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【4211051】日本の古(いにしえ)

投稿者: 善人   (ID:iY3zXBxtWIE) 投稿日時:2016年 08月 12日 18:36

日本の古きいにしえをつぶやき語り合いませんか?

悪人、悪口不可
総合的な理由を勘案して問いかけに答えないことがあります
ご容赦下さい。

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  1. 【4429003】 投稿者: ちはやふる  (ID:bnayqxUwFZs) 投稿日時:2017年 02月 03日 06:56

    イワサキさま

    以前、「歴史はロマン」スレッドで鉄の流通網のお話がございましたね。冷静にかんがえるとさまがご紹介下さった長野正孝著書を私も求めましたが、大和古墳群は卑弥呼の時代、鉄交易から外れていたと書かれています。
    日本海側と大和を結ぶ3つのルート以外に九州よりの流通網が作られたということでしょうか?
    長野氏著書には桜井市の宗像神社との関連も記載されていたようです。
    最近、当サイトの新着は受験シーズンで学校比較が賑わっておりますが、カントの大学論でいえば、「自律知」で方向を決定出来ない代わりに方向性を示す自由があることを、イワサキさまの書き込みで再認識させて頂きました。

  2. 【4433001】 投稿者: イワサキ  (ID:fcxa.howfM2) 投稿日時:2017年 02月 05日 12:35

    ちはやふるさん
    書き込みありがとうございます。長野正孝氏は船、航路、湊については素晴らしい洞察力の持ち主だと思います。邪馬台国がどこにあったかの見方でシナリオは変わってくると思いますが、古来は日本海側がメインの流通経路だった、
    北九州勢力と出雲が組み関門海峡を押さえれば瀬戸内には物資は流れないので

    但馬から丹波そして川を下り播磨、淡路島から淀川(河内湖)を上り琵琶湖から敦賀、そして若狭、丹後、但馬へ無論反対周りの敦賀から琵琶湖川を下り大阪湾、大和北部への流通網も存在したでしょう。
    淡路島の鉄工房、近江彦根の稲部遺跡、但馬有岡の鉄工房全てこの回廊上にあります。古事記にはこれを裏付ける記載がある、アメヒボコ(天日矛命、天日槍命)
    彼は新羅から播磨に降り立ち朝廷からは播磨に住み着くよう指示があったが、自ら探した先に落ち着きたいとの意向を伝え、淡路島に住み、淀川を上り近江、敦賀、若狭そして最後に但馬有岡に住み着いた。出石神社の祭神である。
    このアメヒボコの辿った道筋から鉄工房の遺跡が多く発見されている。

    アメヒボコが出雲国譲りの引き金を引いたかもしれない。銅鐸、銅剣、銅矛の鋳造の最先端技術があり初期鉄工房も出雲が独占していた(奥出雲は砂鉄の産地)
    この独占を阻止した丹後、越、近江勢力が出雲にとって変わった可能性が想像出来ます。
    魏志倭人伝では朝鮮半島南部には倭人が居たとの記述、朝鮮半島初めての正史、三国史記には新羅王4代目脱解は倭人であり多婆気国(但馬か?)から来たとの記載もあります。半島南部に倭人が進出したのは鉄を求めて積極的に進出したと推察出来ます。その倭人の子孫、アメヒボコが再び但馬に戻って来たと考えると
    分かり易い。
    丹後地方に存在する浦島太郎伝説のモデルは但馬から半島に渡った新羅王脱解
    そして戻って来たアメヒボコをモデルにしてるかもしれません。
    玉手箱を開けたら世の中が激変していたストーリーですが

    アメヒボコは日本には浮く宝があると言ったそうだ、浮く宝とは大自然の森林木材の事だろう。鉄の材料が豊富にあっても溶かすには大量の木材が必要であり
    半島にはすでに浮く宝が無かった、不足していたという事だろう。

    出雲で鋳造したと思われる銅鐸(畿内を含む三河まで)、同じく銅剣、銅矛
    (出雲より西、九州圏)、大量生産した出雲から東西に分布図が分かれているのかはまだ研究余地があるが、出雲地方に伝わる神有月(出雲以外は神無月)銅鐸、銅矛、銅剣を与えられた地域の王が集まったのが伝承の由来であろう。
    一つの書物、一つの遺跡の発掘から様々なストーリーに思いをはせる事が出来るのはまさに歴史はロマンの醍醐味である

