働いていたため、
    吸引は学生の時以来全く経験なし。
    しかし、病院の看護師さんは、「看護師だから大丈夫ね。」と、
    私も学生の時に実習で結構な頻度でしていましたので、「はい」といいました。
    しかし、義母の病状が落ち着いていたのに、
    私が少し席をはずし、用事を済ませに行っている間に、病状が急に変化し、spo2が低下。
    主人から連絡を受けました。主人に酸素の流量を上げるよう指示しましたが、
    私が駆け付け吸引をしたものの、
    吸引力が弱く(この点は、病院の看護師さんも、貸し出しの際危惧していました)
    さらに、私の技術も未熟で引ききれず、
    結局泊まれず、救急車で病院に戻り、そのまま数日後に亡くなりました。
    あとから主人に聞くと、義父が私の知らないうちに、お茶を口に含ませていたといいます。
    義母の口腔内が乾いているのがつらそうだったからのようです。
    義父には、それが原因だろうとは言えないと主人は言いました。
    でも、私は、その義父のことは責められませんでした。
    喉が渇いたろうと、良かれと思ってしたのですから。
    逆に、私の吸引が下手だったから、義母の最期まで望んでいた「家に帰りたい」という望みも
    まともにかなえることが出来なかった。
    亡くなるということは、近い将来やってくる現実なのはわかっていましたが、
    それでも、もう少し長く生きていられたかもしれないのに。
    私は看護師なのに、何もできないんだと思い知らされました。
    本当に悔しく、申し訳なく、未だに私のせいでこんなことになったと自分を責め続けています。でも、義母は戻ってきません。
    義母のような思いをする人がいなくなるよう、
    私の形だけの看護師免許を形だけでなく、きちんと活かせるよう、
    子育てをしながら訪問看護師としてスタートをきりました。
    義母に空から見ていてもらえたらと、毎日思っています。
    どんなにつらくても、絶対に逃げないと、心に決めています。

  2. 【2667023】 投稿者: 酷い嫁  (ID:RjCILG02Qo.) 投稿日時:2012年 08月 29日 22:24

    皆さん、たくさんの励ましのお言葉ありがとうございます。
    自分自身でも「何てひどい嫁なんだろう」と思ってますので
    厳しいお言葉を覚悟してましが、
    皆様の優しい励ましのお言葉に感謝するばかりです。

    私みたいに感じてる方も沢山いらっしゃることに安心しました。
    でも、実際に義母を無視してる私はやっぱり情けないですね。
    心の中ではムッとくることがあっても
    皆さん大人ですから、それを表には出されないんですもの。
    私はまだまだですね。
    もっと大人にならなくては。

    主人は私の気持ちを尊重してくれ
    「お前が自然におふくろに会いたいと思うまで会わなくていい」
    と言ってくれてます。
    流石に今年の盆の時は
    「今年も会う気にまだなれない?」と言われてしまいました。
    理解ある主人のためにも
    もうそろそろ本当に義母に会えるようにしなくては!
    と思ってはいるんですけど。

