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【4365770】左翼大学はどこですか?

投稿者: タイムライン   (ID:C/4.brq0pbQ) 投稿日時:2016年 12月 18日 08:54

日本の「戦後」の思想的混乱の原因は二つある。

知識人界における「戦前」からの流れを汲む共産主義革命への情念の横溢

連合国占領軍による日本の歴史や伝統など全てを「悪い過去」として断罪

東京裁判史観の浸透

東京裁判史観は日本の共産革命の土壌形成に実に有効で左翼に活用されている

講和条約発効と同時に占領軍欽定の現憲法の破棄できなかった理由

国旗(日の丸)及び国歌(君が代)に対するの反対運動

我が国の政府が共産主義体制でなければならない。

そのためには「赤旗」や「労働階級歌」が国旗であり国歌でなければならない

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  1. 【4366168】 投稿者: 社会学  (ID:vBrkalPXIOw) 投稿日時:2016年 12月 18日 13:46

    日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派=革マル派
    基本情報のついて
    結成は1963年4月
    機関紙は「解放」
    興味ある方は講談社文庫に立花隆『中核VS革マル』という書籍を一読されるといいでしょう。

    .ヘルメットについて
    白地に鉢巻状赤線に「Z」という文字が記されている。

    Zの意味について
    Zengakurenの頭文字を採ったという説
    最終革命を経て残るのは革マル派という

    共産党系の支配を批判し民青全学連から脱退した
    東京大学教養学部自治会は、「TCZ」と呼ぶ
    Tは「東京大学」
    Cは「Culture=教養」。

    左翼の教授に政治を教わることに抵抗がある学生も多いという。
    六大学は各学部に多かれ少なかれいろいろな立場の左翼系の教授はいらっしゃいます。
    しかし学生の大半は政治に無関心です。

    教職員は戦前から東大出身者が大半(おそらく80%以上)
    労農派マルクス経済学の巨星、向坂逸郎が寄贈した「向坂文庫」(国内外の様々な共産主義・社会主義・左翼運動・労働運動などに関する諸文献・資料の世界的なコレクションがあります
    図書館には、西田幾多郎の直弟子で、日本を代表する唯物論(マルクス主義)哲学者の戸坂潤が残した「戸坂文庫」、同じく西田幾多郎の直弟子で、日本を代表する哲学者(左翼に近い)の三木清が残した「三木文庫」があります


    学問は意見や立場の違う学説に耳を塞ぐことなく十分に相手の説を学びその上で批判するものですね
    むしろ、異なる者と如何に一致点、共通点、妥協点を見出し共生して行くのかを模索することが政治学の課題といえるでしょう

  2. 【4366813】 投稿者: 市立大学  (ID:rqdxt6lcUQ.) 投稿日時:2016年 12月 18日 23:47

    日本が武装解除を行った後、アメリカ占領軍はポツダム宣言が「有条件条約」であることを無視し、無条件降伏したと主張して勝手に振る舞うようになった。占領政策はほとんどすべてポツダム宣言違反であり、国際法に沿わないことが行われたのである。そしてそのことが日本に”敗戦利得者”を生んだことを忘れてはならない。

    その占領政策の一つが公職追放令だった。
    占領軍はまず、ミズーリ号での休戦協定調印式から約1ヶ月後の昭和20年(1945)10月4日、「政治的市民的宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」を発表し、内務大臣、警察幹部、特高警察全員の罷免と再任用の禁止を指示した。

    これを見てもわかるように、最初に占領軍が行ったことは戦前の左翼を押さえていた機関に属する人を、一挙に追放することだった。これが占領軍が一番最初にやりたかったことなのだ。左翼を押さえた期間を解体することが、占領軍民生局の第一にやりたかったことだった。なぜならルーズベルトの周辺、とりわけ占領軍民生局は左翼の巣であったからだ。

    終戦直後、アメリカ側の定めたプレスコードによって、完全なる言論統制が敷かれ、占領軍の批判は一切できなくなった。
    戦後の占領下、GHQの命令によって国家の中枢となるべき20万人以上の日本人が、戦争協力者という名前を冠せられ公職から追放された。