  3. 【4433069】 投稿者: イワサキ  (ID:fcxa.howfM2) 投稿日時:2017年 02月 05日 13:11

    小田原の曽我梅林が満開まじかのようですね。

    東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘るな
    菅原道真が太宰府に赴く時の歌。

    御存知の通り、菅原道真が藤原氏との権力闘争に敗れ、太宰府に左遷されたが、
    表向きは政治闘争であるが、歴史イデオロギー根深さも存在した。
    菅原家は代々、学者の家柄であるが、先祖は天穂日命であり出雲国造、土師氏である。関東にも埼玉の鷲宮神社(天穂日命、土師氏)がある。
    出雲国造は国造が廃止されてからも特別に国造を名乗る事が許され、平安時代になっても当主交代の際には朝廷に出向き出雲国造神賀詞を奏上する事が許された。祝詞であるが、藤原氏が作り上げた捏造された歴史ではなく、真実の歴史を祝詞で読み上げていた。716年から833年まで15回。これこそが藤原不比等が作った記紀が藤原氏のための捏造された歴史の証拠、天皇の前で読み上げる事をよく許したもの、ガス抜きだったんだろう。
    現在でも捏造された歴史をめぐる争いは壮絶である(隣国、アパホテル)
    藤原氏の捏造された歴史に立ち向かったのが菅原道真だった。
    藤原氏は出雲国譲りで有名な、タケミカズチ神、フツヌシ神)いずれも物部氏関係をさも自身の祭神のように春日大社に祀り、祭神を乗っ取った。
    当然出雲国造の子孫、菅原道真は事実を知っていた。藤原氏は政争に勝つ為には手段を選ばない、恐怖を感じた事だろう。

    菅原道真の没した敷地には現在、太宰天満宮があり、その敷地内には
    九州国立博物館がある。3月5日まで宗像、沖ノ島と大和朝廷の特別展が催されています。舟形埴輪、宗像君の宝玉、勾玉、三角縁神獣鏡、金製指輪など
    (九州に出張出来るように画策中ですが)

    太宰天満宮で梅ヶ枝餅を食しながら、我が子の学業成就、日本の古に思いを巡らせ、日本国の伝統、文化の時間的連続性について考えてみたいものである。

  4. 【4447450】 投稿者: イワサキ  (ID:0kiEOP91uVs) 投稿日時:2017年 02月 12日 17:50

    道鏡ゆかり70m級七重塔跡。
    大阪府八尾市の東弓削遺跡で道鏡ゆかりの由義寺(ゆげでら)で発見。
    2/10読売新聞、日経新聞など

    高さ70m級の七重塔跡は鎮護国家の代表東大寺の塔の高さと匹敵しており、道鏡が法王として皇位を狙った権勢を物語る発見となる。
    前の歴史スレッドでも書いたが、道鏡は弓削氏のでであり、物部氏の系統である。道鏡が皇位簒奪の企みは、宇佐八幡宮信託事件で和気清麻呂により阻止されたが、ポイントは道鏡が一方的陰謀により皇位簒奪を狙ったのではなく、
    称徳天皇自身が道鏡の即位に同意していたという事。
    女帝である天皇と男女の仲等言われているが、それは歴史の勝組、藤原氏による濡れ衣の可能性もある。

    記紀に記された、神武東征以前に、天磐船伝説で、饒速日命が降臨しており
    子供、ウマシマジ命により、祭祀が天皇家に引き継がれた。
    現在行われている、宮中祭祀の原型であるが、全国の神社で、物部神社、弥彦神社、石上神宮だけが同い鎮魂祭を行なっている。この三神社は饒速日命、ウマシマジ命を祭神とした物部系の神社である。

    道鏡が皇位簒奪を狙う半世紀前に記紀が誕生し、藤原氏の都合の良い歴史が作られた、称徳天皇自身は藤原氏の血であるが、長屋王の変、恵美押勝の乱など、血で血を洗う陰謀を駆使した藤原氏のやり方にうんざりだったのではないか。
    道鏡を皇位につけることは饒速日命系統に皇位を戻すことになり、抵抗がなかったように思われる。
    皇祖神による真の神託を受けるなら、天照大神の伊勢神宮でいいはずだが
    なぜ、九州の宇佐八幡宮だったのか?
    称徳天皇(女帝)自身は宇佐八幡宮の祭神が真の皇祖神と思っていた可能性がある
    宇佐八幡宮の祭神は、応神天皇、神功皇后、宗像三女神であり、応神天皇に信託されたかったのだろう。

