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【4211051】日本の古(いにしえ)

投稿者: 善人   (ID:iY3zXBxtWIE) 投稿日時:2016年 08月 12日 18:36

日本の古きいにしえをつぶやき語り合いませんか?

悪人、悪口不可
総合的な理由を勘案して問いかけに答えないことがあります
ご容赦下さい。

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  1. 【4302411】 投稿者: イワサキ  (ID:Wlhh8p5o5Sg) 投稿日時:2016年 10月 28日 11:50

    三笠宮崇仁親王殿下が昨日薨去されました。
    謹んで、心からの哀悼および、ご冥福をお祈り申し上げます。

    昨日から、今朝にかけての、テレビ新聞等を見たが、言葉の使い方、敬称がめちゃくちゃ
    三笠宮さま逝去の見出しの新聞、テレビニュースがほとんどであった。

    敬称の扱い方は皇室典範23条に明記、天皇、皇后、太皇太后、皇太后は陛下
    それ以外の皇族の方々は殿下と明記されている。
    そして逝去も大間違い、天皇陛下は崩御、皇太子は薨御、皇族は薨去と決まっている。
    話し言葉(口語)での親しみをこめたやり取りは構わないとおもいますが
    せめて記録、文書に残るものは、正式な表現にするべき。実はこの敬語、謙譲語は日本語の奥深さを表しており、世界の言語の中でも謙譲語、尊敬語が最も多いといわれる、日本語ならではと思います。
    古来から、日本語は主語なしで語りあう事が可能、文脈の中の、謙譲語、尊敬語で誰のことを語っているのかがわかる言語です。
    これが、万葉集、古今和歌集などの和歌の発達をもたらしたと考えます。

    天皇陛下のお言葉の際にもすぐに書き込んだが、生前退位なる造語は宮内庁、マスコミが生み出した造語、御譲位が正式な言葉です。
    古来より、国を譲る(出雲国譲り)位を譲るとの素晴らしい日本語があるのに
    生前退位など、退くことを主眼に置いた造語であり、皇后陛下が驚いたのも無理はない、きわめて失礼な造語だと思います。

    一般人の我々でも、自らが生前贈与と言い出すのは構わないが、家族から生前贈与などの言われたら、憤慨する人も多いのではないでしょうか?
    マスコミが主導する言葉の乱れもこの際、国民の手で改めさせるべきだと思います。

    冷静にかんがえるとさん
    久しぶりに書き込んでいただきありがとうございました。面白いネタもあるので
    また書き込みます。

    ちはやふるさんさん
    歴史スレッドで前にもやり取りさせていただいたような、ヨーロッパ中世史の件で記憶にあります。折々お返事させていただきます。ご容赦ください。

  2. 【4302873】 投稿者: イワサキ  (ID:B38CzIH08cc) 投稿日時:2016年 10月 28日 20:58

    冷静にかんがえるとさん

    元気そうで何よりです。単身赴任だったんですね、貴重な家族団らんな時間で書き込んでくれてありがとう。スレッドが過疎化してるのでどうしようと思い、私が書きたいことがあるときだけ書き込んでました。正月にまた帰省されるなら細々ながら書き込みは続けます。

    10/27の新聞で再び、地味だが古代史を揺るがす銅鐸の話が出てます。
    淡路島で出土した松帆銅鐸(紀元前3世紀から紀元前2世紀)が出雲の荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡で出土した銅鐸と同じ鋳型でつくられ兄弟銅鐸であったことが分かった、当然同じ工房でつくられた可能性が高い。
    出雲、加茂岩倉遺跡からは銅鐸39個が出土、荒神谷遺跡からは銅鐸6個と銅剣358本が発見され、神話の出雲が本当であったと認識された大発見であった。