    公職追放令は、占領軍民生局のホイットニー局長とケーディス次長が中心となり、その右腕だった外交官ハーバート・ノーマンらによって発せられた。

    ホイットニーもケーディスも社会主義者であったことが今では明らかになっている。

    同じ昭和20年(1945)10月22日、占領軍は「日本の教育制度の運営に関する覚書」を出し、10月30日には「教職員の調査、精選、資格決定に関する覚書」を発して、軍国主義者や極端な国家主義者、占領軍政策反対者等を教育事業から排除するように命じ、また現在および将来の教員の資格審査を行うよう命じた。翌年5月7日には、「教職員の除去、就職禁止及復職等の件」がポツダム勅令として公布され、いわゆる「教職追放令」が行われている。

  3. 【4376635】 投稿者: 歴史的背景  (ID:pcY0VxdrE.o) 投稿日時:2016年 12月 27日 13:09

    戦前における在日コリアン一世の野球選手に、早稲田大学にも在籍した金永祚という人物がいる。
    金は朝鮮が日本の植民地であった時代に、家族
    と共に日本へ渡り、朝鮮料理の食堂を経営して生活していた。
    金の自宅は早稲田大学の近くにあり、野球部の練習を間近に見るうちに、野球に憧れを抱き野球を始め、持ち前の運動能力と、勝気な性格もあって朝鮮人であっても多くの日本人と交友した。
    戦後になると、1950年代から「在日僑胞野戦前における在日コリアン一世の野球選手に、早稲田大学にも在籍した金永祚という人物がいる。金は朝鮮が日本の植民地であった時代に、家族
    と共に日本へ渡り、朝鮮料理の食堂を経営して生活していた。金の自宅は早稲田大学の近くにあり、野球部の練習を間近に見るうちに、野球に憧れを抱き野球を始め、持ち前の運動能力と、勝気な性格もあって朝鮮人であっても多くの日本人と交友した。

    戦後になると、1950年代から「在日僑胞野球団」と呼ばれる在日コリアンの高校生で結成されたチームが毎年、韓国へ派遣され韓国の高校生と試合を行うようになる。これによって、在日コリアン選手は自らの民族について強い関心を持つと共に、現地の韓国人にとってはレベルの高い日本野球を吸収する格好の機会であった。
    結果として、「在日僑胞野球団」は韓国野球の発展だけでなく、韓国人が在日に向ける偏見意識の解消にも貢献することとなった。

    1981年の甲子園大会決勝戦は在日コリアンの選手が両校合わせて7名も出場した。7名中2名のみが朝鮮式の本名で出場しており、戦後35年が経過したこの時期においても本名を名乗らないという日本社会の状況を示している。球団」と呼ばれる在日コリアンの高校生で結成されたチームが毎年、韓国へ派遣され韓国の高校生と試合を行うようになる。
    これによって、在日コリアン選手は自らの民族について強い関心を持つと共に、現地の韓国人にとってはレベルの高い日本野球を吸収する格好の機会であった。結果として、「在日僑胞野球団」は韓国野球の発展だけでなく、韓国人が在日に向ける偏見意識の解消にも貢献することとなった。
    1981年の甲子園大会決勝戦は在日コリアンの選手が両校合わせて7名も出場した。7名中2名のみが朝鮮式の本名で出場しており、戦後35年が経過したこの時期においても本名を名乗らないという日本社会の状況を示している。

