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投稿者: 今から40年前の謎 (ID:AXe.yTppeII) 投稿日時:2014年 04月 29日 22:23
<近藤唯之氏の戦後プロ野球50年より抜粋>
江川は慶応商学部、法学部、文学部の3学部を受験したが全て不合格だった。
慶応は初めから江川を熱心に誘っていた。 それなのに江川ほどの超大物がなぜ、慶応に落ちてしまったのか。
これはいまだに謎である。 江川が慶応に落ちたとき、慶応野球部某OBは次のような感想を話す。
「さすがに慶応義塾だと思いましたね。 野球ができるだけの子は入学させないわけですから・・・」
また次のような話題も伝わってきた。 最後の慶応文学部発表当日、慶応某首脳部が慶応の教授会に顔を出して、
「江川君はどうしました?」と聞いた。
或る慶応の教授が「江川君は不合格でした」と返事をすると、
この慶応某首脳部は笑顔で、やっぱりね!と答えたという。
「だから、どうなんだ」と問い詰められても困る。
しかし、こういう話の行間に、なんとなく江川は(慶応の関係者に)あまり好かれていなかったのかという思いも、伝わってくるような気がする。
インター・エデュのユーザーの皆さん、以上の話は今から40年以上前の、1974(昭和49)年2月頃の、当時、讀賣巨人に入団できなかった作新学院・江川卓が、プロ野球へ進まなかった為、急遽?東京6大学野球、とりわけ私学の名門・慶応義塾大学を受験した時の、こぼれ話です。
今から40年前の話になりますが、なぜ、慶応義塾は最初、高校野球界の怪物・江川を熱心に誘っておいて、結果的に、江川を忌み嫌い、手の平を返すような事をしたのでしょうか?
巨人、巨人と巨人に固執し過ぎた江川を、私は、人間的にあまり好きではありませんが、だけど、慶応義塾は今現在も矛盾に満ちております。
それは、江川ほどの超大物は試験に落として、智弁和歌山の野球バカたちを慶応は入学させているから、です。
野球の好きな、エデュ・ユーザーの皆さん、今から40年前の謎を、私スレ主と一緒に考えてみませんか。
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【3978745】 投稿者: スレ 主 (ID:wxYksyCuK9M) 投稿日時:2016年 01月 31日 08:41
ただ、次のようなレス文の意見を付けるのも、大変恐縮ですが、
江川 は昭和30(1955)年5月生まれの人間(怪物という異名は有るが・・・)で、
彼が現役高校3年で大学受験していた年代は、昭和55(1980)年度の代ゼミ・データの時代ではなく、
昭和48(1973)年度とか、昭和49(1974)年度の時代だから、
昭和55(1980)年度の代ゼミ・データよりも、遡ること、更に6〜7年前のデータで考えないとイケないというのが私スレ主の率直な感想です。
私が昭和40(1965)年生まれで、私の1番上の姉が昭和32(1957)年生まれで、
確かに、1番上の姉の大学受験時代は、国立大学が1期校・2期校 の時代であり、今の時代では到底考えられませんが、
1番上の姉の大学受験時代は、国立大学のレベルで言えば、九州大学・広島大学・東北大学に合格(受かる)のレベルの受験生が私大は慶応・早稲田を受験して、かなりの受験生の数が受かって(合格して)いた時代だったと弟の私は親からも、姉からも聞いています(事実)ので、
その話も、今となっては、かなりの隔世の感、時代は変わるなぁ〜というのを物語る話です。
エデュの皆さん、物事を掘り下げて考えるという事も、時には、楽しいものですね。 -
【3978981】 投稿者: あまりにもお馬鹿すぎて入れなかった (ID:NXlAM3fWG0Y) 投稿日時:2016年 01月 31日 13:10
1977年まではさかのぼれました。数年で偏差値の序列はあまりかわっていないようです。
慶應文 68
慶應商 65
慶應法 63
法政法 58
http://www.[削除しました].jp/gakurekidata/hensa1977.html