    銅鐸圏は出雲より東の区域で三河、美濃、越前、畿内、吉備、四国東部なんだが、この地域に君臨していた盟主(王)が出雲だった可能性が高く、臣下になった地域豪族(王)に権威ずけで銅鐸を下賜した可能性が高いと思われる。
    この銅鐸は各地の王の祭祀に使われたと推察する。
    この銅鐸製造初期の中心は奥出雲(紀元前3世紀から紀元前2世紀)であり、2世紀に盛んにつくられ、2世紀末には近畿式だけとなり、3世紀になると突然つくられらなくなる。
    粉々にされた銅鐸が各地から発掘されている、政権交代とともに、前政権の象徴を粉々にし葬り去った、跡形もなくなったのである。
    その後の政権は前方後円墳の設計図を与えつくらせたと思う。

    銅鐸がつくられなくなった、3世紀末には、突然近畿に中央集権体制都市、巻向遺跡があらわれ前方後円墳(箸墓古墳)がうまれ前方後円墳が日本全土に伝播していく。近江稲部遺跡からも2世紀から5世紀までの23もの鉄工房(国内最大級)が先日発見されたのを記載済み。
    この歴史の変遷を考えれば、銅鐸を権威にしていた政権から、新しい政権に権力移譲が行われたのが、明らかである。
    記紀に記された、出雲国譲りこそがこれじゃないかな。
    出雲から畿内、尾張、越地方までの銅鐸圏の盟主が出雲であった
    これが、尾張、越地方の勢力(稲部遺跡)、吉備の勢力に出雲が引きずり降ろされ、大和巻向遺跡(中央集権体制)ができたのではないか?
    その名残で、大和、三輪山を御神体とする、大神神社の祭神は、大物主命(大国主命の和魂)なのでは、大和一之宮が、出雲神なのは前からおかしいと思っていた。この政権に九州勢は加わってない。
    出雲が銅鐸を大量に制作し、従った先に銅鐸を下賜した
    また銅剣も大量生産した、銅剣分布図は出雲から九州までの西の区域これは生産して売却していたと考える。
    銅鐸圏と銅矛銅剣圏の中心地はいずれも出雲となる。いずれにしても出雲が神代の代に日本の中心であったのは間違いない。

    古来の流通の大動脈は出雲を中心とした日本海がわ、越まで
    出雲の没落(国譲り)とともに、吉備(岡山)の瀬戸内海側に、大動脈が変遷し
    終着点、難波津、住吉津が繁栄したのは間違いないところであろう。
    一つの発見で様々な仮説が生まれる、まさに歴史はロマンである。

  3. 【4303388】 投稿者: 紙つぶて  (ID:Ih185HJKgRU) 投稿日時:2016年 10月 29日 10:15

    イワサキさん、

    このスレは過疎っていませんよ。こちらを見る方々は、私も含めイワサキさんの書き込みを感嘆しなが読んでいることと思います。冷静に考えるとさんのように古代史についての知識はありませんからラリーはできませんが、毎回楽しみにしています。

  4. 【4304518】 投稿者: イワサキ  (ID:B38CzIH08cc) 投稿日時:2016年 10月 30日 08:42

    紙つぶてさん
    いつもありがとうございます、富士の山も初雪が降ったそうだが、雄大にそびえる富士山を見るたびに、紙つぶてさん元気かなあって思ってましたよ。

    かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける
    (大伴家持「新古今集」)ー引用ー
    家持はお酒をこよなく愛した大伴旅人の長男、旅人が太宰権師で九州に赴任した際は10歳前後、大伴旅人が夜な夜な宴を催し、山上憶良らと座興で歌を詠んでいた(筑紫歌壇)影響を強く引き継いでいる。
    大伴の詠む歌は、天皇家に対する忠心を読み上げた歌も数多く、
    軍歌になった、海ゆかばの作詞は大伴家持である。
    大伴家持が陸奥赴任の際につくったのが、海ゆかばの歌詞
    神代から天照大御神の横に侍り、天孫降臨、神武東征に従い、大王の直属の親衛隊となった誇りプライドが強く感じられる。

