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【4211051】日本の古(いにしえ)

投稿者: 善人   (ID:iY3zXBxtWIE) 投稿日時:2016年 08月 12日 18:36

日本の古きいにしえをつぶやき語り合いませんか?

悪人、悪口不可
総合的な理由を勘案して問いかけに答えないことがあります
ご容赦下さい。

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  1. 【4343515】 投稿者: ことっち。。  (ID:oNwMfoP6.jQ) 投稿日時:2016年 12月 01日 11:52

    イワサキさんへ
    ...物部氏が拠点を構えた、大阪八尾、交野付近から出土する土器は吉備系の土器ばかりである。

    前方後円墳以前の生駒山系の豪族はほとんどは川の近くの山沿いに拠点を置いていたものと思われます。一番大きい理由は食、段々の水田を開発するため(しやすかった為)だったと思います。土地が肥えている、川での移動ができる、洪水の心配(傾斜)がない等の理由で,,,大阪より奈良に目を移しても同じことが言えると思います。大和政権以前の豪族も同じく山沿いに拠点を置いています。奈良盆地も太古の昔は奈良湖だったらしく、湿地帯(奈良盆地)になり鉄器が入って初めて稲作(水田?)ができたと思われます。又大阪も(山麓から離れた場所)同じことが言えると思います。

  2. 【4343807】 投稿者: イワサキ  (ID:uNjokJq98Es) 投稿日時:2016年 12月 01日 16:18

    銅鐸が突然消え、纏向遺跡、箸墓古墳(前方後円墳)が突如出現し、この後は前方後円墳が伝播していく、これを出雲国譲りではと推論したが、畿内では平和裏に政権移譲が進んだようである。近江伊勢遺跡がきれいに清算され、近江野洲では24個の銅鐸が地中に埋められた。

    京都府北部(丹後一宮)元伊勢籠神社、京都府亀岡(丹波一宮)出雲大神宮(大国主命)と元伊勢、元出雲と言われる地名があるのは、なにやら因縁を感じる。
    明治までは、出雲大社は杵築大社と呼ばれ、出雲と言えば出雲大神宮のことであった。この元出雲で国譲りが行われたとの伝承もある。

    鳥取、青谷上寺地遺跡では100人を超える5300個の人骨、110点の殺傷痕あり弥生人三人分の脳が発見されており、血で血を洗う戦いの跡ではないか。
    古墳時代前期初頭(纏向遺跡、箸墓古墳出現時)に突如として姿を消している。
    さらに西へたどっていくが、饒速日命(物部氏)、高倉下(天香山命、尾張氏)が攻め上がったと推測したい。

    そして米子、妻木晩田遺跡、吉野ケ里遺跡の2倍から5倍の大規模遺跡だが、美保湾(弓ヶ浜)一帯を見下ろす古代出雲の中心、竪穴式住居跡395、掘建柱建物跡502、墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)24が出土しているが、この遺跡も古墳時代初頭に終わりを迎えている。(伝承では弓ヶ浜一帯で最後の死闘あり)
    ここからさらに、出雲斐伊川、製造地帯に軍勢が入り出雲を屈服させたのが真相なのではないだろうか。

  3. 【4343831】 投稿者: イワサキ  (ID:uNjokJq98Es) 投稿日時:2016年 12月 01日 16:36

    出雲の祭祀権を取り上げるために、斐伊川、銅鐸銅剣の製造地帯に攻め入り、完全に祭祀権を取り上げ屈服させた。
    この名残が、荒神谷遺跡の地中に整然と埋まっていた銅剣358本(出雲式内神社の数と同じらしい)、銅鐸6個銅剣16本
    加茂岩倉遺跡の銅鐸39個、いずれも綺麗に並べられ埋められていた。

    この時の尾張勢が松江、熊野大社をつくり(古来は出雲大社より格式は上)
    物部勢は出雲石見の境界地にはいり、物部神社に入った。
    これで、出雲を挟み撃ちにして監視したのではないか、出雲の山の背後は吉備であり、実際は3方から包囲したことになる。

    出雲国譲りだけでなく、ヤマトタケルの出雲健だまし討ち、出雲振根も物部氏に討伐されており、後々まで出雲は苛め抜かれたようである。
    前方後円墳が伝播していく中、出雲だけはかたくなに、前方後円墳は作っていない、独自の文化を守る意地だとの説もあるようだが、苛め抜かれ許可されなかったと推論したい。

