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【4214204】世界で中国人の排斥は始まった?この前の戦争の時も・・・

投稿者: 華僑ピンチ   (ID:Qg.8vUaov0c) 投稿日時:2016年 08月 15日 21:30

http://www.recordchina.co.jp/a137097.html
中国人移民はお断り?!カナダやオーストラリアなど人気移民先が方針転換―中国

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160815-00010000-afpbbnewsv-int
パリ郊外で「反中国」に対する抗議デモ、4000人が参加

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  1. 【4214212】 投稿者: 中国人移民排斥法  (ID:Qg.8vUaov0c) 投稿日時:2016年 08月 15日 21:37

    http://www.y-history.net/appendix/wh1203-078_2.html


    同じ有色人種として節度ない行動は
    白人社会に一定の差別意識が生まれる。
    歴史は繰り返されるのだろうか?

  2. 【4219254】 投稿者: 仮想敵国を作ること  (ID:Uft09OLLmrY) 投稿日時:2016年 08月 20日 09:11

    日露戦争終戦の翌翌年の1907年、アメリカ西海岸で、激しい排日運動が起きた。歴史家の間では、「日露戦争直後の、この日本人排斥運動が日米関係に影を落とし、太平洋戦争の遠因となった」とする有力な説がある。
    アメリカは1899年に国務長官ヘイが門戸開放宣言を出し、それが中国大陸に対する国策の基本となり義和団の乱での出兵を機に中国、特に東北部(満州)への侵出を謀るようになっていった。
    1904年セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の下問で陸海軍統合会議が仮想敵国(potential enemy)を色で表現し長期的戦略計画と言われているカラーコード戦争計画の一環で、対日本「オレンジ計画(War Plan Orange)」の作成に着手した。
    その30数年後、この計画は実行に移された。1905年には日露戦争で日本・ロシア間の調停をつとめ、停戦からポーツマス条約での和平交渉に尽力した。この和平交渉の斡旋によってセオドア・ルーズベルトは1906年ノーベル平和賞を受賞した。
    満州をめぐって日本とロシアが対立し日露戦争になると大統領はそのいずれかが決定的な勝利によってアメリカが追い出されてしまうことを恐れて、両国の仲介に乗り出したの真意であったが・・・

    日露戦争後の日米関係悪化
    満州問題をめぐる対立 日露戦争で日本が南満州鉄道敷設権を獲得したことに対し、アメリカは門戸開放の遵守を迫って抗議した。日本はこのようなアメリカの動きに対し、急速にロシアとの提携を強め、日露協約で北満州をロシア、南満州を日本がそれぞれ勢力圏として分け合うことに合意した。
    アメリカは両国による満州分割に反発し、満州の鉄道をすべて国際管理に置くことなどを提案している。
    海軍増強問題
    1904年のパナマ運河開通、ハワイでの軍港の整備など、太平洋への海軍進出を図るアメリカにとって、日本の海軍力は大きな脅威であった。両国は日露戦争後、積極的な建艦競争にのりだし、互いに相手を仮想敵国(potential enemy) 視するようになった。
    両国でさかんに「もし日米、戦わば」という未来戦が人気を博した時代であった。
    日本人移民問題
    もう一つの日米間の摩擦の要因となったのが、日本人移民問題であった。明治元年から日本人のハワイ移民が始まり、さらに20世紀に入るとアメリカ西海岸に激増した。
    白人(主にアイルランド系)労働者は、人種的偏見と共に安価な労働力によって仕事が奪われるという経済的観点から、激しく日本人移民を排斥するようになった。
    第1次世界大戦後は、移民制限の動きが強まり1924年の「移民法」で日本からの移民は全面的に禁止されることとなる。
    また、世界的な動きの中でも、ドイツのヴィルヘルム2世が「黄禍論」を唱え、日本人に対する警戒を呼びかけている。
    日本人移民排斥
    1906年、サンフランシスコで、公立学校への日本人学童の入学が拒否され、他のアジア人と同じ学校に数学スベシという市条例が制定された。これに対して日本国内でも激しい反発が起こり、アメリカに対する非難が強まった。
    1908年、高平・ルート協定(駐米公使高平小五郎と国務大臣ルート間の紳士協定)で日本はアメリカへの移民を自主規制するなどの妥協したが、なおも問題は継続した。
     
    その後、カリフォルニアでは日系人の土地所有、賃貸が増加し、
    1913年にはカリフォルニア州議会が排日土地法を制定し、日系1世は土地所有が出来なくなった。
    このときも日本国内で激しい反米運動が起き、日米戦うべしと言った演説も聞かれるようになった。
    セオドア・ルーズベルト大統領は「根深い人種問題が露呈し排日運動」による「日米戦争への道」を語った。
    「日米間の感情的対立」が深まった緊迫した事態について、のちに、「排日移民問題は、大統領任期中に直面した最も厄介な事件だった」と述べている。
    「オレンジ計画」を推進するセオドア・ルーズベルトは当初アメリカ海軍の準備が不十分で不用意に日本と開戦すれば、アメリカ海軍が日本海軍に負けるかもしれないと感じていたのだった。

  3. 【4219338】 投稿者: でもね  (ID:Lh6u4oFz132) 投稿日時:2016年 08月 20日 10:31

    中国、案外欧米に勝っちゃって中国優位の世界となるかも。
    覇王の国だから。

  4. 【4219420】 投稿者: ですね  (ID:Uft09OLLmrY) 投稿日時:2016年 08月 20日 12:12

    白人と手を結ぶ華人たちと
    白人が恐れたモンゴル人と日本人

    1241年モンゴル帝国の黄色人種であるバトゥ (Batu, 1207年 - 1256年) はポーランド・ドイツ連合軍と衝突し最大の決戦を行う。
    モンゴル軍はバトゥの部将バイダルとカダアンが指揮
    ポーランド・ドイツ連合軍はシュレージェン(シレジア)公ハインリッヒ(ヘンリック)2世が率いた
    この戦いでハインリッヒ2世も戦死し、モンゴル軍の大勝となる。
    モンゴル軍は討ち取った敵兵の耳を切り取り集めたのが大きな袋9袋になったという。
    キリスト教世界は黄色人種に強い恐怖を覚えた。
    ローマ教皇インノケンティウス4世はフランチェスコ会修道士プラノ=カルピニをモンゴルに派遣し、情報の収集を図った。
    この戦いはワールシュタットの戦いと呼ばれています。
    皇帝オゴタイ・ハンの死によりモンゴル軍の遠征隊は退却します。皇帝の死がもっと遅れていたらヨーロッパ全土がモンゴルの支配下になったであろうと歴史学者は言われます。
    もちろんこのことは歴史的な記憶として白人社会には深く刻まれました。東から来た黄色人種にやられると言う恐怖感でした。
    大航海時代から白人優位に世界の勢力地図は塗り替えられました。あと少しで世界征服と言う所まで白人は来ていましたが日露戦争の日本の勝利と700年近く前にモンゴル軍に負けて蹂躙された記憶が呼び覚まされ日本の勢力伸長を怖がる声が大きくなったのです。
    それが黄禍論なのです。
    同じ黄色人種でも過酷な環境の草原の中で遊牧しながら弱肉強食の世界を生きてきたモンゴル人
    相互助け合いの精神で生きてきた農耕民族であった日本人では民度が違い過ぎましたが白人社会には同一視に写るのでした。
    ともかくこの黄禍論と言う間違った強硬的な考え方はまだ白人の中にあると私は思います。
    (南京大虐殺捏造や慰安婦捏造、日本軍人肉食す捏造 などは
    現在地球の裏側で流布され続けるでしょう)

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