    かささぎの 渡せる橋に(天の川)
    冷静にかんがえるとさんは正月には、真っ白にお化粧した、ミルキーウェイを乗り超えて、織姫の待つ家族の元に戻られることでしょう。
    時代が降っても、万葉の世の家族を思う、国を思う気持ちは全く変わりないということですね。

  5. 【4304565】 投稿者: イワサキ  (ID:B38CzIH08cc) 投稿日時:2016年 10月 30日 09:25

    ちはやふるさん、暇なおじさんさん

    お二人で繋いでいただいた
    ちはやふる、我家にはちはやふる全巻あり、子供たちは小学生時代から読みあさってました。さいわい競技カルタが盛んな学校に入学したため、毎年正月明けには大会が催されています。ちはやふる、広瀬すずさんのモデルとなった、
    永世クイーン楠木早紀さんも何度か来てるそうです、今や小学校教師となり、競技カルタの普及に努めているよですね。日本語の語感、情感感じる大人になってほしいと願ってますが、競技として百人一首に触れている感じでまだまだです。
    ちはやふるの古語はちはやぶる

    千早(ちはや)ぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゑに水くくるとは
     在原業平

    そろそろ紅葉のシーズンですが、毎年思うのです、神代の昔にも見たことのない
    竜田川の水面も紅で覆いつくした紅葉、水面に鮮やかに写る紅葉を一度でいいから見てみたいと。
    吉野の桜と竜田川の紅葉を見ていにしえの世界にタイムスリップしてみたい。
    これが願望です。

    在原業平は平安の風流人でありモテ男でもあるが、父方、母方をたどっても天皇の孫にあたり、臣籍降下し在原姓を賜っている。藤原氏の陰謀により葬り去られた皇族数多く、皇籍離脱は賢明な判断であった。政治に関心を持たなければ、風流だろうが、高貴な女性と浮名をながしても身は安全だったわけだ

    多くの女性と浮名をながした在原業平
    小野小町に狙いを定め、歌を贈っている
    秋の野に笹分けし朝の袖よりも あはで寝る夜ぞひちまさりけり(在原業平)

    小町はすぐに返歌を贈り返す
    みるめなきわが身を浦と知らねばや 離れなで海人の足たゆく来る

    チーン!さしものモテ男が撃沈した瞬間である、業平に肘鉄をくらわした
    小野小町も中々の才女であることは間違いない。
    1200年前の、一流歌人でモテ男と絶世美女とのやり取りが和歌で行われ
    現在も知ることができる、まさに日本語の奥ゆかしさを現したやりとりと言えるでしょう。

  6. 【4304662】 投稿者: ちはやふる  (ID:bC5vBWsl7sg) 投稿日時:2016年 10月 30日 10:31

    イワサキさま、有難うございます。
    はい、あのスレで何度かやり取りをさせて頂きました。「イワサキ」さまというHNは記憶にないのですが、変えられたのかしら。
    さて、「海行かば」が万葉集の詔書由来ということは、私も何となく記憶にあったものの、大伴家持よりの引用とは知りませんでした。
    冷静にかんがえるとさまが大山札の六字決まりのお話に続けて大伴家持の歌を引用されたのは、もしかしたら謎かけだったのかしら? 六字決まりには「わたのはら~」の二首がありますから。
    広大な海原へ漕ぎ出した航り人の見た風景、心情を表した二首。
    まさに「海行かば」です。
    もしこれが謎かけでしたら、鮮やかに解いて見せたイワサキさま、お見事です。
    お二人で万葉の世界観を体現して下さいましたね。