[削除しました]のところに、[削除しました].を入れてみてください。
これにも法政法二部の偏差値はでていません。
慶應が江川を不合格にしたのは、ただ単に勉強があまりにもできなさすぎたというだけで、何ら他意はないと思います。少しできないぐらいなら、ゲタをはかせて入れたんでしょうけどね。江川を入れようとする動きは、慶應内外であったのは確かのようですが。 -
【3978984】 投稿者: あまりにもお馬鹿すぎて入れなかった (ID:NXlAM3fWG0Y) 投稿日時:2016年 01月 31日 13:11
削除しましたの部分は
[削除しました].です。 -
【3978993】 投稿者: きゃりー神ゅ神ゅ (ID:sQ4shqzspx6) 投稿日時:2016年 01月 31日 13:18
>削除しましたの部分は
>[削除しました].です。
ウケた。笑
w -
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【3979007】 投稿者: あまりにもお馬鹿すぎて入れなかった (ID:NXlAM3fWG0Y) 投稿日時:2016年 01月 31日 13:29
英数字だけでは入らないのですね。
”ジオシティーズ”を英語に直して入れてみてください。 -
【3980527】 投稿者: 二俣川 (ID:.48vVd6XXhs) 投稿日時:2016年 02月 01日 16:08
今でも、あの時の慶應の態度には理解できないものが残る。
我われの時にでも、少数ながら慶應にもスポ―ツ入学枠(法学部政治学科)があると伝えられていた。
現に、その後慶応は高松商業の4番打者を現役合格させている。
聞けば、同校の進学率は高かったとのことだが、それにしても、ね。
なお、たしかに当時の慶應の偏差値は概ね早稲田より低かった。
また、法政のみならず、明治などの選手にも2部の選手がいた。
むろん、故大沢親分自称のように、多くは「野球部」卒であり、
正式な学士ではない(厳密には中退)。
※早稲田監督を務めたO氏も中退組であったと報じられていたように思う。 -
【4037633】 投稿者: 率直な意見・考え (ID:k7Z0lt8XI..) 投稿日時:2016年 03月 15日 08:50
元巨人の江川が作新学院の高校3年(昭和48年度)の年の秋は、
彼にとって最初のドラフトの秋でもあったし、その頃は第1次オイル・ショックの時代で、当時の巷(世間)ではトイレットペーパー買い占め騒ぎも起きた時代でした。
当時、私は小学2年生で、今ではかすかな記憶ですが、当時の私は、江川が慶応に落ちたというニュースを聞いた時は、江川には慶応に入って欲しかったという考えでしたが、
あれから40年以上の歳月が流れて、今にして私が思うのは、今となっては、江川も、慶応も共に、双方の言い分はフィフティ・フィフティじゃないか?と考えます。
確かに、歴史的に考えてみても、江川が慶応を受験した事で、慶応大学の受験の難化が著しくなったのは事実ですし、
慶応のサイドに立って考えれば、慶応が江川の入学入部を拒んだ事で、それは慶応の大学野球部の弱体化に直接つながった(慶応大学野球部が東京6大学野球でリーグ優勝を果たしたのは、昭和60年秋、何と!13年ぶりのリーグ優勝。あの山下大輔選手以来の優勝でした。)し、デメリットも有れば、メリットも有るで、どちらも言えるし、考えられ、よって、江川サイドに立って考えても、慶応サイドに立って考えても、やはり、双方、フィフティ・フィフティだと思います。
ただ、そうは言っても、江川の慶応受験から40年以上もの時間が経過している訳ですから、慶応も、江川も双方、今となっては、両者、互いに和解すべきだと私は思いますが・・・。 -
【4039139】 投稿者: 二俣川 (ID:.48vVd6XXhs) 投稿日時:2016年 03月 16日 10:54
今朝の『朝日』朝刊に江川の慶應受験に関わる疑問の答えが書かれていた。
案の定、江川に関しては野球部としての「下駄」をはかせなかったようだ。
慶應らしいやり方ではある。