    なかなか難しいですね。
    義母に言われた一言が、フラッシュバックするだけでなく、
    義母と義姉が仲よく話してるのを見るのも辛い。

    2年前まで母が生きてくれてたということに感謝しないといけませんね。

  3. 【2671569】 投稿者: れい  (ID:QgQEJhl32F6) 投稿日時:2012年 09月 02日 23:09

    はなさんへ。
    お水お母さんはとても嬉しかったと思いますよ。私の母も7月の終わりに天国へ行きました。もうすぐ四十九日です。
    私も最後何の応答も意識もない母に喉が渇いてるかも・・とガーゼに水を湿らせ口をふいてあげました。もう意識が無いのだから喉が渇くはずはないのに・・・
    それでも今私に出来ることを何かしなくては何かしたいって思うのは当然です。母はとても強い母でした。看護師さんからも亡くなる前に決して弱音を吐かないのよと・・・
    私たち家族にもそうでした。毎日付き添う父にも何も言わなかった。少しくらい弱音言ってもいいのにと。何も言ってくれない方が逆につらすぎるとよく言っていた父。癌が分かった時にはすでに末期で余命1ヶ月。何故母はそこまで我慢したのだろう?今でも思う。
    亡くなる前に何をどれだけしたから満足とはならない。今考えるともっと・・・もっと・・・ああしておけば良かったこうすれば良かったと
    後悔ばかりの毎日でした。しかし「私達が前向きになることが母にとっての一番の供養になるんだから泣いてばかり居られないね」と姉に言われました。そうしないと自分が前へ進めないから。でもそう言いながら今私は、大粒の涙で画面が見えなくなりながらも必死にキーボードをたたいています。

  4. 【2672795】 投稿者: スクランブル  (ID:3T0Bc9AiU7A) 投稿日時:2012年 09月 04日 00:00

    私も昨年、最愛の母を突然の病気で失いました。
    病が発覚して2か月弱入院し、「家に帰りたい」という母の望みで、
    5日間だけ自宅で過ごし、最期を看取ることができました。

    亡くなって半年程は、毎日泣いていました。
    それ以降も、友人と普通に話していても、何かの拍子でスイッチが入り、
    人前でもポロポロと涙を流すことがよくありました。

    今でも人混みが苦手です。
    「こんなにたくさんの人間が、今こうして生きて暮らしているというのに、
    なぜ私の母だけ死んでしまったのだろう」と思うからです。
    スクランブル交差点では、信号が変われば向こうから母が歩いてくるような
    気がして、つい目をさらのようにして似た人影を探してしまいます。
    もちろんどこにもいないのですが。

    帰宅時に、大きい通りを曲がって路地に入る瞬間も嫌です。
    以前は、たまに自宅(母とは2世帯同居でした)へ戻る母の背中が見えて、
    声をかけて一緒に歩いて家に戻ったものです。
    「ひょっとしたら」と期待しても、当然ながら毎回その思いは裏切られ、
    「やっぱりいない」と落胆してしまいます。

    ある日、友人が言いました。
    「私は大学入学と同時に上京し、それ以来親とはずっと別々に暮らしている。
    でもあなたは結婚後しばらくしてまたご両親と同居して、かわいい孫と一緒に
    暮らす楽しい生活をプレゼントすることができたじゃない。
    ご両親は何より喜んでいらしていたと思うわ」と。

    さらに「世の中には、実の親と良好な関係を築けていない人もたくさんいる。
    それなのに、お母様が亡くなったことをこんなにも悲しめるということは、
    いかに今まで良い家族であったかということを、幸せに思っていいのよ」と
    言ってくれました。

    今でも悲しみは癒えません。
    でも、同じような悲しみを抱えていらっしゃる方々、こんな思いを抱けるということを
    ありがたいと感じてもいいのではないでしょうか。

  5. 【2678155】 投稿者: 24年前  (ID:1y2FUCoWvbo) 投稿日時:2012年 09月 08日 00:39

    最愛の母を亡くしました。

    涙が枯れることなく毎日泣いていました。
    納骨の日は本当に悲しかったです。
    母の死の前後で食事ものどを通らず体重が10キロ減りました。
    自殺も考えた程でした。

    24年経って50歳を過ぎても母を思い出し涙が出てきます。
    ここ数年海外での滞在が多くなりましたが
    母の写真は必ず持参します。

    辛い時いつも母の優しさが思い出され涙が出てきます。
    時折母の写真に話しかけると優しい言葉が返ってくるような気がします。

    はなさま、皆様が仰るように我慢しないで思う存分涙を流して下さい。
    無理に立ち直ろうとせず時間に身を任せて下さい。

    私は母が亡くなって以来、母の遺影以外の写真やビデオも見ることができません。そして数年は病院のシーンも見ることができませんでした。
    どこへ出かけても母のことを思い出していました。
    主人の両親が健在で一緒に海外旅行に行ったときも
    母を連れて来てあげたかったと本当に辛かったです。

