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【4211051】日本の古(いにしえ)

投稿者: 善人   (ID:iY3zXBxtWIE) 投稿日時:2016年 08月 12日 18:36

日本の古きいにしえをつぶやき語り合いませんか?

悪人、悪口不可
総合的な理由を勘案して問いかけに答えないことがあります
ご容赦下さい。

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  1. 【4512359】 投稿者: イワサキ  (ID:Wlhh8p5o5Sg) 投稿日時:2017年 03月 26日 17:56

    自由さん

    お久しぶりです。以前、冷静にかんがえるとさんと三人で歴史はロマンスレッドで語った内容から
    天武天皇、飛鳥浄御原令(683年)前後に、日本と天皇という呼称を内外に向けて高らかに宣言した。漢の劉備、魏の曹操との呼び名は一般的だが、いずれも
    漢王朝の皇帝(劉備)、魏王朝の皇帝(曹操)と同じで、王朝名が日本で大王を改め天皇と称した。王朝が今に至るまで継続していく中で、日本が国号、国名になった。天皇とは天皇大帝の略称、皇帝の間に天、皇、大、帝(天、大の字を挟んだ)天皇大帝の意味は、数多くいる皇帝の中で、最も優れた、仁徳、英知もった万物の中心である皇帝のこと、現生に君臨し、天(万物)の中心である北極星を意味する。(万物の中心であるとの意味)
    王朝名、日本、自らを天皇と称したのは、白村江の戦い(663年)に敗れ壬申の乱(672年)を勝ち抜き、皇親政治を行い国内を固めつつあった、天武天皇の、大陸(唐)にたいする、大陸何するものぞといった気概と決意であった。

    天皇と称したのは、唐の皇帝より格上である、数多くの皇帝の最上級の称号をあえて名乗った。
    さて、日本とは、倭国と言われ蔑まれた呼び名(倭の意味は小人などさげすまれた当て字)から日本を称した。当初はにほん、にっぽんではなく、ひのもとと称していた。

    天武天皇が日本(ひのもと)と称した理由はなんであろうか?
    察しのいい人はお気づきだろう、有名な逸文
    隋書倭国伝に記された、日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す
    聖徳太子が送ったといわれる、遣隋使小野妹子に託した、国書である。
    隋書では、600年、607年に遣隋使を迎えている、皇帝煬帝を怒らせたが、隋よりの返礼使を倭京に迎え、タリシヒコ(聖徳太子)と面談もしている。

    ひのもとの国、日本を称したのはこのやり取りがあったからである。
    日出ずる処つまり、ひのもとである。
    記紀にも記された、冠位十二階、十七条憲法などの逸話もあるが、この時の功績により、死後100年がたち平城京、律令等、国として整備された段階で
    諡号、聖徳太子と贈り名された。
    ひのもとの国、日本と、大陸の皇帝より上の天皇大帝を称した。

    私たちの国、日本と天皇との呼称の発端となったのが聖徳太子が持たせた国書であることを、100年後の人々はよく理解していたことになる。

    現代の大人である、私達、日本国民は、日本、天皇の呼称、あるいは由来になったと思われる聖徳太子の国書はセットになっていることを肝に命じてほしい。
    日本の国の由来になった出来事はすべて消すことは不可能だが、
    聖徳太子の称号をなくし、いずれは出来事をなくしてしまおうとする試みは、
    断固阻止するべきである。我々のアイデンティティーに関わるものを大事にするべきである。
    歴史とは、過去から連綿と繋がり続いてきたものであり、現状の足元をしっかり確認したうえで、未来を見通す。子供たちにも伝え教えて生きたいものである。

  2. 【4512932】 投稿者: イワサキ  (ID:s0VfEq8WnBI) 投稿日時:2017年 03月 27日 07:23

    今日の水菓子ブログでスレ主さんが京都の桜について語ってるんだけど
    京都はいいよね。ビジネスで関西地区は全く縁がなかったけど
    地域の支社、支店のアレンジで多少の縁が出来ました。

    新幹線で関ケ原を語った記載をしたが、世界遺産に登録されているような
    寺、神社を数件表敬訪問しました。歴史を語れるとの指名だったようですが、
    しかし、京都奈良の名門校を経営する寺院は財力が半端ない。
    南都北嶺と呼ばれた時代から、単なる宗教だけではなく、地域の経済をにぎり
    ある時代には守護を兼任していた名残かな、北嶺に関しては、琵琶湖周辺に関所、船の流通税をとり、土倉(運び屋)もすべて押さえていたいただけはある。
    信長に焼き討ちされたのは、信長が琵琶湖の流通網、近江国(全国の物資はここを必ず通る)を押さえたいがための焼き討ちだった。焼き討ち後は安土、坂本、長浜、堅田などに光秀、秀吉、信澄(甥)を置き流通網を支配した。

