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【4398131】なぜ反日なのか?

投稿者: 利用   (ID:t7IX6N7F/Ww) 投稿日時:2017年 01月 15日 07:44

この国を呪縛する歴史問題より



金日成はもともと抗日パルチザンで、彼が率いる東北抗日聯軍が日本の討伐作戦で壊滅状態に陥ったときソ連に逃げたという人物ですから、ある意味、抗日・反日には筋金が入っています。一方の李承晩は李朝の上流階級である両班(リャンバン)の出で、若い頃から永らくアメリカに留学・在住し、朝鮮独立運動家ということになっているが、これといった目覚しい活動をしたわけではありません。

1919年に上海で結成された大韓民国臨時政府の初代大統領になったというのが、李承晩の独立運動家としての唯一の経歴らしい経歴ですが、それもアメリカの後ろ盾があってのことで、大したことは何もしていません。それどころか国際連盟による朝鮮の委託統治を提案して仲間から総すかんを食い、早々に上海から逃げ出しています。

ただアメリカの後ろ盾があったということは、在米中のロビー活動でそれなりの人脈を持っていたということですから、それが戦後になってものをいって韓国の初代大統領におさまった。アメリカとしても傀儡(かいらい)としてこれほど好都合な人物はいなかったということでしょう。

その李承晩がまず最初にやったのは徹底した反共反日政策です。李承晩は朝鮮が日本の統治下にあった時代のほとんどをアメリカで過ごしていて、いわゆる「日帝36年」(実際には35年だが韓国では36年ということになっている)の朝鮮の実態を知りません。にもかかわらず日帝時代を懐かしむような言行のあった者は共産主義者と同様の反政府分子として容赦なく処罰しました。

李承晩がアメリカの承認を得て大統領になった1948年当時は、当然のことながら韓国国民はみな日本統治時代のことを知っていたわけで、それゆえ過去を懐かしむということも多々あったわけですが、そうした親日的な人々が次々に投獄されることになった。李承晩が大統領に就任してからの2年間に、こうした政治的弾圧によって投獄された人々の数は、日本統治時代を通じて投獄された人々の総数を超えるほどだったといわれています。

もちろん学校教育においては反日教育が徹底的に行われました。日本の出版物やテレビドラマ、歌謡曲などの大衆文化も「公序良俗に反する」として輸入や放送が規制されました。こうした規制は延々半世紀にわたって続き、部分的ながら開放されるようになったのはつい最近のことにすぎない。



高い身分の人間だった抗日運動となって
ロシア側 アメリカ側に分断されていた。

日本人も今分断工作にあってます


ロシアからの逃亡者がアメリカ人となり
工作活動を継続していたわけだから
帝国日本の崩壊に朝鮮人は好都合


レーニン時代を懐かしむ人間がいまだに
日本にも朝鮮にもロシアにも存在している

ほとんどの諸国民は自由リベラルを
愛しているにもかかわらず

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  1. 【4398150】 投稿者: 亡命  (ID:GDftG/fPOCo) 投稿日時:2017年 01月 15日 08:13

    抗日パルチザンの末裔が亡命


    ロンドンの北朝鮮大使館のナンバー2が家族とともに韓国に亡命したことが明らかになったテ・ヨンホ駐英公使の妻が、抗日パルチザン時代からの金日成(キム・イルソン)主席の同志の一族である可能性が取り沙汰されている。


    「革命第1世代」の一族の亡命が事実であれば、“血統”を政権の正統性に掲げてきた金正恩(ジョンウン)体制に与える衝撃は大きい。


     韓国紙、中央日報によると、テ・ヨンホ氏の妻は呉白竜(オ・ベクリョン)元国防副委員長の一族出身。テ氏自身、金主席の伝令兵だったテ・ビョンリョル元朝鮮人民軍大将の子息であるとの情報もあるが、確認されていない。