  4. 【4376688】 投稿者: 併合前から  (ID:pcY0VxdrE.o) 投稿日時:2016年 12月 27日 14:00

    明治時代の京都は舞鶴まで鉄道を敷こうという計画があり1899年までに京都市から園部まで鉄道を完成させています。日露戦争の後、政府の鉄道国有化方針に従って朝鮮人労働者が雇われていたことが新聞記事からわかります。『京都日出新聞』の1907年6月の新聞によりますと朝鮮人が請負人に雇われ、日本人と同じくらいの賃金をもらっていたこと、労働者として高く評価され歓迎されていたことがわかります。しかし、本当にこの記事の通りだったかどうかは疑問なのですう。なぜなら『萬朝報』同年8月には朝鮮人労働者が「日本工夫の虐待」に加えて「警官も亦常に日本工夫に左袒〔味方〕」したとあります。併合前から不当な扱いを受けていたと思われます。しかし異国の地で働くというのは日本人も中国人もアメリカの地で同等な扱いを受けていたのです。つまり日本の明治の近代化に併合前でも朝鮮労働者が多く存在したということです。おそらく今のロシアの北方領土でも北朝鮮や中国の労働者が多く観られることでしょう。つまり戦争とか植民地とか概念ではなく母国で失業し食べるものに困ったとき一歩進んだ先進国は労働者不足のため外国人を雇うという関係性の中にいたということを覚えていてもらいたいと思います。併合後明治天皇が死去し明治天皇の陵墓の工事に朝鮮人が従事していたというのも事実でイデオロギーとかそういうものではなく需要があって供給したというだけの関係なのです。もちろんNHKのおしんのドラマ背景よりももっと昔から日本の師弟関係は厳しいものだったといえるでしょう。      
    併合後は土木以外の仕事でも働く朝鮮人は多く存在し、早稲田に通う学生なんかも存在したのが戦前の日本の姿です。師弟関係に従順な日本人と比較して朝鮮人は「同盟罷工」〔ストライキ〕をしたりする人も多く社会主義的な行動に目覚める朝鮮人も多く存在しておりました。1911年8月の『京都日出新聞』には、京都市内で飴売りをする朝鮮人六人が下京区の旅館で賭博をしていたところ、警察に検挙されたことを報じる記事なども出ています。移民を受け入れるというのは今までの日本の風習とは違う異なった文化が導入されます。それを治安が悪くなったということで取締りがこのころ多く見られるようになります。京都市内の電車車掌になった朝鮮人がいるという記事が1913年に見られます(『京都日出新聞』一2月)。京都駅から堀川通りを通って北野神社まで行く電車を運行する京都電気鉄道株式会社の車掌に、慶尚南道咸陽郡出身の姜在宇という朝鮮人が雇われているとされています。姜は、朝鮮で「内地語学校」を卒業した後、「語学の実地研究の為」、「実兄が鐘紡の下京工場に勤めて居るのを頼って」京都にやって来て、多くの人に接することができる車掌をすることになったといいます。つまり併合前は土木などの労働者として雇い入れたものの併合後は別の職種へ移行していった朝鮮労働者が多く存在したのです。その中で多くの私大は異国の人たちの留学も促進し朝鮮人の学生も少なからず存在したということです。