  7. 【4305290】 投稿者: イワサキ  (ID:B38CzIH08cc) 投稿日時:2016年 10月 30日 20:51

    HNイワサキヤタローですが、ここではイワサキでやってます。
    歴史スレッドではファーストネームで書き込んでました。

    近江稲部遺跡(2世紀から5世紀)が発見され2世紀初頭では国内最大23か所の
    鍛冶工房が発見されたが、この鍛冶工房に入る鉄の流通経路が非常に重要である。これが分かれば多くの謎が解ける。
    古来の製鉄所遺跡は、奥出雲、有岡、出石、丹後半島の日本海側に集中している、近江稲部遺跡は、息長氏の本拠地であり、神功皇后、応神天皇、継体天皇にゆかりのある地域でもある。
    神功皇后(息長帯比売命、オキナガタラシヒメノミコト)のタラシがたたら製鉄
    鉄と強く関係しているとの学説がある。母方の先祖に天日槍命(アマノヒボコノミコト、天日矛)がいる、記紀によれば半島から播磨に現れ大王に住処は自分で選ばせてほしいと懇願し、有岡、出石に落ち着いた但馬国一宮、出石神社の祭神である。天日槍命(天日矛)名の通り、槍、矛に関わっていたことは間違いない
    この地域には古来の製鉄所が多く、神功皇后もその流れを引き継いでいると想像できる。中国地方は砂鉄の産地(奥出雲)であり、本格的な鉄鉱石は半島からもたらされたと考えられる。

    歴史スレッドで書いたが、朝鮮半島初の国史、三国史記によれば、新羅4代王、脱解は倭人(9代王も)であり、倭の多婆木国(但馬か)からたどり着いたとの記載がある。この4代王脱解と但馬に住み着いた、天日槍命は血族か鉄の流通経路の関係者であるのは間違いにのでないか。
    新羅王の金の王冠にいは大量の翡翠がちりばめられている、これは新潟県糸魚川の翡翠に間違いない、日本から翡翠を大量に持ち込み、半島の鉄鉱石を交易で手に入れていた。この流通経路は日本海側である。
    半島南部には古くから倭人が進出しており言葉も通じたはずである、鉄の利権のために人、物資の交流も盛んであった。
    九州北部勢力が半島勢力と組み、鉄の流通を止めてしまったら畿内勢力はひえ上がってしまう。記紀に記載された、神功皇后の三韓征伐はこのことなのではないか。
    日本海経路で九州北部に赴き、半島南部を、九州を制圧し、瀬戸内海を東征して住吉大社、難波津に入った。(日本書紀では、山門郡の女首長を撃ち滅ぼした記載あり)すべて鉄の流通経路を確保するための事象を書いたものかもしれない。
    九州北部、瀬戸内海、丹後地方、敦賀地方に神功皇后を祭神とした数多くの神社があることも無視できないことになる。
    出雲が没落し、吉備が勃興した結果、瀬戸内海が大道脈となり、難波津から淀川を遡り、琵琶湖にはいり、近江国稲部遺跡の鍛冶工房に鉄鉱石が運びこばれる
    ようになった。

    神功皇后の三韓征伐の裏にはこのような物語があったかもしれない。

  8. 【4306585】 投稿者: ことっち。。  (ID:.O1JNNvZohQ) 投稿日時:2016年 11月 01日 08:55

    イワサキさんの書き込みは非常に面白く、勉強になります。
    日本側の大動脈と瀬戸内海の大動脈のお話があったのですが、ふと1つ疑問が出てきてしまい、変遷するまでの過程において日本海側と瀬戸内海側をつなぐ動脈はどこなのか、物部氏を調べていくうちに何度も、丹後一宮元伊勢籠神社にたどり着いてしまいます。例えば、日本海側籠神社を起点とした場合,,由良川水系より、(本州で一番低い分水界標高100mも満たない山越えのない平坦な旧街道)加古川水系沿いを抜ければ瀬戸内海(播磨)に進むことができ、淡路島にも近く
    又、播磨から摂津、交野磐舟より奈良,,出雲大社,,大神神社?とそうじゃないのかなーっと妄想が膨らむばかりです。

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