     文化日報は18日、金正恩・朝鮮労働党委員長がテ氏の亡命に激怒し、外国で暮らす外交官や貿易関係者の家族に対し、北朝鮮への召喚命令を発したと報じた。

    “人質”を取って亡命を防ぐのが狙いという。
    聯合ニュースは同日、亡命を阻止するため、海外各地に検閲団が急派されたと伝えた。いずれも真偽は不明だ。

     テ氏をめぐっては昨年5月、ロンドンで著名ミュージシャンの公演を鑑賞した金委員長の実兄、金正哲(ジョンチョル)氏に随行していたことが確認されている。

    金ファミリーに関する内部情報をもっている可能性があり、韓国情報機関の国家情報院が保護などに当たるとみられる。

     朝鮮日報によると、北朝鮮では外交官らエリート層の亡命が相次いでいる。7月にはロシア駐在の外交官、昨年5月にはエチオピア駐在の外交官がそれぞれ亡命したという。

     テ氏の亡命をすでに知っていた韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は15日の演説で、エリート層を念頭に「北朝鮮当局の幹部とすべての北朝鮮住民の皆さん」と呼びかけ、「統一は、幸福を追求できる新たな機会を提供するものです」と強調していた。




    パククネが北勢力に憎まれていることは
    理解できる

  2. 【4398156】 投稿者: パルチザンが日本を嫌う理由  (ID:GDftG/fPOCo) 投稿日時:2017年 01月 15日 08:23

    日本とドイツの同盟が数々の災いを生んだ可能性




    ゲットーおよび収容所から何とか逃れた一部のユダヤ人は、独自の戦闘集団を形成しました。このような戦闘員(パルチザン)は、深い森林地域に集結していました。占領下のソ連地区の大規模なパルチザンのグループは、リトアニアの首都ヴィリニュス近郊の森に隠れていました。彼らは、数百もの列車を脱線させ、3,000人以上のドイツ兵を殺害しました。

    深い森林内でのパルチザンとしての生活は過酷なものでした。人々は、発見されるのを避けて場所を転々とし、農家の備蓄食料を奪い、丸太と枝で創った粗末な隠れ家で冬を過ごさなければなりませんでした。地元の人々がパルチザンに対して協力的な地域もありましたが、多くの場合、反ユダヤ主義が広範囲に及び、また支援した場合の厳しい処罰を住民が恐れたため、支援を受けることはできませんでした。パルチザンは、ドイツ軍に自分たちの居場所を知らせる地元の通報者に絶えず怯えながら生活していました。

    多くのユダヤ人は、フランスとイタリアで結成されたパルチザン部隊に参加し、正規の連合国軍がドイツ軍を攻撃するのを支援しました。彼らは、文書や身分証明書を偽造し、反ナチスのパンフレットを印刷し、ナチスの協力者を暗殺しました。

    23歳のハンナ・セネシュは1939年にパレスチナに移住したハンガリー系ユダヤ人で、レジスタンスと救援活動を組織するために英国がドイツ戦線に投入した32人のパレスチナ落下傘部隊員の1人でした。1944年6月7日にハンガリーの国境を越え、ハンガリー系ユダヤ人に絶滅収容所について警告する前に、セネシュは詩人でもあったため、彼女の仲間の1人に詩を渡しました。その詩は、「恵みあれ。死を賭しても名誉を守る強い心に。恵みあれ。燃え立つ炎となるマッチの命に。」という行で終わっています。セネシュは翌日に捕らえられ、ハンガリーの裏切り者として処刑されました。

    重要な日付
    1941年7月20日
    ミンスクでゲットー設置命令、レジスタンスを誘発
    1941年7月20日、ドイツ軍がミンスクでゲットーの設置を命令します。ゲットー設置後の数日間で、数千人ものユダヤ人が虐殺されます。ゲットーに住むユダヤ人は1941年8月に地下レジスタンス組織を結成します。この地下組織のメンバーはゲットーの住人に情報を広めるために出版物や新聞を発行します。さらに地下組織は、ゲットーのユダヤ人に隠れ場所を見つけるためにゲットー外部のパルチザン組織とも連絡を取り合います。1942年3月、ドイツ軍はミンスクのゲットーで数千人を虐殺するという行動を起こします。その後すぐに地下組織のメンバーはゲットーを離れて森へ逃れてパルチザン組織を結成し、ドイツ軍と戦います。森を拠点とするパルチザンはユダヤ人をゲットーから救出し、森に連れ出します。1944年までに約1万人のユダヤ人がミンスク・ゲットーから森へ逃れようとしますが、その多くが途中で命を落とします。