    継体天皇は越より大和に入り即位しているが、応神天皇五世である。
    古代史のポイントは、応神天皇、そして母親である神功皇后が握っているかもしれない。
    神功皇后は息長タラシ姫と呼ばれており、息長氏の本拠地が近江彦根前原
    何度か書いた、稲部遺跡近辺である事を考えると全てが繋がる事になる。

  5. 【4457783】 投稿者: イワサキ  (ID:0kiEOP91uVs) 投稿日時:2017年 02月 18日 11:36

    鳥を抱く女性が発掘
    山口下関、土井ヶ浜遺跡から鵜を抱いた女性が発掘されている。
    神聖化された鳥を抱く巫女だと言われている。
    古来から鳥は特別な存在である。土器には鳥の格好をしたシャーマンが描かれることもある。鳥は天上の神と地上の国との間を取り持つ使者であり、豊作をもたらす穀霊や祖先の霊魂を運ぶものと信じられていたそうだ。

    また鳥は導く存在でもある。古来の海人は航海中に船に鳥を乗せており沖合で遭難すると、鳥を放ったそうだ。鳥は本能的に最も近い陸地を目指して飛んでいくから、鳥が弥生時代から神聖化していた現れである。

    弥生時代の土器に、鳥装(ちょうそう)の巫女が描かれている。鳥のように見える衣をまとい頭に羽をつけている巫女などである。(これが時代の変遷とともに天の羽衣伝説に繋がり、霊力が備わった衣をまとう儀式、天皇家の大嘗祭に繋がっている)

    神話、記紀にも熊野で迷った神武一行を空から導いた八咫烏
    天照大御神が岩戸に隠れた際の、鶏、常世の長鳴鳥(太陽が日の出前に知らせる鶏、太陽神を岩戸から引き出す鶏の鳴き声)
    日本武尊が伊勢ノボトで亡くなり白鳥となり飛んで行った白鳥伝説、大鳥神社
    など鳥を神格化した説話が弥生時代からの祭祀の名残でしょう。

    またモガリの初期の形態は風葬であり神格化された鳥達に遺骸をついばんでもらうためであり、鳥によって魂を運んでもらう観念だったと思われる。
    古墳時代にも水鳥の埴輪が出ている事も理解できる。

    豊受大神の丹後風土記では神聖な水が湧き出る泉、真奈井と霊力をまとった天の羽衣この二つが古墳時代にも引き継がれ、現在の大嘗祭まで続く。
    古墳時代の埴輪には囲いをして石を引き詰めた真奈井(水が湧き出る泉、井戸)の埴輪も発見されている。
    古墳の主が亡くなり代替わりする際の祭祀が行われていた可能性がある。
    この時の祭祀が現在の天皇家の大嘗祭に引き継がれているのではないだろうか?

    大嘗祭では天皇は神聖な水を使う、これが御膳(みけ)つ水、この世の水に天上界から下された天つ水を足したもの。
    そして天の羽衣という湯帷子をきこむこれが大嘗祭のクライマックスである。
    天の羽衣伝説と同じような儀式となる。
    古来から連綿と繋がってきた祭祀、風習とは大変面白い限りである。
    まさに歴史はロマンである。

    最後に、日本の伝統、文化、歴史をこよなく愛する大和撫子が
    今日の水菓子って題名のブログやってます。面白いですよ
    日本の時間的連続性の象徴について考えてみるの一興ですね

  6. 【4471836】 投稿者: イワサキ  (ID:fcxa.howfM2) 投稿日時:2017年 02月 26日 17:56

    古代、古来の流通の大動脈は日本海側(出雲、丹波、越、琵琶湖経路)であった事を推察して書いてきた。
    出雲の凋落と吉備の勃興により瀬戸内海航路が整ってきた。

    瀬戸内海航路が整備されてない様子が記紀からも読み取れる。

    神武東征(東征と言うほどの大規模な移動ではなく単なる移動)
    神武は日向を出発して、宇佐、岡湊(遠賀川流域、北九州)に滞在、そして安芸に6年、吉備3年、難波津から河内湖に侵入し日下で大敗、結局、紀伊和歌浦(和歌山市)に上陸している。(上陸できるような天然の湊が整備されていない)

