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【4173236】戦前の日本は左翼国家、反日国家だった

投稿者: 今の日本は戦前と同じ   (ID:fV1MWPx5wt.) 投稿日時:2016年 07月 08日 00:17

一、国家社会主義勢力による革命
左翼(共産主義勢力)は「資本主義は、状況によってはファシズム(全体主義)、軍国主義と化し、対外侵略戦争を引き起す。戦前がそうだ。だから資本主義は廃絶しなくてはならない」と主張する。だが、これは全く誤っている。
歴史の偽造だ。
自由主義(資本主義と民主主義)はファシズム、軍国主義と無関係である。
そればかりか、戦前のファシズム、軍国主義、その対外政策と戦ったのは、
昭和天皇をはじめとする自由主義勢力であった。


一九三0年代の日本では、「革新」「国家改造」「昭和維新」、つまり革命がなされたのである。
自由主義国家日本は打倒されてしまった。
この革命の担い手は、軍部であり、マスコミであり、民間団体であった。
彼らは「国家(あるいは国民)社会主義」や「ファッショ」や「反共」を主張した、マルクスやレーニンの共産主義とは別の左翼であった。

彼らは「反自由主義」「反資本主義」「反議会制民主主義」「反(正しき)個人主義」を唱えたように、まぎれもない別個の左翼であった。

だから彼らは「反米英仏蘭」であった。

米英らが自由主義国、民主主義国であるからだ。
彼らは反共であるから、当然反ソ連でもあった。

この革命の特徴は、主体が軍部であったことだ。

「革新将校」たちは、軍の政治関与を禁止した「軍人勅諭」を踏みにじって、
軍部による革命を推進していったのである。

軍の政治機関化が起った。直接行動(二・二六事件など)を戦術とする皇道派、政府・軍部による上からの革命を戦術とする統制派と、戦術の違いなどはあるが、ともに「国家(国民)社会主義」に立脚する、もうひとつの左翼であった。

軍部、マスコミ、民間団体等が唱えた「国体明徴」「一君万民」「天皇親政」のスローガンは、明治憲法の天皇制の否定であった。
すなわち、立憲君主制、議会制民主主義の否定であった。

天皇を政治的に利用して、独裁体制、全体主義体制を造ろうとしたのである。
昭和天皇はこれを強く否定されていた。


一九三0年代以降の日本は、国家改造(革命)が成った、
「革命国家」「左翼国家」、だから「反日国家」であった。

本来の日本国家は自由主義国家である。
ドイツでは、ナチス党=国民社会主義労働者党=左翼が政権を握ったが、
日本でも、同類の左翼思想を持つ政治勢力(軍部など)が日本を支配したのであった。
「反共」であるが、自由主義ではなく、反自由主義の別の左翼であった。

彼らは、アジアから自由主義勢力の米英仏蘭と、共産主義勢力のソ連や中国共産党を追放、打倒して、「大東亜共栄圏」を建設し、最終的には、東洋文明の盟主たる日本と、西洋文明の盟主のアメリカとの間で最終戦争を行ない、勝利して世界を統一する、すなわち「八紘一宇」、という世界戦略を有していた。

革命国家だからこその戦略である。

 
彼らは当時も「右翼」と言われたが、それは共産主義勢力、ソ連や日共との対比で言われたものであり、自由主義勢力=保守主義勢力から見れば、「左翼」そのものである。ナチスも左翼である。これらを右翼と言うのは歴史の偽造である。




二、国家社会主義者に偽装した共産主義者の戦い-大東亜戦争を主導

共産主義者は、国家社会主義者に偽装して、自らの戦略を実現しようとした。

首相の共産主義者・近衛文麿やソ連のスパイ尾崎秀美ら共産主義者は、
国家社会主義者の衣をまとって国家中枢やマスコミや民間団体に潜入し、
国家社会主義者の前述の世界戦略や内政政策を利用しながら、共産主義者としての戦略の実現を目指していった。

共産主義者と国家社会主義者では、「反自由主義」「反議会制民主主義」「反資本主義」「反(正しき)個人主義」「反米英仏蘭」は共通しているからだ。

近衛文麿らは、祖国のソ連を防衛するために、北支事変を日中戦争へと拡大させて、関東軍が「北進」できないようにした。

その日中戦争は、蒋介石の国民党軍に壊滅される寸前にあった中国共産党を救出するとともに、国民党軍を弱体化させて、中国共産党が中国を支配できるようにするための戦争であった。

また近衛らは、この戦争を利用して、日本に統制経済、計画経済を導入し、(準)一党独裁体制、全体主義体制を導入していったのである。

一九三八年の国家総動員法、電力国家管理法、一九四0年の大政翼賛会である。統制経済と全体主義は、国家社会主義も目標とするものだ。

近衛は海軍と連携して、一九四一年七月二日の御前会議で、「南進」(対米英戦を辞せず)を決定していった。
近衛らはそれによって、国家社会主義勢力が同盟国ドイツに呼応して、「北進」を主張し、祖国ソ連を挟撃する可能性を封じたのである。

四一年七月下旬の南部仏印進駐の強行は、左翼国家日本による、米英蘭に対する実質的な宣戦布告であった。
近衛は、同年九月六日の御前会議で、昭和天皇の反対との御意思を平然と無視して、「直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」を決定していった。


近衛ら共産主義者がこれで狙ったことは、ひとつは、
この戦争によって英仏蘭の自由主義勢力をアジアから追放し、
その後を共産主義勢力(ソ連やその子飼いの勢力)が支配することである。

もうひとつは、この戦争で国家社会主義体制の日本を敗北させ、
日本を共産主義化することであった。

日本が大東亜戦争(八年戦争)で疲弊し、敗北が必至となれば、
レーニンの「戦争を内乱へ」や「敗戦革命論」に基づいて共産主義勢力は
成長してくるし、破滅的な敗北を回避するために、ソ連と連携しようという
動きも出てくる。

そういう状況の中で工作を行ない、ソ連主導で大東亜戦争を終結させていくのである。
すなわち、戦争の最終局面で、ソ連が対日参戦し、日本側はそれを「歓迎」し、ソ連軍が米軍よりもいち早く日本を占領して、終戦にする。

こうなれば、戦後統治はソ連主導でなされ、東欧諸国のように、日本の共産主義化が実現する。


一九四四年夏以降、「終戦交渉問題」が浮上する。

この時、米英との終戦交渉は、必ず「国体の破壊」となるから決して行なってはならないとの嘘プロパガンダが、陸軍の隠れ共産主義者将校からなされていったのである。

国家社会主義勢力も、このプロパガンダを共有していく。
こうして、対米英戦争は徹底的に継戦していくことになった。
それは、まだソ連軍がヨーロッパ戦線で戦っていて、兵力を極東へ向けることができないためである。ソ連主導で終戦する条件が整っていないためである。


対ソ連終戦工作を中心的に担っていった人物は、参謀本部戦争指導班長の
種村佐孝大佐であったが、国家社会主義者に偽装していた共産主義者であり、
戦後は日本共産党員になっている。

近衛ら共産主義者の大東亜戦争の目的は、アジアの共産主義化と日本の共産主義化であった。
英仏蘭は戦後、アジアから撤退し、共産中国、共産ベトナム、そしてソ連と同盟するインドが誕生した。
日本は敗北し、共産北朝鮮が生まれ、日本領土の南樺太、千島列島はソ連に奪われた。満洲も奪われた。

こうした戦後の勢力地図が、この大東亜戦争の目的が何であり、この戦争を主導した勢力が誰であったのかを、明瞭にしている。

すなわち、近衛文麿やソ連のスパイ尾崎秀美ら国家社会主義者に偽装した
共産主義者と、ソ連が、それである。

日本の共産主義化については、なんとか回避することができた。

それは、ルーズベルト(四五年四月死去)に替ったトルーマン大統領が、
ルーズベルトとスターリンとの間の「ヤルタ秘密協定」を知って驚き、
スターリンはさらに日本本土の占領すら狙っていると考えて、
米軍を急北上させて日本に降伏を迫ったことと、昭和天皇のポツダム宣言受諾の降伏の聖断により、米国の下で終戦を迎えることができたことによる。

あと数ヶ月、米軍の北上が遅れていたら、ソ連軍が日本の本州の一部を占領していた可能性は高い。
日本は東西ドイツのような分断国家になっていた。
数百万の日本人がシベリアに連行され、強制労働で殺されたであろう。

日本は米国の保障占領下で、自由主義国家日本に復帰することができたのである。

食糧・経済援助も受けられた。日本国民には、アメリカに感謝するだけの理由がある。





三、歴史の偽造を許してはならない

一九三0年代、共産主義勢力の一定部分は、国家社会主義者に偽装して、革命国家の各部署に潜入して戦っていった。
首相の近衛が創ったブレーン集団たる「昭和研究会」や、その後身たる
「朝飯会」のメンバーには、ソ連のスパイ尾崎秀美がいたし、
コミンテルン日本代表の細川嘉六もいた。

国家社会主義の衣をまとっているが、ほとんどがソ連や中国共産党を祖国と考える共産主義者であった。日共からの偽装転向者ももちろんいた。

朝飯会の実質的な主宰者は尾崎秀美であり、その会合は首相官邸で開かれていたのである。第一次近衛内閣の官房長官の風見章も、戦後は社会党左派に所属し、日本をソ連の属国にするべく戦っていった共産主義者である。

戦前の三0年代以降の日本は、革命国家、左翼国家、反日国家であった。
大東亜戦争(八年戦争)は、首相の近衛文麿をはじめ偽装した共産主義者が主導したものの、共産主義者と国家社会主義者の両者が行なっていったものである。

いわば左右の社会主義者が行なったものだ。


そして、この左翼の(準)全体主義体制、軍国主義体制と大東亜戦争に抵抗していったのが、昭和天皇を中心とする自由主義者、保守主義者、民主主義者、資本主義者たちであった。

歴史は完全に偽造されているのである。

左翼国家日本は米国らに破れた。
GHQは、戦後の保障占領統治で、ポツダム宣言に基づいて軍国主義を解体していった。日本はこれによって、基本的には、国家社会主義勢力の主力は打倒されて、自由主義勢力が国家を統治するようになったのである。

日本は以前の親米英の自由主義国家に復帰することができた。

これにより、共産主義勢力の主敵は国家社会主義勢力から、
自由主義勢力(民主主義勢力、資本主義勢力)に替った。

そのため共産主義者は、敵の信用を貶めるために歴史を偽造することにしたのである。


「戦前の軍国主義と侵略戦争は、天皇制と軍部と独占資本主義が行なったものだ」と。自らがやったことを、敵の仕業にスリ替えてプロパガンダしたのである。


一方の国家社会主義者も、戦前の体制と戦争を担った自分たちが反自由主義、反資本主義、反民主主義、反天皇制であったこと、すなわち別の左翼であったことを隠蔽した。

彼らも、共産主義者の偽造にあえて反論せず、歴史を偽造したのである。

歴史の偽造を許してしまったのは、保守主義勢力=自由主義勢力の思想闘争が
微弱だからだ。

「保守論壇」と言われているが、そこで発言している者の大半は、
戦前を支持する、国家社会主義の流れをくむ反米英主義者
(〃右翼〃と言われているが)であって、保守主義者は少数派でしかない。