  5. 【4377075】 投稿者: 私大はね 留学生好き  (ID:KHDh8LSqqjM) 投稿日時:2016年 12月 27日 21:15

    今から131年前の1884年(明治17)10月、東京専門学校(早稲田大学の前身)は最初の留学生を受け入れる。朝鮮人留学生である申載永(1864-1931)と嚴柱興(1858-1908)の二名である。1882年(明治15)の開校から僅か2年後のことであった。さらに翌1885年(明治18)には金漢琦(生没年不明)が入学している。彼らはどのような経緯をたどって東京専門学校に入学し、そして帰国後はどのようなキャリアを歩んだのだろうか。
    当時の留学生をめぐる歴史的背景について触れておく。近代以降、日本の教育機関への本格的な留学生派遣は、1883年(明治16)5月と7月に来日した60名余りの朝鮮人学生に始まる。この留学生派遣事業は福澤諭吉と金玉均の尽力により実現したものであり、東京専門学校へ入学した3人の学生もこの時日本へ留学した。慶応義塾の関係者・牛場卓三や松尾三代太郎に率いられた朝鮮人学生たちは、はじめ慶応義塾に下宿し基礎的な教育を受けたのち、より専門的な教育機関へと入学した。詳細は不明だが、一部の学生は陸軍戸山学校で軍事教育を受けている。この学生のなかには、のちに朝鮮独立運動で活躍する徐載弼の名前もある。
    そもそもこの事業を推進したのは、当時朝鮮王朝内で朝鮮社会の近代化を目論んだ金玉均や朴泳孝などの、いわゆる開化派青年貴族たちであった。陸軍戸山学校で学んだ学生を中心とした約20名の留学生は1884年7月朝鮮へ帰国したが、その後1884年12月に開化派による軍事クーデター・甲申政変が勃発すると、留学生の多くがこれに参加した。甲申政変は開化派の敗北におわり、留学生の多くはクーデター中に殺害、あるいはクーデター後に処刑され、生き残った徐載弼や鄭蘭教などは金玉均とともに日本へ亡命した。
    開化派の失脚後、日本への留学生派遣事業は中止され、朝鮮政府は日本への留学生に帰国を命じた。命令を受けた留学生の多くは帰国後に処罰されることを危惧し、政府からの命令に背いて、その後も日本での留学を継続した。
    さて、東京専門学校への最初の留学生たちの事情をみてみよう。申載永と嚴柱興は、日本への留学当初に慶応義塾や税関などで学んだのち東京専門学校へと進んだ。1884年10月、申載永は政治経済学科に、嚴柱興は法律学科に入学した。しかし甲申政変によって彼らの日本留学も中止され、1885年1月に二人は東京専門学校を退学する。申載永と嚴柱興が東京専門学校で学んだのは僅か四ヶ月であった。その後、嚴柱興はみずから帰国を申出で、甲申政変後の外交交渉のため日本に派遣された徐相雨使節とともに同年3月帰国した。申載永の帰国時期に関する記録は残されていないが、おそらくは徐相雨使節と同時期に帰国したと考えられる。

     これに対して金漢琦は帰国命令を拒否して日本での留学を継続した。1883年9月に慶応義塾に予科の正規学生として入学した金漢琦は、1885年7月まで在籍したのち、1885年10月に東京専門学校英学科に入学した。しかし入学から五か月後の1886年2月頃、金漢琦は東京専門学校を退学し、同年5月に帰国した。

    帰国後の留学生たち


    1887(明治20)年7月 東京専門学校卒業記念。
    校舎入口に大隈重信の姿がみえる。大学史資料センター所蔵。

     帰国後、彼らはどのようなキャリアを歩んだのであろうか。申載永と嚴柱興は外交実務を担当する統理交渉通商事務衙門に就職したが、のちに数年間流刑される。両者ともに甲午改革期に復職していることを鑑みれば、開化派との関係によって処分された、と考えてよいだろう。

     1890年代半ば以降、申載永は法部検事局長や公訴院判事など、司法官僚としてキャリアを形成した。1910年(明治43)の「韓国」併合以後も司法官僚としてのキャリアを継続し、判事として義兵運動に対する取り締まりや義兵関連裁判に深く関わるなど、地方官吏として生涯を終えた。嚴柱興も復帰後は税務視察官などをつとめたが、1908年に50歳で逝去した。

     一方、金漢琦の帰国後における活動は全く不明であるものの、開化派との関係から処刑されたことが多くの研究で指摘されている。

     今から100年以上前の東京専門学校への朝鮮人留学生たちの生涯は、当時の東アジア情勢に大きく左右されるものであった。いうまでもなく、現在の留学生をめぐる環境とはまったく事情が異なっているものの、大きな政治的奔流に巻き込まれてゆく留学生たちの姿と現在の留学生の苦悩を重ね合わせることも不可能ではない。

     また、創立直後の東京専門学校が既に留学生を受け入れていたという事実、また1900年には学苑による留学生派遣事業が開始されたことは、アジアに開かれた早稲田大学の歴史を考えるうえで多くの示唆を与えてくれる