    神功皇后の三韓征伐
    神功皇后(息長タラシ姫の息長氏は近江彦根が基盤)は敦賀から日本海側航路で豊野浦(下関)に入った(この勢力は、日本海勢力+近江、尾張と考える)
    北九州勢力が帰順し香椎宮(福岡)に滞在、韓半島、山門郷のタブラ津姫を討ち亡ぼす。香椎宮で仲哀天皇崩御、生まれたての応神天皇を率いて瀬戸内海を東征する。播磨近辺で何度も座礁しお祓いを行った伝承多し(明石、神戸)神戸三ノ宮の生田神社、長田神社など。神功皇后も結局、紀伊和歌浦から上陸して反対勢力を駆逐している。住吉大社はこの後創建。
    これを見れば、大阪湾近辺には天然の良港が和歌の浦しか存在していないのがお分かり頂けたと思う。

    瀬戸内海には厳島神社、大三島の大山ツミ神社は宗像三女神、大山ツミ神など航海の安全を祈る海神であり、特に尾道から今治までは海というより、島と島の間を急流が流れるようなそれぞれの潮流も全く違い現代でも海の難所となっている。海神に航海の安全を祈り奉納(お賽銭、酒など)すれば地元民が船を誘導し
    奉納しなければ神の怒りだと積荷を強奪した、これが海賊のはしりであろう。

    特に瀬戸内海の真ん中に位置する、吉備津、鞆の浦あたりで潮目が全く変わり風待ちをしなければならなかった。出雲凋落後の吉備勃興には地理的恩恵もあった。ただ日本海航路は出雲をスキップして北九州に入っていたのは間違いないところ

    継体天皇(近江、越勢力に押された応神五世)は淀川辺りの枚方に宮を構え、
    九州、磐井の乱で物部氏に討伐させた、その際に天皇直属の屯倉を多く設置し
    軍の補給体制を整えた。これによってやっときっちりと整備されたものと考える
    後年、遣唐使船が難波津近辺で座礁した事実もあるし、瀬戸内海の海賊が暴れた、藤原純友の乱、海賊を討伐して配下に加えていった、平正盛、忠盛、清盛の頑張りにより瀬戸内海にやっと平和が訪れた。
    平清盛が福原に湊をつくるまでは安定しなかったのは歴史の事実である。

    瀬戸内航路で京都に入る前の宝物、年貢等を福原の湊に積み下ろし、平家が私服を肥やしたのは間違いないところ。
    瀬戸内航路の安定には700年の年月必要としたのは周知の事実であろう

  7. 【4479386】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:Nrmc/5uauGk) 投稿日時:2017年 03月 03日 20:54

     >飛鳥時代の巨大な石張りの掘割(ほりわり、濠〈ほり〉)が出土した奈良県明日香村の小山田(こやまだ)遺跡で、石の抜き取り穴や排水溝など古墳の横穴式石室の痕跡とみられる遺構がみつかった。県立橿原(かしはら)考古学研究所(橿考研)が1日発表。遺跡が7世紀中ごろに築造された未知の古墳だったことが確定し、「小山田古墳」と命名された。被葬者像をめぐり、7世紀前半に即位した舒明天皇か、乙巳(いっし)の変(大化改新の発端、645年)で滅ぼされた豪族の蘇我蝦夷との見方が出ている(朝日新聞デジタル、3月1日配信より引用)。

    飛鳥時代の方形古墳としては最大級のものだという。
    皇極2年(643年)、蘇我入鹿は斑鳩宮にて山背大兄王を滅ぼし、厩戸皇子の血筋を絶やしたとされる。入鹿がこのとき舒明天皇の後継に推戴していたのが古人大兄皇子で、乙巳の変にて蘇我蝦夷・入鹿親子という最大の後ろ盾を失った故か、皇位への野心なき証しとして飛鳥寺にて出家、隠棲の地として吉野に下るが、吉備笠垂の訴えにより謀反を企てたとして、異母弟である中大兄皇子(天智天皇)によって討たれてしまうその人であった。
    じっさいに謀反の意図があったかどうかは分からぬが、皇位継承権を持つ皇族である限り、即位か粛清、これもまた過酷な「宿命」であったといえる。