親米英の保守主義者であっても、戦前が左右の社会主義者が支配した
左翼反日国家時代であったことを認識できていない。

この両勢力によって、戦前の革命国家がつくられ、物言えぬ暗い時代となり、
大東亜戦争で三百二0万の国民の命が奪われたのだ。

中国その他でも多くの人々が戦争で命を落した。
そして戦争の帰結として、共産主義勢力がアジア各地を手に入れ、
その恐怖支配下で戦争をはるかに上回る命が奪われていった。
日本もロシアに領土を奪われた。

私たちは、戦前のこの国家と戦争を担った共産主義と国家社会主義を断固糾弾し、解体していかなくてはならない。


戦いの土台は思想戦である。

中国も日本の共産主義勢力も、日中戦争を糾弾する。

しかし毛沢東はかつて、佐々木更三を団長とする社会党訪中団に、
「日本は中国に大きな利益をもたらした。
日本軍のおかげで、中国共産党が中国を手に収めることができたのだ」
と真実を暴露した。

私たちが、日中戦争を阻止できなかったことを反省するということは、
中国共産党独裁政権と日本の左翼を打倒していくということである。

中共に一切の謝罪をしてはならない。


本文は、中川八洋教授の『大東亜戦争の「開戦責任」』に学びつつ、
国家社会主義と共産主義を峻別する私の見解を述べたものである。

  二00四年三月二七日記

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  1. 【4173258】 投稿者: ヨシフ・スターリン  (ID:fV1MWPx5wt.) 投稿日時:2016年 07月 08日 01:05

    「日米を戦わせよ」1920年のレーニン演説とスターリンの謀略

    レーニンに比べたら我々は皆ひよっこだ。

    コミンテルン陰謀史観と反共資本主義陰謀史観

    20世紀前半の日本の歴史にソ連と共産主義が多大な場合によっては
    決定的影響を与えたとする歴史認識が保守言論界に広まっている。

    それによれば、china事変は日本軍を中国に釘付けにして
    中国国民党との戦いで疲弊させ、弱体化を図るとともに
    「北進」を妨げてソ連を防衛し、国民党に追い詰められていた
    中国共産党を助けるために始められた。
    あるいは、何の益もないのに停戦せずに戦いが続いた。


    さらに、日本が「南進」からアメリカとの戦争に至ったのも、
    ソ連を日本の攻撃(北進)から守り、日本を対米戦に仕向けて敗北させ、その混乱に乗じて共産主義革命を起こすという「敗戦革命」謀略だった──。


    一方で、そんな議論は妄想にまみれた「コミンテルン」陰謀史観である、と切って捨てるのが日本の歴史研究者の「王道」のようである。



    コミンテルン(第三インターナショナル、国際共産主義組織)
    の陰謀ないしは謀略は、本当に実在したのであろうか。



    ヨシフ・スターリン治世下のソ連において、ごく少数のトロツキスト等を除けば、スターリンと別の意思を持った共産主義者の組織など世界中のどこにも存在しなかった。

    コミンテルンも諜報機関も、はたまた日本を含む各国共産党もすべて
    スターリンの手駒に過ぎなかった。
    「コミンテルン」という形容詞は、スターリン時代の共産主義の本質を
    見えにくくする。

    したがって、上述のような歴史観は、「コミンテルン」ではなく、
    「スターリン」、「ソ連」あるいは「共産主義」陰謀史観ないしは
    謀略史観と呼ぶべきであろう。


    米露の著名なソ連研究者アーチ・ゲッティとオレグ・ナウーモフが
    指摘しているように、スターリン以下共産党幹部は、十月革命
    (1917年)とその後の権力掌握という成功体験から、
    自らが歴史の産婆役であることを確信し、共産主義の理想と、
    その実現に自分たちが不可欠であることを本当に信じていた。

    自分たちの政策が誤っていると想像することなど
    心底不可能だったのである。
    もし思わしくない事態が生じたら。
    それは彼らの無私の努力を妨害する陰謀に満ちた「邪悪な力」(conspiratorial“dark forces”)が働いているに違いないのだ
    (『大粛清への道』川上洸・萩原直訳)。

    ウラジーミル・レーニンの指導下、十月革命を成功させ、
    その死後、スターリンに率いられた共産主義者が
    「反共資本主義陰謀史観」の虜であったことは確かである。

    当然ながら、この「労働者階級の前衛」たちは、
    相手が邪悪な陰謀をしかけてくる以上、それに対抗せざるを得ない。
    しかも、全世界共産化という自らの理想は絶対に正しいのだから、
    謀略や陰謀はもちろん、破壊工作、テロ、さらには虚偽宣伝まで
    どのような手段も許される。

    共産主義者が世界共産革命実現を目指すうえで、謀略工作あるいは
    陰謀を主要な手段の一つとしていたことは否定できない事実である。

    近年世界各国で進められている、ソ連崩壊後の資料公開に基づく研究が
    そのことを明らかにした。

    検討すべき問題は、もはやその存在の有無ではなく、実際にどれだけ
    有効に機能したか否かであろう。

    ここでは、共産党による政権奪取直後から1939年9月の
    第二次大戦勃発(欧州戦線)までの対日を中心とするソ連外交と
    世界史の流れを、レーニン及びスターリン自身の発言に沿いながら
    見て行きたい。

    この時代の共産主義者による数々の謀略工作あるいは陰謀については、
    すでに日本でも多くの文献がある。
    しかし、これまでの議論ではその細部にこだわる余り、
    レーニン及びスターリンという謀略工作の最高責任者の言動の検証が
    疎かになっていたからである。


    レーニンの基本準則
    レーニンは1920年12月6日の「ロシア共産党(ボルシェビキ=以下「ボ」)モスクワ組織の活動分子の会合での演説」で、全世界で共産主義が最終的に勝利するまでの基本準則(правило основное)というものが存在すると主張した。

    二つの帝国主義のあいだの、二つの資本主義的国家群のあいだの対立と
    矛盾を利用し、彼らをたがいにけしかけるべきだということである。

    われわれが全世界を勝ちとらないうちは、われわれが経済的および軍事的な見地からみて、依然として残りの資本主義世界よりも弱いうちは、
    右の準則をまもらなければならない。

    すなわち、帝国主義のあいだの矛盾と対立を利用することが
    できなければならない。

    このくだりはコミンテルン謀略史観の「バイブル」である
    『戦争と共産主義』(昭和二十五年、三田村武夫著、のちに『大東亜戦争とスターリンの謀略』として復刊)にも引用されている。

    ただし、右記に続けて、レーニンが資本主義社会において共産主義者が「利用すべき根本的対立」として挙げた以下の内容は日本国内ではあまり知られていない。

    第一の、われわれにもっとも近い対立──それは、
    日本とアメリカの関係である。

    両者の間には戦争が準備されている。
    両者は、その海岸が三〇〇〇ヴェルスタ[ほぼキロメートルと同じ]もへだたっているとはいえ、太平洋の両岸で平和的に共存することができない。…地球は分割ずみである。

    日本は、膨大な面積の植民地を奪取した。

    日本は五〇〇〇万人の人口を擁し、しかも経済的には比較的弱い。

    アメリカは一億一〇〇〇万人の人口を擁し、
    日本より何倍も富んでいながら、植民地を一つももっていない。

    日本は、四億の人口と世界でもっとも豊富な石炭の埋蔵量とをもつ
    中国を略奪した。こういう獲物をどうして保持していくか? 
    強大な資本主義が、弱い資本主義が奪いあつめたものをすべて
    その手から奪取しないであろうと考えるのは、こっけいである。

    …このような情勢のもとで、われわれは平気でいられるだろうか、
    そして共産主義者として、
    「われわれはこれらの国の内部で共産主義を宣伝するであろう」
    と言うだけですまされるであろうか。

    これは正しいことではあるが、これがすべてではない。

    共産主義政策の実践的課題は、この敵意を利用して、
    彼らをたがいにいがみ合わせることである。
    そこに新しい情勢が生まれる。

    二つの帝国主義国、日本とアメリカをとってみるなら
    ──両者はたたかおうとのぞんでおり、世界制覇をめざして、
    略奪する権利をめざして、たたかうであろう。

    …われわれ共産主義者は、他方の国に対抗して
    一方の国を利用しなければならない。…


    もう一つの矛盾は、アメリカと、残りの資本主義世界全体
    との矛盾である。…
    アメリカはすべての国を略奪し、しかも非常に独創的な仕方で
    略奪している。
    アメリカは植民地をもっていない。…
    イギリスは、強奪した植民地の一つにたいする委任統治…を
    アメリカに提供したが、アメリカはそれを受けとらなかった。

    …しかし、この植民地を他の国々が利用するのを彼らが
    容認しないことは、明らかである。…


    第三の不和は、協商国とドイツとのあいだにある。

    ドイツは敗戦し、ヴェルサイユ条約でおさえつけられているが、
    しかし巨大な経済的可能性をもっている。

    …このような国にたいして、同国が生存していけないような
    ヴェルサイユ条約がおしつけられているのである。

    ドイツはもっとも強大で、先進的な資本主義国の一つであって、
    ヴェルサイユ条約を耐えることはできない。

    だから、ドイツは、それ自身帝国主義国でありながら、
    圧迫されている国として、世界帝国主義に対抗して同盟者を
    探しもとめなければならない。

    歴史は第二次大戦まで、ほぼこのレーニンの基本準則に従って推移した。


    「自然」とそうなった、あるいはレーニンの「科学的社会主義」に
    基づく「歴史の発展」予測が正しかったのではない。

    次節以下で示すように、レーニンの「遺言」を継いだスターリンが
    自覚的にそのように仕向けたのである。


    臥薪嘗胆、好機を待つスターリン

    1923年のドイツでの武装蜂起失敗が象徴するように、
    欧州赤化の可能性が遠のくと、レーニンの後釜に座った
    スターリン主導の下、ソ連は内向きになったかのように見えた。

    いわゆる一国社会主義路線である。

    しかし、それは来るべき「資本主義国」すなわちソ連以外の国々との
    対決に備えた臥薪嘗胆の時期であった。

    ソ連の第一次及び第二次五カ年計画では、軍備増強がすべてに
    優先した(デーヴィッド・ストーン『ハンマーとライフル』、未邦訳)。

    もちろん、臥薪嘗胆とはいえ、共産主義者を使った破壊工作は
    継続していた。
    コミンテルンは1928年に、そのものずばり『武装蜂起』
    (Der bewaffnete Aufstand)と題する各国共産主義者に向けた
    「実用的」な教科書を編集、(偽名で)発行している。