    1942年1月
    フランスのユダヤ人軍隊
    フランスのトゥールーズで、シオニスト青年部によってユダヤ人軍隊(Armee Juive、AJ)が結成されます。この軍隊はフランス全土で活動を行いますが、特に南部での活動が活発です。メンバーはユダヤ人と非ユダヤ人の青年やレジスタンス組織から採用され、軍隊およびサボタージュ活動で訓練を受けます。またメンバーは、ユダヤ人救援組織へ分配するための現金をスイスからフランスへこっそり持ち込みます。この現金は隠れ家に住んでいる何千人ものユダヤ人を助けます。ユダヤ人軍隊はドイツ人に協力する人の何人か暗殺し、国境を超えて中立国であるスペインに、約500人のユダヤ人と非ユダヤ人を密かに入国させます。1943年と1944年にユダヤ人軍隊は、シャルル・ド・ゴール将軍が率いるフランス国内軍(FFI)を含む連合国軍と密接な関係を築きます。1944年、フランス解放の最中にドイツ軍占領に対するパリ、リヨン、トゥールーズで蜂起する反乱にユダヤ人軍隊も参加します。

    1942年1月21日
    ヴィリニュスの統一パルチザン機構
    ヴィリニュス郊外のパネレイで起こった大量虐殺のニュースを聞いてシオニスト青年活動のメンバーは、ヴィリニュス・ゲットー内に統一パルチザン機構(Fareynegte Partizaner Organizatsye、略称FPO)を創設します。この組織はゲットーを破壊すると脅かされる場合に備えてドイツ軍への抵抗運動の準備をします。また、武器を獲得したり、レジスタンスを支援するため、その他のゲットーと連絡を取り合います。1943年9月初旬、ユダヤ人をゲットーから移送する途中のドイツ軍と、FPOメンバーによるレジスタンスが戦闘を行います。FPOはゲットーを放棄して近隣の森へ逃れ、ゲットーの外からドイツ軍と戦うことを決意します。1943年9月23日、ゲットーの破壊に、レジスタンス兵士の最後のグループが下水道を通じてゲットーを逃れ、ルドニンクとナロチの森を拠点とするパルチザン部隊に合流します。

  3. 【4398166】 投稿者: パルチザンには敵が必要  (ID:sGbNtaTvu8o) 投稿日時:2017年 01月 15日 08:31

    抵抗する相手(悪)がいてこそパルチザンの存在意義はある。相手がいなければ只の血に飢えた武装集団やカルト集団だから。たとえ相手が羊でも悪魔に仕立てあげる必要がある。
    カルト国家とは距離をおくのが成熟した先進国。

  4. 【4400479】 投稿者: 怒り  (ID:WYQ2zYMo9Ts) 投稿日時:2017年 01月 16日 23:35

    昭和6年(1931年)5月、日本軍参謀本部は対ソ戦争に備え、興安(こうあん)嶺方面の兵要地誌調査のため、中村震太郎大尉を派遣しました。中村大尉はチチハル南方で旅館を営む騎兵の井杉延太郎予備役曹長、ロシア人ローコフ、蒙古人の包某の4人で偵察行を続けていました。6月下旬にはトウ南(チチハルの南)に姿を現す予定でしたが、7月に入っても姿を見せません。そこで関東軍参謀の片倉衷(かたくら ただし)が潜行捜査にはいりました。
     中村大尉一行は6月25日に張学良軍に逮捕、拘禁され、拷問にかけられ、山中で銃殺され、その上、石油をかけられて焼かれたことがわかりました。奉天の林総領事は遼寧(奉天)省長、張学良参謀長に詰問しましたが、シラをきったため、実力調査を本国へ申請しました。ところが幣原外相は相変わらずの軟弱で、あくまで外交交渉でカタをつけようとしました。
     事件の真相が日本国民に知らされたのは8月に入ってからでした。マスコミに発表されると日本国民は激昂し、満州問題に解決に向けて世論は盛り上がりました。
     後に満州問題を調査したリットン調査団報告
    「中村事件は他の如何なる事件よりも一層日本人を憤慨せしめ、遂には満州国に関する日支懸案解決のため実力行使を可とする激論を聞くに至」
     8月下旬の満州は事実上交戦直前の状態となり片倉参謀にいわせると「山雨至らんとして風楼に満つる」という状態でした。