    それにしても古代皇族の過酷な「宿命」を、1400年近くの時を超えて、しかも彼の国が再現するとは思わなかった。差し詰め、蘇我入鹿は「張成沢」で吉野に差し向けられた軍勢は非情な化学兵器といったところか。
    似て非なるではなく非ならず似ているであろうことは、白村江の戦い、天智天皇崩御後の壬申の乱勃発、戦が人を好むという、歴史上しばしば見受けられるイロニーである。
    あの若き最高指導者ははたしてそのことを理解しているのであろうか。

  8. 【4479878】 投稿者: イワサキ  (ID:WWYtMMq.xmQ) 投稿日時:2017年 03月 04日 08:31

    冷静にかんがえるとさん
    お久しぶりです。お帰りなさいでいいのかな?
    書き込んできた時代変遷を整理すると

    銅鐸→前方後円墳→方墳→八角墳となる。それぞれの変わり目には体制が大きく変わる事件が起きている。
    銅鐸が消え地中に埋められたのは2世紀後半〜3世紀前半、
    そして纒向遺跡の出現と箸墓古墳(日本初の前方後円墳)の出現、3世紀前半〜中盤
    前方後円墳は6世紀後半〜7世紀前半に姿を消す。

    前方後円墳〜方形古墳に変化した
    さてこの時代に起きた体制を変換させる出来事とは何か?
    ずばり、蘇我氏との争いに敗れた、物部守屋(物部氏本家)の滅亡だろう。
    箸墓古墳からスタートした前方後円墳時代は約350年続いたが
    前方後円墳は物部氏の古墳であり、祭祀と共に物部氏の裁可により伝播していったと考える。箸墓古墳の前方後円墳はでは吉備の祭祀、土器が中心になった
    前方後円墳の形状も吉備地方に見られる◯に□を二つつけた古墳から□を一つ取り除いた形が前方後円墳となる。

    蘇我氏は物部氏を滅ぼしたため、当然物部氏が裁可した前方後円墳はつくらず
    方墳を作った。蘇我氏が滅んだ後は八角古墳へと変化する。

    時代の変わり目には必ず事件があり体制の変換があった事がご理解いただけたと思う。記紀より箸墓古墳に葬られた倭迹迹日百襲姫命は大神神社の祭神、大物主命(大国主命、出雲神)と結婚(通い婚)をし夜しか会えないので昼間に姿を見たいと懇願した、決して見てはいけないと言われた箱を開けてしまいその中には白い蛇が入っておりそれが大物主命の昼間の姿であった。見られた大物主命は怒って三輪山に登っていってしまい、ショックのあまり姫はホト女陰を箸で付きお亡くなりになった。箸墓古墳の名前の由来となる。

    纒向遺跡に東国勢、尾張、美濃。近江、越、丹波、吉備、出雲が集まり初の中央集権体制がスタートしたが、箸墓古墳の伝承から出雲の代表者が大和に居た事が確認できる。

    倭迹迹日百襲姫命の兄弟には吉備津彦命がいる、記紀では将軍に任じられ吉備を制圧し吉備津彦神社、吉備津神社の祭神となっているが、大和から吉備津神社に行ったのではなく、逆に吉備から大和に来ていたのではないか。もし吉備から来ていたのなら、纒向遺跡誕生時の時代背景にぴったり当てはまる事になる。

    吉備津彦は桃太郎伝説のモデルとも言われている。吉備地方には温羅伝説があり
    温羅という鬼を退治した吉備津彦の伝承あり、吉備津彦の家来には、犬、雉、猿のモデルとなる家臣もいたようだ。
    犬のモデルとなった、犬飼健命、桃太郎伝説では鬼ヶ島に鬼退治に出掛け見事鬼退治をしているが、
    激動の昭和、鬼ヶ島という強力な鬼、軍部に立ち向かった犬養毅、彼こそが犬飼健命の末裔である。残念ながら昭和には鬼退治する桃太郎は存在しなかったという事だろうか?
    歴史とは面白いものである。

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