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【4211051】日本の古(いにしえ)

投稿者: 善人   (ID:iY3zXBxtWIE) 投稿日時:2016年 08月 12日 18:36

日本の古きいにしえをつぶやき語り合いませんか?

悪人、悪口不可
総合的な理由を勘案して問いかけに答えないことがあります
ご容赦下さい。

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  1. 【4499287】 投稿者: ドラゴンボール  (ID:WMfz4fnG2bc) 投稿日時:2017年 03月 17日 02:20

    佐和山城。

    木洩れ日に誘われ出でし佐和山の虫

    城があったのだろうかと疑ってしまう。
    地の利と木々と祠のみが、現代の私たちの知り得るところ。

    三成の信条と家康の憤りとが窺い知れます。
    一度、足をお運びになられることを願って。


    ※連投、申し訳ありません。

  2. 【4500674】 投稿者: イワサキ  (ID:s0VfEq8WnBI) 投稿日時:2017年 03月 18日 09:06

    ちはやふるさん

    うーん、アコースティックだったかクラシックギターだったか記憶があいまいだが
    父上が好きだった古賀メロディー(悲しい酒?)を奏で女性をうっとりさせたのは間違いないです。(その女性が奥様だそうです)
    ご本人が登場すれば謎は解けますが、いずれにしても格調高き文章だけでなく
    ギターの音色も変幻自在に操る、イケメン男子学生と言ったところでしょう。
    海外でプレゼンス向上のために踏ん張る戦士、私は国内で日本経済の血流を絶やすことのないように一躍担うビジネスマンといったところかな。

    ドラゴンボールさん

    大変面白い書き込みありがとうございます。書かれたすべての企業は非常に深いつながりがあり、過去現在を含めすべて出入りしています。松坂屋の歴史以外は知らなかったなあ、目から鱗です。
    東京フィルの、いとう少年音楽隊これもびっくり、
    なぜなら、数十年前に私の妻が浅からぬ縁があったんですよねえ(身バレするのでこの辺で、、、、)

    佐和山については後程また書き込みます。

  3. 【4502338】 投稿者: イワサキ  (ID:Wlhh8p5o5Sg) 投稿日時:2017年 03月 19日 10:48

    東京から新大阪までは徳川家康になったつもりで新幹線に乗り込んだので
    帰りは新大阪から石田三成になったつもりで乗り込みます(磯田道史氏の流儀)

    新大阪から新幹線に乗るときは進行方向左側の窓際に座る。
    この時注意しなければならないのは柿は決して食べない事
    石田三成は大事の前には決して柿を食べなかった、柿がお腹に悪いと信じていた
    関ケ原の戦いで敗れ、伏見城門前に、謀反人として見せものにされていた、
    馬上から汚くののしる武将(三成憎しの多くの諸将)もいたが、
    きっちり馬から降り今生の挨拶をした武将もいたそうだ(勝敗は時の運として敗将を敬う武士道も健在した、黒田長政など)
    罪人として市中引き回し磔にされる前日、看守が干し柿でも食べるかと聞いたところ、柿はお腹に悪いと断り、看守は明日打ち首でお腹に悪いもないだろうといった際に、最後まで命は大事にするものだといい、白湯を所望した逸話が残っている。

    新幹線が動き出したら、秀吉が明智光秀を討ち滅ぼし、天下統一のスタートをきった山崎の戦い跡をみる心づもりをする。本能寺の変後、毛利氏と和睦して中国大返しを行った電光石火の羽柴秀吉を思い起こす。
    サントリーの山崎蒸留所が見えたらその裏山が天王山、三成主君、秀吉の宝寺城があった場所、天王山に陣を先におく、山崎の戦いの序盤最大のポイントである。(天王山に最初に陣をおいた秀吉が勝利し天下をとったため、現代でプロ野球やスポーツでも、優勝争いの分岐点になる戦いを天王山と呼んでいる)

    磯田氏は、山崎は水がいい秀吉公はここの茶室待庵で茶をたのしまれたいまはウイスキー工場とかんがえるそうである。
    新幹線が天王山に一番近づく場所あたりから山崎の戦いの激戦地、右の車窓から日立物流の建物がみえるあたりが光秀の本陣である。関ケ原といい山崎といい古来の交通要衝は古戦場が多く、現在でも物流センターが多いらしい。