    その後大和で疫病が発生し、人口が半減し、大物主命(大国主)の祟りであると判明し、三輪山に祀り上げたこれが大神神社の伝承である。
    祟りは、祟られる方に理由がるのが古来の常識。
    出雲国譲りの際にはだまし討ち、血で血を洗う戦いとう、祟られる要素があったと考える。
    記紀での長い、出雲神話の記載、これこそ祟られないための鎮魂であったと考えたい。

  4. 【4348278】 投稿者: イワサキ  (ID:TEiz1sNMZkU) 投稿日時:2016年 12月 04日 18:41

    所用で虎ノ門ヒルズによく行くが、眼下に愛宕神社が見えます。江戸末期から明治にかけて愛宕山から撮影した江戸市中、民家の屋根瓦は印象的だったんだか、
    行った事がなかったので、このスレッドを御覧になる
    善人の皆様方の健勝を祈り初めて参拝して来ました。

    江戸時代は富士山、東京湾、江戸市中を一望できた標高23mの愛宕山、今では虎ノ門ヒルズを含め高層ビルに囲まれ面影なし。ただ、有名な出世階段、男坂は今も当時と同じまま健在、勾配40度の86段の階段を登り
    切り背後を振り返れば足がすくむぐらいの感覚である。

    江戸時代の講談、出世階段、鷹狩りの帰りに将軍家光が愛宕山の神社に馬で上がり参拝して梅の枝を折って取ってくる話。将軍直参は足がすくみ、丸亀藩士がなしとげた、馬で上がるのは可能だか、下りは無理だろこれが階段を登りきった感想。

    桜田門外の変では、水戸藩士が愛宕山、愛宕神社に集合して、祈願して井伊直弼を討ち、大願かない。
    幕末には勝海舟が西郷隆盛と会談
    江戸市中を見下ろす愛宕山、愛宕神社から江戸市中を灰にする戦いの愚かさを説き、江戸無血入城に導いた。

    勝、西郷会談から150年を経た現在
    東京の繁栄、超高層ビルに囲まれた愛宕山は
    決して想像できなかっただろう。

  5. 【4350483】 投稿者: ことっち。。  (ID:Uskr73VYCaA) 投稿日時:2016年 12月 06日 11:24

    鉄鉱石を精錬して鉄を作ることができた時代、5世紀中期以降とそれ以前の鉄素材を輸入に頼り加工する時代..
    それ以前にあたる、出雲勢力の国造り国譲りまでの当時,,大和へ何を目的にわざわざ進出したのかなかなか見えてこないですね。鉱脈を求めて移動としたいところなんですけど、上記のため時代背景が違うため説明がつかない。同じ時代背景でいえばイワサキさんから説明があった伊勢遺跡、銅鐸連合国、当時大和では銅鐸はどーなのか調べたところ見る銅鐸の出土がない、又はあるとしてもその数字だけで具体的にその根拠が示されていないものだけ(ただ見つけ出されなかったのかもその可能性も..)
    ちなみに、銅鐸は紀元前2世紀ゴロから音の鳴る実用的なものから0を境にして徐々に大きくなり祭器として大きくなる、これが見る銅鐸であり権力の象徴へと

    ん~まず..時代背景(時代の流れ)を抑えて押さえておかないとグチャグチャに
    いや、それは僕だけだと思うのですがー

    大和(奈良、大阪含め)は在来の多くの豪族が平和に暮らしていた。
    次に出雲勢力が大和(奈良)に根付く、そして物部氏を率いる二ギヤハヒが河内国に天孫君臨やがて大和へ、この時にはすでに出雲系の大物主神が祀られており認めてしまうのが手っ取り早い(もちろん抵抗勢力もあり)、最後スムーズに神武東征。僕的にはどーみても物部氏を率いる二ギヤハヒは九州勢力にみえてしまうんですよね。

  6. 【4350758】 投稿者: ことっち。。  (ID:2exKYykbHxA) 投稿日時:2016年 12月 06日 15:54

    降臨へ訂正、 と  谷町台地より上町台地へ訂正
    ん~  グチャグチャ ...