     朝日新聞社説 昭和6年8月18日

    「(前略)今回我が現役将校外1名に対する未曾有の暴虐きわまる惨殺事件が満州の支那官憲の手によってなされ、その驚くべき事実が暴露するにいたったのは、支那側の日本に対するけう慢(あなどるという意味)の昂じた結果であり、日本人を侮蔑し切った行動の発展的帰着的一個の新確証であるのだ。(中略)今回の出来事は、平和の日に土賊鎮圧の任務を有しつつ同地方の開こんに当たっている鄒作華部下の正規兵によって行われたもので、日本側は旅行券の所持はもちろん条約上からいっても旅行の上に何ら手落ちはなかったのである。然るに不法にも捕縛銃殺、所持品全部を略奪した上、罪責をおほふため、死体を焼くに至り、土賊といえども敢えてせざる残虐をほしいままにしたのである。(中略) 支那側に一点の容赦すべきところは無い。わが当局が断固として支那側暴虐の罪をたださんこと、これ吾人衷心(ちゅうしん)よりの心である」
     度重なる排日侮日、条約違反、国際法違反、万宝山での朝鮮人迫害などが積もり積もって、とうとう中村大尉殺害事件によって沸点に達しました。
     8月3日、東京新橋の湖月で陸軍首脳部が会食を行いました。満蒙問題について話し合いが行われました。しかし、会議は揺れに揺れてまとまりません。この席上に関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐が出席していました。そして板垣大佐は朝鮮軍の神田参謀に耳打ちしました。
    「今年の10月にはやる」
     関東軍参謀の石原莞爾の描いた満蒙問題を一気に解決する計画は10月を待たずに実行されることになります。それには朝鮮軍に応援を頼む必要があり、朝鮮軍にしても間島地方の抗日運動を抑え、朝鮮半島に影響がないようにしなければなりません。
     張学良側が中村大尉殺害を全面的に認めたのは9月18日の午後3時のことでした。しかし、時既に遅く、この夜、柳条湖で南満州鉄道の線路が爆破されます。満州事変の勃発です。

  5. 【4400501】 投稿者: 近隣  (ID:oVw5jickEcA) 投稿日時:2017年 01月 16日 23:46

    アメリカがメキシコに厳しい態度を取っていることがクローズアップされていますが、実は、アメリカとカナダも非常に仲が悪いんです。

    近隣の国で仲がいい例はほとんどありません。
    どうしてだかわかりますか?

    近隣で、仲が良かったら合併すればいいだけのこと。
    別々の国である、という時点で仲が悪いものなのです。

    反日、反韓、反中。それがデフォルトなんですよ。
    そうじゃなかったら、気持ち悪い。

  6. 【4400530】 投稿者: 我慢の限界  (ID:nGQ2LEnbmcM) 投稿日時:2017年 01月 17日 00:03

    温厚な日本人が、堪えきれず感情を表し始めた。

  7. 【4400554】 投稿者: 女と子どもが虐殺する恐怖  (ID:O4YaFUmXBZ6) 投稿日時:2017年 01月 17日 00:22

    日露戦争が終わると、日本は、ロシアが満洲に持っていた権益を合法的に手に入れたのですが当時の満州は馬賊と阿片によって治安は最悪のものとなっていました。清の弱体化とロシアの南下は田畑は荒らされ、満州人や朝鮮人の女性は強姦され子供たちは虐殺されていました。元気のある男性は馬賊になって徒党を組んで強盗団にならなければ生きていけなかった状態が当時の満州です。その中で日本人は生真面目に馬賊を退治し法を定めて治安を保ち産業を興し農業を活性化し道路や街を作りました。リットン調査団ですら賞賛せざるを得なかった街づくりを行ったのですがそれを良いと思わない人間も多くいたのです。

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