    磯田氏はすくっと立ち上がりデッキに移動するそうだが、今回はすいていたので移動し右側の車窓から淀川の支流桂川を眺める。
    三成は領土を与えるとの秀吉の話を断り、淀川全域の葦を刈り取る権利を所望し
    1万石の働きをしますと述べた、当時の民家の屋根には葦がひかれていたため実際には、1万石以上の税収があった、この知恵を秀吉に褒められたことをおもい
    河川敷を眺め、はるかかなたの伏見城をさがす。
    西軍になったつもりで攻めるぞとはるかかなたの伏見城を発見する。
    (伏見城には家康の駿河人質時代からの譜代、鳥居元忠が玉砕覚悟で籠城していた)

    あっという間に東寺五重塔が見え京都に到着、左車窓の見える席にもどり
    瀬田の唐橋を見るがあまりの速さで一瞬しか見えない(気合がないと見逃すかも)瀬田の唐橋は壬申の乱のときからの古戦場である
    関ケ原の戦いの際は、2キロ離れた大津城に淀君の妹婿、京極高次が東軍につき籠城、結局開城したが、歴戦の勇者、立花宗茂ら西軍2万を関ケ原の戦いに向かわせない役割を果たした。(三成ら西軍は琵琶湖に浮かぶ大津城に大砲を大量に打ち込み天守をボロボロにした。

    ここから先は上級編らしい。(気合をいれないと見逃します)
    気合で織田信長、安土城を見てみる。野洲川を超えたら車窓に山が迫るのを待ちかまえ丘と丘の間に旧安土町役場のビルの向こうに小さく見える安土山を凝視する。すぐに彦根が近づくが彦根は無視して町自体見なかったことにするそうだ。
    (彦根藩初代は、徳川四天王の井伊直政、大河ドラマ、井伊直虎の養子)

    彦根より手前の佐和山を凝視、彦根城は憎っくき東軍井伊家が三成居城佐和山を破壊して作った城だから。

    米原を通過の電光掲示板がでたら進行方向を凝視、このあたりが石田三成の故郷
    トンネルを超えれば伊吹山、再度トンネルを抜けたら関ケ原である。
    瞬間しかみえない白い関ケ原病院の建物を探しその延長線上にみえる丘が、石田三成の本陣である。
    磯田氏は最後に、小早川はひきょうと一声叫ぶそうだが、
    心の中で叫んでみました。

    ここでやっと一仕事終えた気分となり、くつろぐことができたのであった。

  4. 【4503899】 投稿者: イワサキ  (ID:Wlhh8p5o5Sg) 投稿日時:2017年 03月 20日 12:37

    聖徳太子から厩戸王への文科省案、撤回へ(朝日、産経)

    当然のことだと思うが、国民の多くが違和感を感じたと思われる
    文科省へのパブリックコメントも5000近い反対コメントが集まった。

    聖徳太子の生きてる時代には聖徳太子と呼ばれず100年後から聖徳太子と呼ばれるようになったから(文科省の当初に言い分)
    天皇の子は皇子、皇子の子は王、用明天皇の子供である厩戸皇子これが記紀に記載された名前、今回はどさくさに紛れて皇子ではなく王と記そうとしていた。
    これはとんでもない話である。(聖徳太子の子、山背大兄王は天皇の孫なので王が正しい。)
    そもそも、文科省の木っ端役人は諡号、諡名を理解していないのではないか?

    聖徳太子って、諡号、諡名なんだよね、100年後に記紀に記載された功績、17条憲法や、遣隋使の有名な(日出づる処の天子、、、、、)の伝承から送られた諡号であり、その後1300年にわたり聖徳太子と呼ばれ親しまれ1万円札のお札にもなった。これ自体が我が国の伝統、文化であることを全く理解していない。

    天皇陛下の諡号もまったく同じ、そもそも天皇と称するようになったのは、683年飛鳥浄御原令あたりといわれているが、天皇はスメラミコトと読まれていたし、天武天皇も推古天皇も後世自分がこのように呼ばれていることは知らない。
    天智天皇の孫といわれている淡海三船が記紀などの事績により天皇名を漢字二文字であてはめた。これが天皇の諡号であり、文科省の主張通りにしたら
    応神天皇はホムダワケノミコト、継体天皇はヲホドノミコト、って表記しなければならなくなる

    つまり非常に無理のある見解ということになる。

    元寇も寇の字が日本が一方的に侵略されたことになるとの理由でモンゴル襲来に変更しようとしていたそうだが、これもボツ、日本の伝統、文化を少しずつでも破壊していこうとする勢力が、官庁の中にも浸透しているようだが、私たち国民の監視で阻止していくことが可能となった出来事だろう。