    優しいお母様だからこそ死を悲しみ辛いお気持ちになるのです。
    素晴らしいお母様に恵まれたことを誇りに思って
    ご自分を責めずにご自分のお気持ちに正直になさって下さい。

    私の息子は私がたとえ死んでもこのように悲しまないと思っています。
    それほど良い母ではないと自覚がありますので。
    24年経っても時折母を思い出し涙するほどよい母でした。

    私に比べればまだまだ日も浅いのですから
    お悲しみは当然だと思います。

    残暑も厳しいので体調を崩さないようご自愛下さいませ。

  6. 【3132329】 投稿者: よくやった  (ID:VKy9gaSlthQ) 投稿日時:2013年 10月 02日 16:52

    殺してない
    あなたの愛のある看護はお母さんはうれしかった
    あなたと一緒にいれてうれしかった
    あなたはよくやった
    すごくよくやった

  7. 【5032667】 投稿者: ちいちゃん  (ID:bauv9JUg882) 投稿日時:2018年 06月 21日 03:20

    私も五月に母を亡くしました。3月からずっと付き添い母の側にいたのですが
    最後の夜おしっこに行きたいと、トイレに行きベッドに戻されてからもおしっこと言ったらダメだよと言われておしっこの管を入れられ、力ない母がやめてくれと合図をしているのに無理やりされてしかも眠剤をお尻から入れられました。初めて菅を入れたためまだおしっこおしっこと言って私の手をつねろうとしたため眠剤入っているから足がふらついて危ないから朝になったら外してもらおうねと母に伝えたらうんとうなづきました。その間に四回も続けて鼻からと口から吸引をされたのですが看護婦さんは無理やりされて本人は朝からお水も飲んで居なかったためとても苦しかったのです。私に説明もなしにこの後に起こり得ることの説明もありませんでした。良く見てくれる看護婦さんだからと母に良く聞かされていたため私も信用仕切っていたのです。そのあとも何回か起き上がるため背中をさすってあげました。しかし眠剤も入れたし娘さんも寝てくださいと言われうとうとしてしまいました。突然電気がつき私もはっと起きましたら母が前に倒れて瞳孔が開いて居ました。看護婦さんは寝かせて酸素の確認をしましたが0でした。吸引により酸素が低下してしまった。私の声かけに三回も息をしてくれ目がどんどん閉じて行きました。呼吸が止まりました。ずっと側に居たのに私も自分をずっと責めています。辛いですよね。私もまだまだ立ち直りなくて看護婦さんにもかなり強い口調で言ってしまいましたがあの日の看護婦さんは強引でした。老人は病院に3月しか入院出来ない決まりがあると前に聞いたことがあります。母は殺されたのです。それなのに私は助けてあげれなかった。もう少し母との時間があったはずなんです。息を引き取るのが近かったとしても私の腕の中で抱き締めてあげたかったからずっと側に居たのに。残念で仕方ありません。瞳孔が開いていたあの顔が忘れられません。どうやって立ち直れましたか?私と同じあなた様の投稿をみて再度思い出して投稿してしまいました。お母様の供養しっかりしていきましょうね。49日は私はこれからです。しっかり供養して私も頑張って生きて行きたいと思っています。

  8. 【5032669】 投稿者: ちいちゃん  (ID:bauv9JUg882) 投稿日時:2018年 06月 21日 03:27

    あなた様の優しいメッセージ心に染みました。
    私も母を亡くしました
    母は私にありがとう
    ありがとう
    お前が居てくれて幸せだと病気になってからいつもいつも言ってくれて居ました。
    苦労ばかりかけた娘なのに。
    苦労かけてごめんねと伝えたらお前が居なかったら母さん死んじゃうと言って居たのに
    私が側に居たのに死んでしまいました。

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