    執筆者はホー・チー・ミンや後に粛清される赤軍の「ナポレオン」
    ミハイル・トゥハチェフスキーをはじめ錚々たる顔ぶれであり、
    失敗に終わった中国共産党の広東蜂起(1927年)や
    上海自治政府樹立(同)の事例が詳細に分析されている。

    そして、スターリンが決してレーニンの基本準則を忘れたわけでは
    ないことは、
    1925年1月19日、「ロシア共産党(ボ)中央委員会総会での演説」を見ればわかる。
    いずれ必ず来る戦争を前に共産主義者はどう行動すべきか。

    そのような情勢にたちいたったさい、われわれがぜひともだれかにたいして積極的な行動をおこさなければならないということを意味しない。
    …われわれの旗は、依然としてこれまでのように平和の旗である。

    しかし戦争がはじまれば、手をこまねいているわけにはいかないであろう、─われわれは、のり出さなければならないであろう、

    もっとも、いちばんあとでのり出すのであるが、われわれは秤皿に決定的なおもりを、相手かたを圧倒しうるようなおもりを、なげいれるためにのり出すであろう。


    資本主義国が内ゲバで弱ったところに、最後の一撃を加えて世界革命を完遂するという大原則に、最初からスターリンほど忠実な革命家はいなかったのだ。

    そしてスターリンが仕掛けたのは「最後の一撃」だけではなく、
    資本主義列強を弱らせる「内ゲバ」だったのである。



    日本を翻弄するスターリン

    満州問題たけなわの1932年6月12日(より以前)、
    スターリンは側近の政治局員ラーザリ・カガノヴィッチに、
    日本に対して英米とは異なり、必ずしも滿洲国承認の可能性を否定せず、あいまいな態度を取るとともに、アメリカへの接近を指示する(1933年に国交樹立)。
    日米対立の利用である。

    政治局は国際関係において最近生じた大きな変化を考慮に入れていないようだ。
    そのなかで最も重要な変化は、中国では日本にとって有利に、欧州では(とくにフォン・パーペン[独首相]への権力移行後)フランスにとって有利に、アメリカ合衆国の影響力が低下しはじめたことである。
    これはきわめて重要な情勢だ。
    これに応じて、アメリカ合衆国はソ連との連携を模索するだろう。
    そして、すでにそれを求めている。

    その一つの証拠がアメリカで最も有力な銀行の一つ
    [ニューヨーク・ナショナル・シティー銀行]の
    代表ランカスターの訪ソだ。
    この新しい情勢を考慮に入れよ。


    そのすぐ後の1932年6月20日には、カガノヴィッチと
    首相ヴャチェスラフ・モロトフに今度は日中対立を利用して、
    日ソ不可侵条約締結を目指すよう指示する。

    もし日本が実際に条約に動きだすとしたら、おそらくそうすることで、
    どうやら日本が真剣に信じていると思われる我々の対中条約交渉を
    頓挫させることを望んでいるからだ。

    だから、我々は中国との交渉を打ち切るべきではないし、
    逆に、我々の対中接近という見通しで日本を脅かして、
    それによってソ連との条約調印に日本を急き立てるために、
    対中交渉を継続して長引かせる必要がある。


    この時は見送られたものの、日本は独ソ開戦の直前、
    1941年4月に日ソ中立条約を締結する。
    バルト三国、フィンランド後述するポーランドなど、
    不可侵条約を結んでおいて、侵略(スターリンから見れば解放)
    するのがソ連の常套手段であり、もちろん、日本も例外ではなかった。


    満州国との領事交換に同意するなど、アメリカとは異なり、
    表向きは対日宥和のポーズをとりつつ、1933年10月21日、
    スターリンは反日キャンペーン強化を指示する。

    私が見るところ、日本に関し、また総じて日本の軍国主義者に敵対する、ソ連及びその他全ての国々の世論の、広範で理にかなった
    (声高ではない!)準備と説得を始める時がきた。

    …日本における習慣、生活、環境の単に否定的なだけではなく、
    肯定的側面も広く知らしめるべきである。
    もちろん、否定的、帝国主義的、侵略的、軍国主義的側面をはっきり示す必要がある。


    実際、10月26日からプラウダで反日プロパガンダ記事が
    次々と掲載される。
    「肯定的側面も」というところが、さすがにプロの謀略家である。
    それにしても、具体的にパンフレットの名前
    (『日本における軍国ファシスト運動』)まであげるなど、
    その指示の細かさには驚かされる。

    日本の「アジア侵略の青写真」として喧伝された
    偽造文書「田中上奏文」が世界中で急速に浸透した背景に、
    こうした日本重視のブラック・プロパガンダ戦略があったことは
    間違いないだろう。

    しかし、スターリンを激怒させる事件もあった。
    朝鮮人を使った滿洲での対日テロ活動が露呈したのである。

    スターリンは1932年7月2日(より以前)、
    カガノヴィッチに当事者の厳罰を命じる。

    さる朝鮮人爆破工作員たちの逮捕とこの事案への我が組織の関与は、
    日本との紛争を誘発する新たな危険を作り出す(あるいはしかねない)。

    ソビエト政権の敵以外、いったい誰がこんなことを必要とするのか。
    必ず極東指導部に問い合わせて、事態を解明し、ソ連の利益を害した者をきちんと処罰せよ。このような醜態はもう許さない。
    …この紳士たちが我々の内部にいる敵のエージェントである可能性は高い。


    ここにも、スターリンの「反共資本主義陰謀論」が表れている。

    自国諜報機関が工作に失敗すると、それは内部に侵入した敵の仕業と
    考えるのである。

    ところで、日本ではソ連スパイというとリヒャルト・ゾルゲを
    過大視する傾向があるけれども、実際、ゾルゲは数あるスパイの
    一人に過ぎない。

    諜報活動にも詳しいソ連研究者、黒宮広昭インディアナ大教授も
    指摘しているように、CHINA事変が勃発した1937年夏の時点で、
    日本と滿洲国には2千人の明らかなスパイと5万人のエージェント
    (本人に自覚がない場合も含む)がいると日本政府は見ていた。

    ヴェノナ文書が明らかにしたアメリカでのソ連スパイ活動の規模から
    考えて、この数字は日本の治安当局の誇大妄想とはいえない。



    CHINA事変に至るまでの共産主義者の策動については
    多くの文献があるので、ここでは繰り返さない。

    支那事変以降のスターリンの対日政策については、
    黒宮教授の表現を借りれば、以下のようにまとめられる。

    「スターリンの目的は、日本を可能なかぎり弱体にし、
    ソ連から遠ざけておくことにあった。
    これは要するに、日本を中国に釘付けにし、
    その侵略を米英に向けさせるということである。
    結局、日本はその後数年まさにその通りに行動することとなった」


    スターリンに翻弄される日本とは対照的に、
    我が国の対ソ政策はソ連側に筒抜けであった。

    ロシア人と結婚してスパイとなった外交官泉顕蔵を通じ、
    ソ連は外交暗号解読書(code book)を入手していたのである。


    盧溝橋事件発生翌月の1937年8月、ソ連は中国(国民政府)と
    日本を念頭に置いた不可侵条約を結び、日本軍が中国で泥沼に陥ることで、ソ連に目が向かないよう、大規模な軍事支援を行う。

    11月18日にスターリンは、楊杰上将(のちに駐ソ大使)が率いる
    中国代表団に、ソ連だけでなく、アメリカやドイツからの武器調達の
    必要性を説き、さらには「信用ならない」イギリスとの連携にも努めるよう促した後、次のような踏み込んだ発言を行っている。


    ソ連は現時点では日本との戦争を始めることはできない。
    中国が日本の猛攻を首尾よく撃退すれば、ソ連は開戦しないだろう。
    日本が中国を打ち負かしそうになったら、その時ソ連は戦争に突入する。


    ソ連参戦が蒋介石政権を助けるためではなく、
    日中が疲弊し切ったところで、両者に最後の一撃を加えるためで
    あることはいうまでもない。

    スターリンはさらに1939年7月9日、蒋介石にこう語った。

    今まで二年続いた中国との勝てない戦争の結果、
    日本はバランスを失い、神経が錯乱し、調子が狂って、
    イギリスを攻撃し、ソ連を攻撃し、モンゴル人民共和国を攻撃している。この挙動に理由などない。

    これは日本の弱さを暴露している。

    こうした行動は他の全ての国を一致して日本に敵対させる。

    まさに、スターリンの高笑いが聞こえてくるかのようである。

    日本が対米英中のみならず、ソ連に対しても侵略を着々と準備したうえで戦争を始めたという東京裁判史観は、とりわけスターリンにとって
    片腹痛い、戦前日本の「過大」評価である。

    1938年2月7日、日本について立法院長孫科にスターリンが
    語った次の言葉の方が真実に近いであろう。

    歴史というのは冗談好きで、時にその進行を追い立てる鞭として、
    間抜け(дурак)を選ぶ。


    戦争挑発に舵を切るスターリン

    極東及び欧州で風雲急を告げるなか、共産党中央委員会名で
    1938年に刊行された『ソ連共産党小史』に見られるように、
    スターリンは、アドルフ・ヒトラー政権成立以降の民主主義対ファシズムという構図に基づく人民戦線路線から再度転換し、共産主義と資本主義の対立軸を前面に打ち出す。

    『共産党小史』刊行を受けたプロパガンダ担当者会議開催中の1938年10月1日、スターリンは大演説を行う。以下はその一部である。

    戦争の問題に関するボルシェビキの目的、全く微妙なところ、ニュアンスを説明する必要がある。
    それは、ボルシェビキは単に平和に恋焦がれ、攻撃されたときだけ武器を取る平和主義者ではないことだ。
    それは全く正しくない。
    ボルシェビキ自らが先に攻撃する場合がある。
    戦争が正義であり、状況が適切であり、条件が好都合であれば、
    自ら攻撃を開始するのだ。ボルシェビキは攻撃に反対しているわけでは
    全然ないし、全ての戦争に反対してもいない。

    今日、我々が防御を盛んに言い立てるのは、それはベールだよベール。

    全ての国家が仮面をかぶっている。

    「狼の間で生きるときは狼のように吠えねばならぬ」(笑)。
    我々の本心を全て洗いざらい打ち明けて、手の内を明かすとしたら、
    それは愚かなことだ。そんなことをすれば間抜けだといわれる。…