    戦後、日本を歪め貶めることに血眼になった反日教育の終わりの始まりと思いたいものである。

  5. 【4504106】 投稿者: ちはやふる  (ID:DZAij.RJALY) 投稿日時:2017年 03月 20日 15:39

    イワサキさま
    >戦後、日本を歪め貶めることに血眼になった反日教育の終わりの始まりと思いたい

    みんなの党から無所属になった松沢しげふみ議員も、あの日本会議のメンバーとのこと。兎にも角にも、きちんとした歴史観を育む為には、古代史から始まって現在までの通史を俯瞰出来る素養、知識は不可欠のはずですが、今のお役人はそのような教育を授かっていないのでしょう。むしろゆとり世代の方々のほうがフレキシブルかも知れません。
    例の方ももしかしたら官僚をお勤めかも知れませんから、お役人といっても様々だと思いたいです。

  6. 【4504175】 投稿者: 問題なのは  (ID:53WuhXwrFbg) 投稿日時:2017年 03月 20日 16:37

    問題なのは、歴史書は、常に権力を握った側に都合のいい文献になってしまうことです。
    そのために、歴史のねつ造も行われて、それが事実として勝手に歩き始めることも多いのです。
    創作の歴史になっているために、次の時代の文献と辻褄が合わないことも。

    慶應大学が、日本史の試験問題範囲を近代以降にしているのは、それ以前の歴史に信憑性が薄いことが原因です。

    個人的には、歴史が好きなので、古い時代からの歴史を日本人が知ることは重要だと考えていますが、知った上で必ずしも正しいとは考えないバランス感覚は必要でしょう。

    この問題は日本に限らず、世界どこでも同じです。
    今知られている世界上の”歴史的事実”の半分は、創作に近いかもしれません。
    マリー・アントワネットが「パンが食べられないならケーキを食べればいいのに」と言った事実はないのに、その一点で有名になっているのは、まさに皮肉です。

  7. 【4504843】 投稿者: 自由  (ID:K4/GpNTh0Pk) 投稿日時:2017年 03月 21日 07:46

    >問題なのは、歴史書は、常に権力を握った側に都合のいい文献になってしまうことです。
    そのために、歴史のねつ造も行われて、それが事実として勝手に歩き始めることも多いのです。
    創作の歴史になっているために、次の時代の文献と辻褄が合わないことも。

    >慶應大学が、日本史の試験問題範囲を近代以降にしているのは、それ以前の歴史に信憑性が薄いことが原因です。



    それは論理矛盾であって、

    歴史は絶えず権利者の都合により創作されるものだ
    というあなたの仮説にしたがう限り、

    近代以降の歴史も創作に違いない。
    そのような論理的帰結になりますよね。

    近代以前と近代以降を分ける論理的根拠を示さない限り、
    論理矛盾と言えます。

    ちなみにヨーロッパの実証歴史学はドイツにおいて発展しましたが、
    これがヨーロッパ中心主義の虚飾に満ちていたものであることは有名です。

    近代以降の歴史学と言えど、
    創作ではないという保証はありません。

    大英博物館に眠るギリシア彫刻が、
    本来はエジプト文明の影響を受け色鮮やかな色彩を持っていたのに、
    ヨーロッパの根源たるギリシアの白い彫刻の妄想に固執し、
    職員がその塗料の痕跡を隠蔽したことは周知のことです。

    近代以降の歴史学と言えど、
    自国中心主義のワナからは自由になれません。

  8. 【4506150】 投稿者: ドラゴンボール  (ID:WMfz4fnG2bc) 投稿日時:2017年 03月 21日 23:41

    NHK大河ドラマ『いのち』のときのことでした。これは第二次世界大戦前後の日本のお話で、ドラマの放映の度に「あれは時代考証としておかしい」という電話が後を絶たない、同時期に生きた方たちが多くいらっしゃるので、戦国時代などのドラマと比べて、大変やりにくさが増す、というお話を、三田佳子さんでしたか、伊武雅刀さんでしたか、それとも橋田壽賀子さんでしたでしょうか、されていた憶えがあります。

    そういう相対的なお話なのだろう、と思いますが、いかがでしょうか?
    もちろん、同時代、同じものを見ても、人々の捉え方は様々で、絶対的な真実の難しさを思います・・・

    リンゴ落ち重力思う人もあり

    これも創作というお話がありますが、私にはリンゴが引っ張られているとは到底思いつくことができません。

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