  6. 【4377401】 投稿者: 駅弁も早慶も左翼の溜り場沖縄  (ID:154xm7Z5E/c) 投稿日時:2016年 12月 28日 07:20

    大東亜戦争終戦の時点で日本に、韓国・朝鮮系の「住民」が約200万にいたがほとんどは朝鮮半島に戻り、日本への定住を決めたのはその約1割だった。その後、日本政府が受諾したポツダム宣言には全く記載がないことだが、占領軍は日本の警察権は日本国民にしか及ばないとし、占領軍兵士に加え、日本に住んでいた第三国人にも日本の警察権はおよばないとした。その結果、第三国人による犯罪が頻発し、見かねて止めようとした警察官が殺されるという事件が頻発する。
    昭和21年頃、大量の朝鮮人が朝鮮半島から日本に渡ってきた。違法行為を行っても司法権が及ばないとなれば、金儲けは簡単である。
    彼らが日本に来てやり始めたのは、密輸、密造酒の製造販売等々だった。違法のビジネスを行っても逮捕されなかった。しかしそのような好条件においても成功できなかった人たちが「その他」の職業についた。こうして大儲けした連中がいたのだ。


    サンフランシスコ条約が締結され、日本が独立し警察権を確立するに際して、上記の後で渡ってきた日本住民、特に「その他」の職業についていた人たちは、「やばい」状況になり、もともとの日本人で「その他」の職業についていた人達共々、当時まだ日本の主権が及ばない沖縄に大量に流れていくことになった。

  7. 【4377716】 投稿者: 横スレ  (ID:mKzG/lGs.Tk) 投稿日時:2016年 12月 28日 12:35

    >明治時代の京都は舞鶴まで鉄道を敷こうという計画があり1899年までに京都市から園部まで鉄道を完成させています。日露戦争の後、政府の鉄道国有化方針に従って朝鮮人労働者が雇われていたことが新聞記事からわかります。『京都日出新聞』の1907年6月の新聞によりますと朝鮮人が請負人に雇われ、日本人と同じくらいの賃金をもらっていたこと、労働者として高く評価され歓迎されていたことがわかります。しかし、本当にこの記事の通りだったかどうかは疑問なのです。なぜなら『萬朝報』同年8月には朝鮮人労働者が「日本工夫の虐待」に加えて「警官も亦常に日本工夫に左袒〔味方〕」したとあります。併合前から不当な扱いを受けていたと思われます。しかし異国の地で働くというのは日本人も中国人もアメリカの地で同等な扱いを受けていたのです。つまり日本の明治の近代化に併合前でも朝鮮労働者が多く存在したということです。おそらく今のロシアの北方領土でも北朝鮮や中国の労働者が多く観られることでしょう。つまり戦争とか植民地とか概念ではなく母国で失業し食べるものに困ったとき一歩進んだ先進国は労働者不足のため外国人を雇うという関係性の中にいたということを覚えていてもらいたいと思います。







    1890年頃からはじまったとされる石炭の採掘事業、NHKのあさドラでも広岡浅子が潤野炭鉱を買収したのは明治19年(1886年)だった。石炭は日本の近代化の基幹的な役割を担ってきたということだろう。
    1957年に売春防止法が施行されるまでは、炭鉱で有名な島、軍艦島に「遊廓」もあったという。驚かされるのはうちの1軒は朝鮮人専用だったということだ。
    1933年の長崎新聞に、遊廓『本田』の記事が取り上げられ『炭粉にまみれた鉱夫たちの荒くれた心身を愛撫してくれる。これもまた端島の持つ一断面である』と。
    この『本田』と『森本』が日本人用の遊廓で『吉田』が朝鮮人専用の遊郭であったという。
    それだけ朝鮮人労働者が多く言葉の壁があったために朝鮮人の遊郭も必要性があったということだろうか?
    炭鉱で働く人間は1920年代あたりから増え続け1941年の戦争が始まるとその数はピークに達し朝鮮人約500人以上中国人約200人以上が存在したという
    戦局が悪化すると同時に戦地に赴く日本人が増え労働者不足に悩んだ政府は1944年(昭和19年)8月8日、国民徴用令の適用を免除されていた朝鮮人にも実施するとして閣議決定がなされ1944年9月より実施され1945年8月の終戦までの11ヶ月間実施されたのだった。

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