    実は、レーニンは資本主義の跛行的発展状況の下、
    個々の国での社会主義の勝利が可能である、
    なぜなら跛行的発展つまり遅れる国がある一方、
    先に進む国があるのだから、と教えてくれただけではなく、
    レーニンはまた、ある国は遅れる一方、別の国は先に進み、
    ある国は努力する一方、別の国はもたもたするので、
    同時の一撃は不可能だという結論にも達していたのだ。…

    異なった国の間で社会主義への成熟度合いが異なっており、
    この事態に直面して、全ての国で同時に社会主義が勝利する
    可能性があるなどとどうして語りうるのか。
    全くばかげている。
    そんなことはかつても不可能であったし、今日においてもあり得ない。

    どういうわけか、この観点を隠して、個々の国で社会主義の勝利が
    可能であることだけに言及することは、レーニンの立場を完全に
    伝えていない。



    革命家スターリンの面目躍如たる発言である。
    レオン・トロツキーのような世界同時革命論ではなく、
    機が熟した(熟すよう仕向けた)国から徐々に武力で共産化していく
    という自らの方針こそ、レーニンに忠実な真の世界革命への道である
    という強い自負が示されている。

    さらにスターリンは、1939年3月10日の第18回共産党大会に
    おける報告でも、社会主義すなわちソ連と資本主義の対立という構図を
    前面に出し、英仏を念頭に自らの立場を明確にした。

    慎重を旨とせよ、そして、他人に火中の栗を拾わせる
    (загребать жар чужими руками)ことを常とする戦争挑発者が
    我が国を紛争に引っ張り込むことを許してはならない。

    五か年計画による軍備増強で世界最大の軍事強国となり、
    大粛清で独裁体制を完全なものにしたスターリンは、
    この頃から資本主義国間の対立をさらに激化させ、
    戦争を煽るるべく行動を開始する。

    共産党大会直後に起こったドイツのチェコ併合にも、
    ソ連は形式的抗議を行っただけで、英仏の宥和政策から強硬姿勢へ
    の転換とは好対照であった。

    英独対立が深刻化するなか、1939年5月には、
    イギリス人を妻とし英米仏で受けがよかった
    ユダヤ人マクシム・リトヴィノフ外相が解任され、
    首相のモロトフが外相兼務となり、独ソ連携の動きは加速する。


    ノモンハンでのスターリンの謀略

    さらに、極東では同じ時期、ノモンハン事件が勃発する。
    上述の黒宮教授は綿密な資料調査に基づき、従来の議論とは
    根本的に異なるこの事件の背景を、2011年にスラブ圏軍事研究に
    関する学術誌(Journal of Slavic Military Studies、24巻4号)に掲載された論文「一九三九年ノモンハンの謎」で明示した。

    関東軍の第二十三師団長小松原道太郎中将がソ連のエージェントだった
    というのである。

    黒宮教授は次のようなスターリンの演説(1937年3月3日)からの引用で始める。

    戦争時に戦闘で勝利するには何軍団もの赤軍兵士が必要であろう。
    しかし、前線でのこの勝利を台無しにするには、どこか軍司令部あるいは師団司令部でもいい、作戦計画を盗んで敵に手渡す数名のスパイがいれば十分だ。


    したがって、「ハイラルに小松原がいることは、日本の行動を挑発し、
    厳しい軍事的教訓を与えるのに絶好の機会であった。
    これこそスターリンが考えていたことだったように思える。」。

    スターリンの狙いはずばり当たった。

    「ノモンハンは、ソ連に敵対する北方ではなく、
    米英蘭の権益に敵対する南方に向かうというその後の決断に
    決定的影響を与えた。
    ノモンハンは日本の対ソ野望に対するスターリンの
    とどめの一撃(coup de grace)となったわけである。
    モスクワがノモンハンで攻撃を挑発したのだとしても、それに応じたのは日本の致命的誤りであった。」


    最後に黒宮教授はこの論文をこう締めくくる。
    「ノモンハンはスパイの重要性に関するスターリンの発言が正しいことを示した。小松原がいなければ、ノモンハンは起きなかったかもしれない。ソ連の勝利が保証されなかっただろうことは確かである。小松原のおかげでそのとき赤軍は戦闘に勝利したように思える。もしそうでなかったならば、日本は全く実際とは違った戦略的行動を取ったかもしれない。20世紀の歴史は違ったものになっていただろうし、ノモンハンの歴史自体、劇的に書き直さねばならないだろう。」

    日米戦実現に向けたソ連の謀略といった場合、
    尾崎秀実ら日本指導層に入り込んだ日本人エージェントたちを
    使った南進論への政策誘導や、アメリカにおける「雪作戦」
    (エージェントの名前が財務省高官ハリー・ホワイトであることから名づけられた)が、通常、議論の中心を占める。

    その重要性は疑いないけれども、陸軍内に一種の対ソ恐怖症を植え付け、対ソ北進論の勢いを削いだノモンハン事件は、それらに匹敵する大きな意味を持つのではなかろうか。


    ヒトラーをけしかけるスターリン
    以下、同時期の欧州情勢について検証したい。
    1939年春以来、ソ連のドイツへの態度は軟化したものの、
    ダンチヒ自由市をめぐる争いでイギリスの「白地小切手」を得た(と思った)ポーランドの強硬姿勢に会い、ヒトラーは袋小路に入り込む。

    スターリンに最後の望みを託し、より踏み込んだ独ソ連携を目指すものの、交渉はなかなかはかどらない。スターリンはより大きな「獲物」を得るべく、ドイツと英仏を競い合わせ、天秤にかけていたのだ。


    8月19日もドイツのフリードリヒ・ヴェルナー・フォン・デア・シューレンブルク駐ソ大使とモロトフの交渉は物別れに終わり、大使は帰路に着く。
    ところが外交儀礼上、異例なことに、モロトフは大使を再度クレムリンに呼びつける。そして、独ソ不可侵条約を締結するようソ連政府に「指示された」(beauftragt、独公文書の表現)と伝えたのである。
    首相兼外相モロトフに指示できる「上司」はもちろん、この世にひとり、スターリンしかいない。

    一方、極東では翌20日、それまでの局地的小競り合いとは一線を画す赤軍の大攻撃がノモンハンで始まり、日本軍は奮戦したものの壊滅的打撃を受ける。

    モスクワでは8月23日、ドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相とモロトフが独ソ不可侵条約に調印し、全世界に衝撃を与える。条約に付された東欧「分割」の秘密議定書でソ連の同意を得たドイツは、9月1日にポーランド攻撃を開始、ヒトラーの期待に反し、しかし、スターリンの思惑通り、直ちに英仏が対独宣戦布告を行う。第二次大戦が始まったのだ。

    なぜ、スターリンは不倶戴天の敵であるはずのヒトラーと手を結んだか。コミンテルン書記長ゲオルギ・ディミトロフの日記には、9月7日にスターリンがその動機を赤裸々に語った記録が残っている。

    この戦争は二つの資本主義国家群(植民地、原料などに関して貧しいグループと豊かなグループ)の間で、世界再分割、世界支配をめぐり行われている。我々は、両陣営が激しく戦い、お互い弱めあうことに異存はない。

    ドイツの手で豊かな資本主義国、特にイギリスの地位がぐらつくのは、悪い話ではない。ヒトラーは、自らは気付かず望みもしないのに、資本主義体制をぶち壊し、掘り崩しているのだ。

    権力を握った場合と反対勢力でいる場合とでは、共産主義者の態度は異なる。我々は自分の家の主人である。資本主義国における共産主義者は反対勢力であり、そこでの主人はブルジョアジーだ。

    我々は、さらにずたずたに互いに引き裂きあうよう、両者をけしかける策を弄することができる。不可侵条約はある程度ドイツを助けることになる。次の一手は反対陣営をけしかけることだ。

    資本主義国の共産主義者は、自国政府と戦争に反対して、断固として立ち上がらねばならない。

    この戦争が始まるまで、ファシズムとデモクラシー体制を対立させることは全く正しかった。帝国主義列強間の戦争時には、これはもう正しくない。資本主義国をファシスト陣営とデモクラシー陣営に区別することは、かつて持っていた意味を失った。

    この戦争は根本的変革を引き起こした。つい先日まで、統一人民戦線は資本主義体制下の奴隷の状況を和らげるのに役立った。帝国主義戦争という状況のもとでは、問題は奴隷制度の絶滅なのだ。今日、統一人民戦線や国民統一といった昨日までの立場を主張することは、ブルジョアジーの立場に陥ることを意味する。こうしたスローガンは撤回される。

    かつて歴史的には、ポーランド国家は民族国家であった。それゆえ、革命家たちは分割と隷属化に反対して、ポーランドを擁護した。現在、ポーランドはファシスト国家で、ウクライナ人、ベラルーシ人その他を抑圧している。現在の状況下でこの国を絶滅することは、ブルジョア・ファシスト国家が一つ少なくなることを意味するのだ。ポーランドを粉砕した結果、我々が社会主義体制を新たな領土と住民に拡大したとして、どんな悪いことがあるというのか。

     我々は、いわゆるデモクラシー諸国との合意を優先し、交渉を続けた。しかし、イギリスとフランスは我々を下男にしようとし、おまけにそれに対して何も払おうとしなかった。我々はもちろん下男になりはしなかった[、たとえ何も得られなくても]。


     9月16日に東郷茂徳駐ソ大使とノモンハン停戦に合意したと発表した翌日の17日、モロトフはポーランドの駐ソ大使に、ポーランドはもはや国家として存在しないので、領内に住む「血の同胞」であるベラルーシ人とウクライナ人をソ連が保護せねばならないと通告し、赤軍が「越境」を開始する。スターリンは決して「侵略などしない」。

     小松原師団長スパイ説に対しては、あまりに奇想天外だとして疑問を呈する向きもあるだろう。しかし、仮にスパイでなかったとしても、ここで示したように、ノモンハンと独ソ不可侵条約は、スターリンの戦略のなかで密接に関連していた。

    ノモンハン事件と独ソ不可侵条約は、日本対アメリカとドイツ対英仏というレーニンの基本準則に沿って、スターリンが演出した一つのドラマとして理解する必要があるのだ。


    最後に躓いたスターリン
    そもそも自らが陰謀史観の持ち主であったスターリンは、ここまで見てきたように、陰謀あるいは謀略を重視し、実際にも大きな成功を収めた。歴史はほぼレーニンの基本準則通りに進んだのである。

    まず、極東においては、スターリンの「完勝」といってよい。日本を中国での泥沼の消耗戦に引きずりこみ、ノモンハンで陸軍に一種の対ソ恐怖症を植え付けたうえで、その後も、日本人エージェントを使った謀略が続けられ、日本の対外政策を反ソから反英米に仕向けることに成功する。

    それに呼応して、アメリカでも対日戦実現に向けた工作が展開され、好都合なことに、フランクリン・ルーズベルト大統領という「パートナー」の存在もあって、スターリンの思惑通り、日米は激突することとなった。