  7. 【4361411】 投稿者: ちはやふる  (ID:sw./hiq/GKc) 投稿日時:2016年 12月 14日 19:43

    イワサキさま

    愛宕神社の出世階段は80段以上ございますね。私も二度ほど参拝しましたが、かなり急勾配で息切れしたのを思い出します。
    同じ急勾配の階段ですと秩父の宝登山神社の奥宮は100段あったかしら。私のところの若い子たちには結構人気があって、ご朱印集めに三社巡りをするのも、密かなブームのようです。
    エチオピアとの親善大使をお務めのC.W.ニコルさんは「日本人であればどんな信仰心をもとうと、まずお宮を訪ねなさい」とおっしゃいます。キリスト教圏の人達にとって、「森」は忌むべき異界であったはずなのに、日本人的感覚で多くのお宮が鎮座する「(聖なる)森」を推奨するのも、ちょっと面白いですね。

  8. 【4364816】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:JWXnSYZb/1U) 投稿日時:2016年 12月 17日 13:58

    ちはやふる さん

    >キリスト教圏の人達にとって、「森」は忌むべき異界であったはずなのに、日本人的感覚で多くのお宮が鎮座する「(聖なる)森」を推奨するのも、ちょっと面白いですね。

    なるほど、、スタンフォード大学のR.ハリスン教授は、「森」がギリシャ・ローマ時代から近代にいたるまで、如何にカオス的な負のイメージを帯びてきたかを論じているし、日本の伝統文化として自然、森林などへの親和性を説いた仏の文化地理学者(名前は失念しました)は、これをキリスト教の伝統の対極にあるものと位置付けている。もともと神社の本質は「里宮」であり、「鎮守の森」の示す如く、森に籠る神域を理想とするのでしょう。

    ところで、わたしも数年前に秩父三社巡りは経験したところ、確かに若い女性が多かったように記憶しています。三峯神社は浅田真央さんにあやかり、1日の「白い気守り」を求めて、大輪からの表参道を二時間近く歩いたが、少し霧ががかった本殿前の重忠杉に辿り着いたとき、何とも言えぬ厳かな気持ちになったものです。
    西行法師は伊勢参宮の折り、「何ごとの存(おわ)しますかは知らぬども かたじけなさに涙こぼるゝ」(異本山家集)と詠み、野口雨情はまさに霧の三峰をして、「朝にやあさ霧 夕べにや狭きり 秩父三峰 霧の中」の碑を残した。
    お二人の心情には遠く及ばずとも、家郷意識とも云うべきものに触れたひとときでした。

    イワサキ さん

    ご無沙汰しております。
    他部署よりの応援要請を受け、クリスマス休暇より一週間早い帰国となりました。

    >幕末には勝海舟が西郷隆盛と会談
    江戸市中を見下ろす愛宕山、愛宕神社から江戸市中を灰にする戦いの愚かさを説き、江戸無血入城に導いた。

    幕末のロシア全権大使プチャーチンとの「日露和親条約」以降、勝海舟が長崎の海軍伝習所時代からプチャーチンの知巳を得ており、後の「修好通商条約」において領土問題についてもロシア側から提唱する用意があることを掴んでいたらしい(真偽は不明なれど)。まあ、現代版「日露通商修好」条約もどきが紙上を賑わせているが、一方の西郷隆盛。「文芸春秋12月号」のエマニュエル・トッド、磯田道史両氏の対談記事に興味深いやりとりがありました。「ならぬことはならぬ(会津藩「什の掟」)」、つまり既に存在する規範を無批判に受け入れる価値観の刷り込みに対し、このいわば秩序を重んじる傾向に対して革新的エネルギーをもって「破壊者」の役割を担ってきたのが西南日本の勢力。
    さてさて案の定、今回の「ご譲位」についても特措法によって収まりそうな気配。小泉政権時代、女系天皇を認め女性宮家創設を進言した「皇室典範に関する有識者会議」のメンバーが東京をはじめ三重、広島、新潟など広域のご出身だったことに比べ、今回の有識者会議のメンバーはお一人の北海道を除き、東京、神奈川ご出身。
    以前、イワサキさんが血液型人事の話をされていたが、実は人事における出身地の統計というのもあながち軽視できないのかなあ、という感想を持った次第です。

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