    しかし、スターリンは欧州では英仏とドイツの戦争を実現させたものの、予想外のフランスの早期戦線脱落で予定が狂い始め、最後の段階でヒトラーの対ソ先制攻撃を許すという決定的失敗を犯してしまった。

    資本主義国同士を戦争で疲弊させたうえで、一番後にとどめを刺すつもりだったのに、ソ連は対独戦の主役を引き受けさせられ、第二次大戦参加国中、最大の犠牲をこうむる羽目になる。

    スターリンの世界革命戦略は結局、画竜点睛を欠く結果となり、漁夫の利を得たのは、他国に比べると圧倒的に少ない犠牲で、ソ連と並んでもう一つの超大国となったアメリカであった。

    大戦で極度に疲弊したソ連は、その戦後を最初から大きなハンディを背負った状態でスタートせざるを得なかった。

    結局、東西冷戦を経て最終的に勝ち残ったのは、ソ連共産主義ではなく、アメリカ資本主義というもう一つのグローバリズムであった。

    (付記) レーニン演説及び一九二五年スターリン演説は大月書店刊『レーニン全集』及び『スターリン全集』、その他引用は拙訳を用いた。

  2. 【4173263】 投稿者: 三木清  (ID:fV1MWPx5wt.) 投稿日時:2016年 07月 08日 01:12

    三木 清(みき きよし、1897年1月5日 - 1945年9月26日)は、(西田左派を含めた上での)京都学派の哲学者。弟に中国文学者の三木克己がいる。


    兵庫県揖保郡平井村小神(後の龍野市、現・たつの市揖西町)出身。旧制龍野中学校では、西田正雄(後の海軍大佐、戦艦比叡の最後の艦長)が同級生で、三木は次席で西田が首席であった。第一高等学校から京都帝国大学に進み、西田幾多郎に師事する。大学在学中は西田のみならず東北帝国大学から転任してきた田辺元や左右田喜一郎らからも多くの学問的影響を受けた。大学卒業後は第三高等学校 (旧制)[1][2]、龍谷大学(第三高等学校では無く大谷大学であるという説もある[3] )で教鞭をとる。
    1922年には岩波茂雄の資金的な支援を受けてドイツに留学。ハイデルベルク大学でハインリヒ・リッケルトのゼミナールに参加し、歴史哲学を研究した。1923年にはマールブルク大学に移り、マルティン・ハイデッガーに師事。ニコライ・ハルトマンの講義にも出席した。ハイデッガーの助手カール・レーヴィットからの影響でフリードリヒ・ニーチェやセーレン・キェルケゴールの実存哲学への興味を深めた。1924年にはパリに移り、大学に席を置かず、フランス語の日用会話の勉強をした[4]。この間パスカル研究を開始。
    1925年帰国し、翌年には処女作『パスカルに於ける人間の研究』を発表。1927年には法政大学文学部哲学科主任教授となった。三木は母校である京都帝大への就職を望んだが、女性問題のためにアカデミズム側から締め出しを食ったことを谷沢永一が指摘している[5]。同年12月に創刊された岩波文庫とも深い関わりがあり、巻末の公約である「読書子に寄す」の草稿は三木によって書かれたものである[6]。小林勇が岩波書店を追われた際、これを援助するために満鉄から依頼された講演のための旅費1500円をすべて渡した。小林は自らの元手にこの1500円を足して鉄塔書院を起こした。この名をつけたのは幸田露伴である[7]。
    羽仁五郎らと雑誌『新興科学の旗のもとに』を起こして、たんなる党派的な教条にとどまらないマルクス主義の創造的な展開も企てたが、1930年、日本共産党に資金提供をしたという理由によって逮捕され、転向を行った。この際の有罪判決によって公式には教職に就けなくなった三木は、活動の場を文筆活動に移していった。
    1930年に一人娘の洋子が生まれる(後に東大文学部の初めての女性教官永積洋子(ながづみ ようこ、近世通交貿易史専攻の教授)になる。清の妻・喜美子は東畑精一の妹であるが、洋子の幼時に死亡)。
    その後、ジャーナリズムで活動する日々が続くが、1930年代後半には、後藤隆之助ら近衛文麿の友人たちが中心になって組織した昭和研究会に積極的に参加し、その哲学的基礎づけ作業を担当した[8]。三木はその際、「協同主義」という一種の多文化主義的な立場を掲げた。これは軍部、特に陸軍の独走によって硬直する日中関係に対する日本の側からの新政策につながるものとして、海軍から期待を集めたものの[9]、中国の側からの知的応答もなく、現実的な力は持たないうちに、短期間に色あせた。
    総力戦体制に対する抵抗と関与という両義的な態度は、同時代の転向知識人がかかえる二面性であるが、三木はその典型であった。すでに軍部と皇道右翼によって、マルクス主義はもちろん、自由主義者もまた、自立的な社会的活躍の余地を奪われていた。そのような政治的に非常に息苦しい状況にあって、総力戦体制の効率化、合理化は、一面では、体制派の主流に対するある種の批判的意見表明を可能にする最後の可能性と見えていた。しかし、昭和研究会は軍部や保守勢力によって敵視され、不本意にも解散をよぎなくされたため、やがてその流れは、大政翼賛会のなかに取り込まれていく。そのことにより、総力戦動員の合理性に託して、なんらかの社会変革を遂行するという知識人の当初の期待は、たんなる戦争協力へといっそう変質していくことになる。
    1930年代末から1940年代にかけては、語学力を生かしてヨーロッパの最先端の知的成果を取り入れながら、マルクス主義をより大きな理論的枠組みのなかで理解しなおす「構想力の論理」を企てていたが、未完で終わる。さらに最後には親鸞の思想にふたたび惹かれている。
    1945年、治安維持法違反の被疑者高倉テルを仮釈放中にかくまったことを理由にして検事拘留処分を受け[10]、東京拘置所に送られ、同6月に豊多摩刑務所に移された[11]。この刑務所は衛生状態が劣悪であったために、三木はそこで疥癬をやみ、それに起因する腎臓病の悪化により、終戦後の9月26日に独房の寝台から転がり落ちて死亡しているのを発見された48歳没。終戦から一ヶ月余が経過していた。遺体を収めた棺は2日後、布川角左衛門が借りた荷車を用い、東畑精一宅に引き取られた[12]。
    中島健蔵が三木の通夜の当日に、警視庁への拘引から7月下旬まですぐ近くの監房にいて詳しく様子を見たという青年から聞いた話として記しているところによると、疥癬患者の使っていた毛布を消毒しないで三木に使わせたために疥癬に罹患したという[13]。
    三木の通夜の席で、三木や尾崎秀実、戸坂潤と親交のあった松本慎一が「政治犯即時釈放を連合軍に嘆願しよう」と提案したが、その提案が唐突過ぎ、また場所柄もふさわしくなかったために、用意した嘆願書の草案を取り出すことができなかった[14]。
    たまたまこの三木の死を知ったフランス人ジャーナリストジャーナリスト ロベール・ギラン [15]の奔走によって、敗戦からすでに一ヶ月余をへていながら、政治犯が獄中で過酷な抑圧を受け続けている実態が判明し、占領軍当局を驚かせた。旧体制の破綻について、当時の日本の支配者層がいかに自覚が希薄であったのかについての実例である。この件を契機として治安維持法の急遽撤廃が決められた。そもそも三木が獄中にとらわれていたことを親しい友人たちですら知らされないでいたことも、当時の拘禁制度の実態を表している。1945年は、西田幾多郎が生前家人に漏らして最も心配していた人は、「三木清」、そして「戸坂潤」の二人の事であったが、これが西田幾多郎の死の直後獄死という形で現実となった[16] 。法名は、真実院釋清心。なお蔵書は法政大学に所蔵されている。1997年、龍野市から名誉市民の称号が与えられた。

  3. 【4173283】 投稿者: KKK  (ID:fV1MWPx5wt.) 投稿日時:2016年 07月 08日 02:03

    政治犯の釈放研究の遅れ
    ――この間,政治犯釈放の経緯について調査を重ねておりました。調査を行っていて文献も研究もきわめて手薄なことがわかりました。
    僕は,戦後改革期における日本社会・労働史研究の一環として,政治犯釈放の問題について研究を始めたばかりです。

    政治犯の釈放それ自体,僕は,戦後日本の社会・労働運動における原点の位置にあるだけでなく,旧体制の崩壊と新しい政治主体の形成という点で
    も興味があります。けれども調査してみましたら政治犯釈放に関する本格的な研究は無く,日本現代史研究でも未開拓な領域にあることがわかりました。研究書として強いてあげるなら,竹前栄治さんの『占領戦後史』(双柿社,1980年)くらいだと思います。

    政治犯の釈放に関する研究の遅れは,資料収集の困難さや出獄者自身きちんとした記録を活字として残していないこと,それに研究者自体,関心が薄く,聞き取り調査などをほとんど行っていない点があると思います。後
    者の点では,学術機関ないし研究者自体に責任がありますね。
    資料の少なさの点では決定的で,「獄中の共産党幹部の釈放」(労働省編『資料労働運動史』昭和20・21年版,1951年)や,松本一三さんの「出獄前後 十月十日の思ひ出」(『アカハタ』第67~69号,1946年10月2日~10月13日),さらにロベール・ギランなど府中刑務所を取材した外国人記者の訪問記などがある程度です。

    府中刑務所に在獄の徳田球一さんに私が最初に面会したのは1945年10月7日のことであると書いておりますね。けれども私の記憶では10月6日なんです。この日は解放運動犠牲者救援会が再建された日で,当日の午前中に府中刑務所に出向きました。

    すなわち明治以来久しくつづいた天皇制の国家機構が占領軍による
    相次ぐ民主化・非軍事化の指令のなかで音をたてて崩れていく様子が記され,私は何かドキュメンタリー番組を見ているような錯覚に陥ってしまい
    ました。
    通説では敗戦以来,1945年10月10日までに全国でおよそ3000人の政治犯が釈放されたといわれております。
    政治犯釈放運動の二つの流れ
    『占領戦後史』の本で,当時,政治犯の釈放を要求する運動として二つの
    グループがあった,と指摘しておりましたね。
    こう書いてあります。
    「獄外では,政治犯の釈放を要求する少なくとも二つのグループが活動
    していた。一つは,金斗鎔,金成功,排録らを中心とする朝鮮人政治犯釈放委員会であり,ニつめは,服部麦生,高橋勝之,藤原春雄らを中心とする政治犯釈放委員会である。この両者は解放運動犠牲者救援会を作り,事務所を三菱ビル二一号館の事務所においていた」とあります。1945年8,9月の時点で,在日朝鮮人が「朝鮮人政治犯釈放委員会」という組織を結成していたとは知りませんでした。その「朝鮮人政治犯釈放委員会」なる組織は,実態を伴ったものだったのでしょうか。私は多少,疑問に思
    います。
    豊多摩刑務所や府中刑務所に,あるいは横浜刑務所に朝鮮人の方が何人も治安維持法により囚われておりました。府中刑務所には徳田さんや志賀さんらと一緒に,金天海さんや李康勲という李王朝の血筋をひく独立運動家が入っておりました。金天海さんは1945年12月,日本共産党が合法再建を確認した第4回大会のとき中央委員になっていますね。私自身,調査したことはありませんけれども,敗戦の時点で,獄中にあった朝鮮人は相当数に及んでいたと思います。
    金斗鎔さんは1945年9月下旬ぐらいに弁護士の名刺をもって私の事務所を訪ねて来られ,内野竹千代さんや藤原春雄さんを交えて打ち合わせを行った記憶があります。金天海さんと金斗鎔さんは,日本共産党の朝鮮民族部の責任者で,戦後すぐの時期に在日朝鮮人の運動をリードされた方ですよ。金斗鎔さんは私が戦後に会った最初の朝鮮人ですが,背が高くがっちりした体躯のひとでしたよ。
    金斗鎔さんからは10月10日のあとも朝鮮人出獄者の補償その他のことについても相談を受けた記憶もあります。
    とにかく,政治犯の釈放に向けた取り組みが朝鮮人運動家のほうが私らより早かったことは確かです。またこの朝鮮人政治犯の釈放運動に,当初から栗林敏夫弁護士が一枚かんでいて協力していたのです。けれども間もなく両者の運動が合流したことは,この『占領戦後史』が指摘する通りす。
    『占領戦後史』の一節に,政治犯の釈放を要求する日本人グループのことについて,「服部麦生,高橋勝之,藤原春雄らを中心とする政治犯釈放委員会」という個所があります。まず後者の「政治犯釈放委員会」という団体ですが,このような名称の運動団体が結成されていたことについて私は承知していないのです。
    「政治犯釈放委員会」という団体は,主には私の事務所に集った解放運動犠牲者救援会のグループを指していると思いますね。もしそうだとすれば人数も15,6人,多くても20人くらいでしたよ。
    救援会の結成を中心となって担ったのは泉盈之進,太田慶太郎,内野竹千代,砂間一良,伊藤憲一,関根悦郎,藤原春雄,江森盛弥,渡会秋高さんなどです。もちろん服部さんにしろ,高橋さんにしろ救援会の再建時から会員であり,結成に尽力されましたけれども,中心人物とは言えないと思いますよ。
    この『資料労働運動史』の記述は,あなたが先ほど指摘されましたが,松本一三さんが『アカハタ』にマツモト・カズミの名前で発表した
    「出獄前後 十月十日の思ひ出」(前出)を典拠にしていますね。

    「われわれが獄内で,こんなふうにねばり強い釈放要求闘争をつづけているとき,社会においても政治犯釈放運動が組織的に,またいろいろのグループによってまきおこってきた。朝鮮の同志たちによって組織された『政治犯人釈放運動委員会』と進歩的弁護士やハットリ・ムギオ(中央委員候補),現在アカハタ編集局で働いてゐる同志タカハシ・カツユキ,フジワラ・ハルオなどを中心につくられたグループなどである」(第68号,1946年10月5日)。ここでいう「進歩的弁護士」とは,私や上村進,神道寛次,岡林辰雄,岡崎一夫さんなどを指しているのでしょう。


    10月10日に徳田球一さんらが出獄する直前の状況,とくに府中刑務所における釈放要求闘争が詳しく紹介されていて,歴史資料としても価値があると思いますね。熱烈に迎える労働者,朝鮮人,市民の歓迎ぶりがいきいきと描かれていて,私自身,あの半世紀近く前の10月10日にタイムスリップしたような感じになりました。

    私はこの日午前9時に府中刑務所に入りまして,刑務所側の担当者と打ち合わせを行い,いったん通用門を出て,徳田さんたちを迎えたのでした。『アカハタ』における松本さんの10月10日の描写は,私が記憶する情景とまったく同じで,繰り返しになりますけれども半世紀を経て彼の記事を読み,感動と感慨に包まれました。
    それにしても松本さんが明らかに事実と違う
    服部麦生,高橋勝之,藤原春雄さんを政治犯釈放運動の中心人物と記したのはどうしてだろう。このことについては私自身,多少遠慮しまして,電話でも手紙でも尋ねなかったのです。日本共産党の機関紙部の責任者は主筆の志賀義雄さんです。松本さんは『アカハタ』の編集発行の名義人でした。大原社会問題研究所雑誌 No.523/2002.6んも藤原春雄さんも『アカハタ』の編集部員だったのです。
    実際は徳田さんや志賀義雄さんら“府中組”のことだったのです。徳田さんたちは1945年4月に米軍の空襲で豊多摩刑務所内の東京予防拘禁所が被災し,そのため府中刑務所に移されたとのことでした。

    とにかく敗戦の年の1945年8月,9月の遅い時点まで,私らは市川さんや徳田さんら日本共産党の幹部がどこの刑務所に拘禁されているのか知らなかったのです。
    市川正一さんは1929年の4・16事件で検挙され,以来,15年も16年も獄中にあり,拷問のはてに亡くなりました。享年53歳ということでした。人生の三分の一を獄中で過ごしたことになりますね。

    天皇制国家の弾圧法規が撤廃され,そして政治犯釈放の機運を一気に高めたのは,10月4日に占領軍が発した指令,いわゆる人権回復指令でありました。そのきっかけとなったのが,哲学者・三木清が獄死した報道だったと思います

    三木清は戦争が終わっても囚われていて,9月26日豊多摩刑務所で獄死しました。死亡診断書は急性腎臓炎ということになっているらしい。けれども彼は拷問を受けて歯が折れてしまい,麦飯を十分に噛むこともできず,さらに疥癬によって全身が衰弱して死亡したということでした。

    三木清の獄死に占領軍当局がいかに衝撃を受けたかは,この本(前出『占領戦後史』)でも少し紹介していますね。占領軍は直ちに,東久邇宮内閣に対して政治犯の実態に関する報告書の提出を命令し,10月2日には高円寺(杉並区)の三木清の自宅にわざわざ係官を派遣して弔意を表し,あわせて事情説明を求めているのです。

    ロベール・ギランの府中刑務所の訪問が10月1日に実現しまして,彼の訪問がスクープという形で,同盟通信社の配信で日本の新聞でも報じられ,一躍注目されたのです。
    私はこれまで,ロベール・ギランについてはフランスのAFP通信社の記者と思っていたのですが,どうも『ルモンド』の東京特派員だったようですね。山崎さんの話では,彼は日本に来る前は中国に駐在し,戦時中はおもに中国共産党支配の解放区に入ってその動静を取材していたらしい。ロベール・ギランとは府中刑務所に行ってもらったことで関係ができ,彼もその後2,3回,私の事務所に来ています。

    京都学派の左派で,当時の日本を代表する哲学者の三木清と戸坂潤の獄死が,市川正一さんにつづいて伝えられました。これは私事ですが,私は大学時代に三木清の『唯物史観と現代の意識』(1928年)という本を読み,いっきに哲学に興味をもちました。1933年9月13日に日本労農弁護士団事件で検挙され,1年数か月獄にいる間,私はヘーゲルの哲学書を差し入れてもらい,何冊かは原書で読むことができました。哲学書はどういうわけかスムーズに許可されて,読むことが認められたのです。逮捕さ
    れて本を読めるなんて皮肉ですね。

    出獄を歓迎する簡単なセレモニーが行われ,朝鮮人団体を代表して金斗鎔さんが歓迎の辞を述べました。そして,これに答えて徳田さん,志賀義雄さん,金天海さんが演説をしました。セレモニーが終わって参加者が雨のなか広場内を駆け足のデモ行進を行って集会はいったん解散したわけです。これらはまさしく松本さんが書いている通りです。
    私はデモ行進のとき会場にいなかったのです。私はデモが始まる直前に会場を抜けまして豊多摩刑務所に急ぎました。というのは前日の
    打ち合わせで,神山茂夫さんなど“豊多摩組”も10月10日に出獄することを決め,出獄にさいしては私が立ち会うことになっていたからです。太平洋戦争が始まった年の1941年3月に治安維持法が三たび改正されましたが,神山さんはその年の5月に予防的に検挙され,豊多摩刑務所に収容されて私自身,面会を重ねていたのです。


    自由戦士出獄歓迎人民大会
    1945年10月10日はほんとうに忙しい日でありました。80年の人生のなかで一番忙しく走り回り,かつ胸に染み込む思い出の一日となりました。大げさに言わせてもらうならば,私は日本現代史の幕開けに立ち会ったのであります。日本社会運動の再出発の舞台装置を整えることに,一人の弁護士として微力ながら参加いたしました。これは私にとって大いなる喜びで
    あり,まことに幸せなことであります。
    さて,当日の午後2時から解放運動犠牲者救援会,自由法曹団,朝鮮人団体の共催で日比谷公園の野外音楽堂において“府中組”の出獄政治犯を歓迎する「自由戦士出獄歓迎人民大会」を開くことになっておりました。この集会開催は,伊藤憲一さんが提案されて決まったものです。そして,この集会については私が10月8日に府中刑務所を訪ねたときに徳田球一さんに直接伝え,了解を得ておりました。
    私は神山茂夫さんの出獄を手伝って,その足で彼をつれて集会に参加し,彼も私も短い挨拶をすることになっておりました。ところが彼は前日の夕刻,突然釈放となったのですが手続上,問題が生じ,私が立ち会って処理することになり,それで豊多摩刑務所に出向いたのです。けれども神山さんは10日昼,これも突然占領軍のジープがやって来て彼を連行し,集会に一緒に参加できなかったのです。
    「自由戦士出獄歓迎人民大会」に徳田球一さんや志賀義雄さん,神山茂夫さんらが出席できませんでした。この資料(前出「獄中の共産党
    幹部の釈放」)にも書かれていますが,徳田さんらはアメリカ占領軍の第8騎兵師団に尋問のために連行されたのです。ともあれ,この日の「自由戦士出獄歓迎人民大会」は伊藤憲一さんの司会で始まり,自由法曹団を代表して布施辰治さんが挨拶し,朝鮮人団体を代表して金斗鎔さん,それに酒井定吉さんや人民文化同盟の中西伊之助さんが演説をなさったのです。いずれも天皇制専制政治,とりわけ治安維持法と特高の弾圧の数々を挙げてこれを糾弾しておりました。演説の途中,司会者から宮本顕治さんが網走刑務所から釈放されましたという報告がなされると,会場に「うおっ」
    と歓声があがりました

  4. 【4173286】 投稿者: ロベールギラン  (ID:fV1MWPx5wt.) 投稿日時:2016年 07月 08日 02:08

    著書「La Guerre au Japon[2]」(1947年)において、
    神道を貶め、日本や日本人に対しても、血の気が多い、野心に燃えている、高慢、厚かましい、非合理的、自らの醜い外見と知能の愚鈍さを自覚しているため劣等感に苛まれている、スパイ行為は日本の病気あるいは国民的欠陥である、といった中傷をするばかりか、連合国軍による日本への空襲さえ正当化するなど、戦時中の日本を誹謗する二面性をかね備えていたことがレジスタンス出身の知日派で、元パリ・マッチ特派員アルフレッド・スムラー(Alfred Smoular, 1911年-1994年)により暴露され、親日的な他の著書を挙げて「同じ著者とは信じ難い」と驚いている[3]。 またスムラーは、ギランが戦後の紋切型な日本観(頂点としてはジャパンバッシングに至る)を広める一助となったこと、およびソビエト連邦の人物と目される著者の回想録にあった偽りの証言を取り上げたことを強く批判しており、「(ギランの1947年、1979年、1981年の著書は)日本についての多くの歴史的知識を伝えると同時に、潤沢な一国の経済に偽札を流通させるようなことをしている」と書いている

  5. 【4173289】 投稿者: nezusan  (ID:fV1MWPx5wt.) 投稿日時:2016年 07月 08日 02:25

    広島・長崎に落とされた原爆、東京大空襲や、太平洋沿岸の各市町村への米国の艦砲射撃等の無差別爆撃は、これより先に日本軍が、中国の“重慶”を爆撃し、無差別に市民を殺戮したことがきっかけになっている、という説があります。

    『重慶抗戦紀事』によると、日本軍の重慶への爆撃は、1938年12月4日より1943年8月23日にかけて、断続的に218回行われたとされており、中国側の死者は計11,800人、家屋の損壊は17,600棟となっているとか。。

    一般市民への無差別爆撃は、1899年のハーグ陸戦条約での禁止事項です。

    そのジュネーブ条約を先に破り、一般市民への虐殺を日本が先にしたのだ、というのが彼らの主張のようです。

    都市部への爆撃は、それが軍事施設であれば、正当な軍事行為です。
    そしてその軍事施設(飛行場、兵器庫、兵舎、対空設備、艦船等)への攻撃を受けた際、一般市民が巻き込まれないように、配慮するのは、むしろ攻撃を受ける(可能性を含む)側の軍に課せられた使命です。

    つまり、軍は、一般市民に対して、避難命令を出さなければならない。
    もし、その避難命令が出されず、避難措置が採られていなかったのなら、それが戦闘中のことであれば、爆撃してきた側の国の責任ではなく、むしろ攻撃を受けた側の責任です。

    そこで重慶爆撃についてみてみると、どうも不思議なことがある。

    まず、責任追及というものは、責任を追及する側と、される側の特定が必要となります。

    この場合、責任を追及される側は、もちろん日本です。

    では、責任を追及する側は、誰でしょうか。

    1938年~1943年当時、重慶にいたのは、蒋介石率いる国民党です。

    国民党は、南京を追われた後、重慶を首都と定めた。

    ただし、この時点で、国民党は中国の正当な政府ではなく、単なる中国エリアの軍閥にすぎません。
    なぜなら、国民党が中華民国をうちたてて、蒋介石が初代総統に就任するのは、1948年のことだからです。

    そして毛沢東率いる中国共産党が中華人民共和国を打ち立てるのは、1949年10月1日(中華人民共和国建国記念日)です。

    つまり、重慶爆撃があったと彼らが主張する1938年~1943年というのは、まだ中華民国も、中華人民共和国も誕生していません。

    つまり彼らは、どちらも、この時点では正当な政府ではなく、重慶を統治していたのは、中華民国・・・いまの台湾であり、毛沢東率いる中華人民共和国は、この時点では、重慶は、他国ですらあった。

    そして中華民国は、いまにいたるも重慶に関する日本の責任追及はまったく行っていず、かさねていうなら、東京裁判の判事として名を連ねた中に、梅汝敖(中華民国派遣)もいるけれど、その東京裁判で重慶空爆に関しては、まったく問題視されてもいない。

    つまり、中華人民共和国が、重慶空爆被害を主張するのは、そもそも筋違いであるともいえそうです。


    さらに重ねて年次の推移をみてみると、

    第二次世界大戦のはじまりは、1939年9月1日のドイツ軍によるポーランド侵攻。

    大東亜戦争の開始(真珠湾攻撃)は、1941年12月。


    で、重慶爆撃が、1938年12月からとするなら、戦争前の出来事ということになります。

    なるほど、1938年当時といえば、前年の7月に盧溝橋事件があり、ここから日華事変がはじまっています。

    しかし、当時の中国は、清国が倒れたあとで、国家はいわば内乱状態にあり、蒋介石率いる国民党と、毛沢東率いる中国共産党が互いに衝突し、内乱を起こしていた時期にあたります。

    要するに1938年~1943年という、日本軍が重慶爆撃を行ったとされる期間は、国際法上は、中国に政府はなく、いわば、いまのソマリアのような無政府状態になっていたわけで、日本はその無政府状態にあったシナに、治安維持のために出動していた。

    よく、日中戦争という言葉が使われます。
    そしてその日中戦争において、日本は、重慶を無差別爆撃し、多くの市民を殺傷したという。

    しかし、戦争というのは、国家対国家の紛争解決の最終手段をいいます。

    まだ中華人民共和国も、中華民国も誕生する前の段階では、中国には国家はない。
    ない国と戦争はできないから、これは「国家対国家の戦争」にあたらない。

    では日本軍が戦った相手はなにかというと、蒋介石率いる当時「国民党」を名乗った中国のいち軍閥であって、幸か不幸か、当時の中国共産党とは、日本軍は、一度も戦火をまじあわせていない。


    日本側資料によると、重慶爆撃は、作戦が終了するまでに72回(=中国発表は218回)の長期の空襲を行っているけれど、1941年9月には、日本軍は作戦を打ち切っている。

    ところが、中国側の主張では、重慶爆撃は1943年8月まで続いたという。

    作戦を打ち切っているのに、爆撃がされるはずもなく、これはあきらかにおかしい。


    さらに被害者の人数の問題があります。

    冒頭に、≪中国側の死者は計11,800人、家屋の損壊は17,600棟≫という、中国側の発表数字を書きましたが、

    中国の発表は、年々被害者の数が増えている。

    2000年07月13日
    「死亡した2500人の同胞を」

    2001年06月06日
    「市民1万1889人が死亡、1万4100人が負傷」

    2004年07月14日
    「被害者は5万人以上で」

    どうもあやしい。


    ねずきちは、人を利用主義的に利用するということが、いちばん嫌いです。

    なかでも亡くなられた人の数というのは、その亡くなられたおひとりおひとりが、生きていた人間であって、おひとりおひとりにそれぞれの人生があったことを思えば、数を間違えるなど、言語道断です。

    おひとりおひとりに人間としての尊厳を認めるならば、数は実際より少なかったら死者への冒涜になるし、多くてもやはり冒涜だと思うのです。

    人を大切に思うなら、数の間違いなんて、あってはならない。

    その数が、年々変化する。
    それってつまり、亡くなられたおひとりおひとりの人命を尊重するという考えではなくて、数にモノをいわせて、おのれの政治的主張を押し通そうとする政治的プロパガンタにすぎない。

    政治的プロパガンタであるということは、亡くなられた死者をすら利用主義的に利用しているわけで、それは人として許されない行為ではないかと思う。


    さらに続けます。

    日本軍による空爆はあったのかなかったのか。南京陥落後、蒋介石が重慶に逃れ、ここを国民党の本拠地に置いたのは事実です。

    そして日本軍が、重慶爆撃をしようとしたのも事実です。
    ただし、当時の日本軍は、爆薬もガソリンも乏しく、爆撃対象は飛行場と軍事施設に限られた。

    中国の文章によると、
    「1940年6月上旬頃までの爆撃は、もっぱら飛行場と軍事施設に向けられていたが、重慶市街にも相当数の対空砲台があり、そのため味方の被害も増大する状況となったので、作戦指導部は遂に市街地域の徹底した爆撃を決意した。」
    などと書かれています。

    山本七平の「ある以上体験者の偏見」という本がありますが、そこには次のような文章があります。

    -------------------------------------
    (日本軍)の欠陥兵器を次々にあげていけば際限ないが、あまり長くなるのでこの章の最初に述べたAさん、陸軍の重爆隊の生き残り、の言葉を収録し、それを敷衍してこの稿を終わろう。

    「新聞に出なかったけれどなぁ、重慶・昆明の爆撃はひどかったよ。

    日本の高射砲は絶対に当たらネーが、中国のは米国製でなぁ、よく当たりやがるんだ。

    一回行けば八機は落とされた。重爆ってのは九人乗ってたんだぜ、そのたびになぁ、
    8×9=72人 の遺骨無き部隊葬よ」
    ------------------------------------

    どうやら、上の中国側の文章にある、
    ≪重慶市街には相当数の対空砲台があり≫、
    ≪味方(日本軍)の被害も増大する状況≫

    の2つは、事実のようです。

    問題はそのあとに続く、≪市街地域の徹底した爆撃を決意した≫ですけれど、当時の世界で、市街地の無差別爆撃ができるほどの余裕があったのは、米軍だけです。

    日本にはそれだけの余裕はありません。

    日本が重慶への爆撃を行ったことは、陸軍飛行戦隊の記録にもある。

    しかし、基本的に物資の乏しい日本機が爆撃を行うのは、軍事施設への精密爆撃です。しかも、いく都度、むしろ日本の方が、飛行機を撃ち落とされている。

    高機能の高射砲を持ちながら、一般市民が巻き添えになったとするならば、それは当時重慶を占領していた国民党軍が、一般市民に対する避難勧告を怠ったからであるといえます。


    出撃して撃ち落とされた日本兵にも、亡くなられた中国の方にも、深く追悼の意を表したいと思います。

    いまとなってたいせつなことは、戦時中に大切な命をなくされたおひとりおひとりへの深い追悼と慰霊が第一と思います。

    そして追悼と慰霊に際して、たいせつなことは、亡くなられたおひとりおひとりへの追悼です。

    間違っても数ばかりが先行し、肥大化するようなことは、あってはならないことだし、それを政治的に利用するなどということは、なにより、亡くなられた方々への冒涜であると、ねずきちは思います。

    亡くなられた方の数に洩れがあってはならないし、同時に、数ばかりが独り歩きして増えることもよくない。人の命というものは、そんないい加減なものではないと思うのです。

    重慶市で、兵士にせよ、一般市民にせよ、お亡くなりになられた方がおいでになるなら、その方々が当時の施政者にとって大切な方々なら、当然、誰と誰がお亡くなりになったかきちんと把握されていることでしょう。

    当然、人数もはっきりとわかる。

    それが「わからない」というなら、当時の重慶の施政者は、兵士や市民を「顔のある人間」、「たいせつな人」としてみていなかったということになる。

    人の命は、じっぱひとからげにされるべきものではないです。

    人の命がかかっている事柄である以上、もし重慶爆撃による一般市民の死傷者を問題視するなら、ただ相手が残虐だ、残虐だと騒ぐのではなく、具体的な事実を正確かつ詳細に検証すべきでなないかと思います。

    人はそれぞれ幸せに生きる権利を有するものだと思います。
    そして人々の集合体である国家は、人々の命に責任がある。

    数も正確に知れないような政府なら、それはもはや政府ですらない。

    避難勧告すらせずに、一般人の人命まで犠牲にしたというなら、それはもはや政府の名に値すらしない。

    ひとの命を大切にしないような政府なら、重慶政府が政府の名に値しないものであることを自ら認めているに等しい。

    そしてもし、重慶無差別爆撃なる主張が、なかったことを、政治的にあったとしているなら、人命軽視もはなはなだしい。

    なぜならそれは、人の命というものを、政治的にもてあそんだことになるからです。

  6. 【4173290】 投稿者: 亡命者 徳球  (ID:fV1MWPx5wt.) 投稿日時:2016年 07月 08日 02:35

    連合国側は、ロシア革命によって、連合国内で活動する社会主義者たちがさらに増長する怖れがあった。
    ロシアはウクライナ・ベラルーシ・バルト三国の領土をドイツに割譲。
    この結果、ロシアの各地では革命支持派(赤軍)と反革命派(白軍)との間で内戦(ロシア内戦。1917-23)が勃発。
    バイカル湖以東への1918.8シベリア干渉戦争が始まる。
    ロシア国内では赤白の内戦に加え、同盟国を敵として戦ってきた同志の国々による干渉によって、大混乱状態となる。
    シベリア出兵について
    アメリカと日本が中心となって行われた。
    地理的にも日米両国の方がシベリアに近いため。(アラスカに近い)
    ドイツ革命にて第一次世界大戦は終結、英仏両国はロシア干渉をやめ撤退する。
    日本の駐屯各地では、日本の駐留に反対する労働者や農民らによって抗日パルチザンが結成される。
    (非正規な武装集団)
    パルチザンは赤軍に味方にする。
    1919年1月からはパルチザンの遊撃戦が日本軍との間でおこされた。
    それがイワノフカ事件である。
    3月22日、シベリア出兵中の日本軍が、抗日パルチザンに対する掃討作戦の過程でアムール州ブラゴベシチェンスク郊外
    のイワノフカ村において多数の民間人を焼き討ち殺害したのである。
    ロシア内戦は革命派(赤軍)の勝利となる。
    アメリカは1920年1月にシベリアから撤退を始める。
    日本は撤退することなかった。
    なぜ当時の日本側の撤退しない事情とは何であったか?
    領土獲得への野心
    日露戦争後に失った利権の奪還
    地政学的な理由
    日本の政体(国体)である天皇制と革命政権のイデオロギーは相容れないこと
    共産主義が日本を含めた同地域に波及することを阻止する
    1920年1月末
    アムール川河口の港市ニコライエフスク(日本語名は"尼港")が4000名の抗日パルチザンによって包囲される。
    日本守備隊および居留民はほぼ全滅
    (日本国内のメディアでは"尼港の悲劇(尼港の惨劇)"として大々的に報道される)
    その後日本側の報復として同地を保障占領する。(日本軍の北樺太占領。1920.9-25)。
      
    閣議で6月1日にシベリア撤退を決めていた政府は尼港における凄惨な事件によって、詳細な内容は隠された
    マスメディアはただ"尼港の悲劇"としての報道だけに及んだのである。
    イワノフカ事件
    尼港事件
    共産主義イデオロギーの恐怖
    この3点を話さずに戦争は語れないのである。
    レーニンは1920年12月ロシア共産党モスクワ組織の活動分子の会合での演説をした。
    内容は共産主義世界の征服についての策略である。
     二つの帝国主義のあいだの、二つの資本主義的国家群のあいだの対立と矛盾を利用し、彼らをたがいにけしかけるべきだということである。われわれが全世界を勝ちとらないうちは、われわれが経済的および軍事的な見地からみて、依然として残りの資本主義世界よりも弱いうちは、右の準則をまもらなければならない。すなわち、帝国主義のあいだの矛盾と対立を利用することができなければならない。
     
    我々にもっとも近い対立それは、日本とアメリカの関係である。両者の間には戦争が準備されている。
    二国は太平洋の両岸で平和的に共存することができない。
    共産主義政策の実践的課題は、この敵意を利用して、彼らをたがいにいがみ合わせることである。
    http://ironna.jp/article/914 





    報道しない自由
    報道を選ぶ自由
    教科書に掲載しない自由
    史実を選ぶ自由
    ネットで拡散する自由
    ネットでブロックする自由

    自由であるために
    今何が問題で
    何を求めているのか
    底なし沼に陥ってる大和の国の人たちよ

    俯瞰で史実を見る訓練を養えたまえ

    レイシストにあらず
    戦国武将の戦いを見つめてきた農民平民の心で

    現世は何に囚われているのかを

  7. 【4177977】 投稿者: 近衛上奏文  (ID:mlzhDxbjeSI) 投稿日時:2016年 07月 12日 07:36

    「現に延安にはモスコーより来れる岡野*を中心に日本解放連盟組織せられ朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ居り候。かくの如き形勢より押して考うるに、ソ連はやがて日本の内政に干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候(即ち共産党公認、ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く共産主義者の入閣、治安維持法、及防共協定の廃止等々)翻て国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられゆく観有之候。即生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動、及之を背後より操りつつある左翼分子の暗躍等に御座候。右の内特に憂慮すべきは軍部内一味の革新運動に有之候。」

    *岡野: 当時中国の延安で活動していた野坂参三(変名・岡野進)。後に日本共産党議長。


    このように近衛はわが国で共産革命が達成する条件が日々整いつつあると指摘し、特に憂慮すべきは「軍部内の一味の革新運動」だと述べている。

    「少壮軍人の多数は我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存じ候。職業軍人の大部分は中流以下の家庭出身者にして、其の多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、又彼等は軍隊教育に於て国体観念だけは徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。

    抑々(そもそも)満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは是等軍部内の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと存候。…

    是等軍部内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部新官僚及民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人之に踊らされたりと見て大過なしと存候。

    此事は過去十年間軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り交友を有せし不肖が最近静かに反省して到達したる結論にして此結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思い当る節々頗る多きを感ずる次第に御座候。

    不肖は此間二度まで組閣の大命を拝したるが国内の相克摩擦を避けんが為出来るだけ是等革新論者の主張を容れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せるの結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能わざりしは、全く不明の致す所にして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候。」

    226事件2

    このように近衛は日中戦争を拡大させてわが国を第二次世界大戦に導いたのは軍部内の革新勢力であり、彼等が意識的に共産革命まで引き摺り込もうとしたと述べ、二度にわたる組閣の大命を拝しながら、彼等の意図を見破れなかった自分が迂闊であったことを昭和天皇に詫びているのである。

    「昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。
    一方に於て徹底的に米英撃滅を唱うる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部はいかなる犠牲を払いてもソ連と手を握るべしとさえ論ずるものもあり、又延安との提携を考え居る者もありとの事に御座候。以上の如く、国の内外を通じ共産革命に進むべき、あらゆる好条件が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、この形勢は急速に進展致すべくと存候。」

    戦後のわが国の歴史叙述では軍国主義者が暴走して戦争に突き進んでいったと記されるところだが、近衛は共産分子が革命を成就するために国民を煽動していると書き、軍部に於いてはソ連や中国共産党と提携すべきである論じる者がいると述べている。戦後のわが国で拡げられた歴史叙述はとはほとんど真逆のことを記しているのだ。


    近衛はさらに、敗戦必至の戦争をこれ以上継続することは共産党を利することになるだけであり、一日も早く終戦の方途を講ずべきであるのだが、最大の障碍は軍部内の革新勢力であり、彼等を一掃しなければならないと説いている。

    そして最後に、「此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく存奉候。」と結んでいるのだ。

    『戦後マスコミ回遊記』では近衛上奏文についてこう評している。

    「それは余りにも遅すぎた。指摘通り、投げられたサイの目は、誰の目にもすでに敗戦、破局をハッキリと明示していた。泣いても、訴えても、今さらどうしようもない時点だった。それにしても、コミンテルンの二段革命論にはまり込み、この国がまさに革命の巌頭に立たされていることに気づいただけでも、この告白的上奏文の持つ史的意義は大きかった。だまされ、利用され続けてきた、かつての青年マルキストなればこその覚醒だったと言える。遺憾ながら、このような元総理の上奏文が出たなどということは、当時ではだれ一人知る者とてなかった。(ただ軍部だけはこれを察知し、この上奏文に関係した者として、後の首相吉田茂氏を憲兵隊に留置し、告白させようとしたが、吉田氏は頑として口を開かなかった。筆者は岩淵辰雄さんだった。)
     それは戦後、近衛が巣鴨入りをいさぎよしとせず、服毒自殺したあと、ちょうど三田村論文*を知ったあとだったと思うが、初めて公表され、識者に衝撃を与えた。」(『戦後マスコミ回遊記』p.44-45)
    *三田村論文:三田村武夫著『大東亜戦争とスターリンの謀略~戦争と共産主義』

    近衛は、終戦直前になってようやく、日中戦争も太平洋戦争もソ連の利益のために仕掛けられたことに気が付いたのだが、戦後のわが国ではこの文書を闇に葬ろうとする勢力がわが国の中枢に存在し、軍国主義・ファシズムこそが第二次世界大戦の原因だとする歴史観が広められたのである。

    この『近衛上奏文』が戦後のわが国で広く知られていたならば、わが国を敗戦に導いて共産主義革命を起こそうとした内外の勢力の存在が明らかとなり、戦後のわが国で常識となった「自虐史観」は通用しなかったに違いない。


    そうなっては困る勢力が、戦後の長きにわたり『近衛上奏文』の存在を隠蔽し、マスコミや教育機関だけでなく外圧まで利用して「ソ連や中国など共産勢力にとって都合の良い歴史観」をわが国民に定着させてきたのだが、嘘で固められた歴史観は、いずれ真実を知った国民によって葬り去られる日が来るであろう。



    戦争の原因が一方的にわが国にあるとする偏頗な歴史叙述が、全面的に書きかえられるのはいつのことなのか

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