    天皇陛下が正月の四方祭で必ず祈られる、山城一宮、記紀にも出てくる名門神社で葵祭り、斎王(伊勢神宮の斎宮とならび、斎院がおかれた)で衆知のところだが、30年に一度の式年遷宮には30億かかるそうだ、国からの助成は8億
    そこで苦肉の策として記紀にも書かれ、源氏物語にも登場する森の一部を50年定期借地として8000万の借地料を受け取る例のマンション計画が持ち上がった
    30年8000万受け取り、国から8億助成されえば、賄える計画

    伊勢神宮の式年遷宮は寄付や助成で賄える、国の一大プロジェクトだが
    そこまでの寄付は難しいそうだ(公開情報なので公開しました。)
    寺院は拝観料がとれるし、檀家もいるが、神社は寄付頼みなのは非常につらいところ。1000年前から、経済の流通網を握った寺院との財力の違いがあまりにも多き過ぎる。二けたは違う。

    由緒ある記紀にも記載され、京の人に愛された神社
    国が、寄付する側の税制など考える余地は大きいのでないか。

    余談の中で、天皇陛下が御譲位されたら、京の仙洞御所にお住まいいただけると
    非常にうれしいとのお話もありました。昨日の新聞に東宮御所にお住まいかとの記事がでてしまったので、陛下の大御心に従うだけだが、いずれは、皇位継承1位の人間は京都に住む時代が来ればいいのではないかと思った次第である。
    明治維新の際には、きっちりした遷都令、詔はでておらず。東西の京を定め、江戸を東京と改めただけで、明治天皇はちょっくら東の京に行って来ますって感じで行幸され、やがて太政官や役所が少しずつ東京に移って行った。
    日本人らしい時間をかけた玉虫色の解決だった。
    日本国の時間的連続性の象徴は天皇であるが、
    日本国の時間的連続性の空間、時空を貫く場所が京都であることは間違いないところである。

  3. 【4520667】 投稿者: イワサキ  (ID:Wlhh8p5o5Sg) 投稿日時:2017年 04月 02日 09:18

    古きいにしえとして、古墳について語ってきました
    前方後円墳に始まり、方墳、八角墳
    それぞれの変遷は240年ごろ前方後円墳(箸墓古墳)、物部守屋滅亡後、前方後円墳は作られなくなり(前方後円墳は物部氏の象徴)、
    蘇我氏全盛時は、方墳、そして大王、天皇家は八角墳へと変遷していった。

    この事象は古くいにしえの時代と皆さまは思いのことであろう。
    実は、古きいにしえではなく、連綿と続いているのです。
    具体的には、1912年の明治天皇陵(伏見桃山陵)、大正天皇陵、昭和天皇陵
    三代ともに、上円下方墳、つまり小さめな古墳となっております。
    明治天皇陵は60M規模、大正天皇陵は27Mと規模は少しずつ縮小傾向のようであるが、100年前の明治天皇陵造営の際には、天智天皇陵、舒明天皇陵を参考に上円下方墳に決定された経緯があるが、その後、天智天皇陵、舒明天皇陵は
    上円下方墳ではなく、八角下方墳であることが判明しているため、本当なら円の部分を八角形にするのが妥当だが、宮内庁から変更の話は出ていない。

    陵はりょうではなく、みささぎが正しい。宮内庁HPにも出ていますが、天皇陛下、皇后陛下のそれは陵(みささぎ)であり、その他の皇族は墓(ぼ)との呼び名である。

    みささぎという言葉は記紀にも数多く出てくる語句であり、みささぎ(前方後円墳)を造る際には多くの人が動員されたのは想像できるが、壬申の乱の際は、
    大友皇子が父、天智天皇の陵(みささぎ)造営のために人夫を集めたことを知り
    軍事行動で人を集めているとの判断で、大海人皇子は吉野に逃げ自ら挙兵している。また神功皇后が三韓征伐から戻ってくる際には、亡くなった仲哀天皇の皇子たちが迎え討つために、明石、垂水のあたりに石の陣を築いているこれが五色塚古墳である。

    伝仁徳天皇陵、伝応神天皇陵のように規模がどんどん拡大しているが、ある説では苦役というよりも、人々が競ってお祭りのように掛け声をかけながら諏訪大社の御柱祭のように、前方後円墳を造営していた可能性も指摘されている。
    仁徳天皇の民のかまどの説話などで、民衆から慕われていなければあのような
    486Mの前方後円墳など造営できないのではないか。
    記紀にでてることはすべて架空の出来事とかたずける事はできないと思う。

    古いにしえより連綿と続き我々が見過ごしているもの、気づきを書いていきたい
    これが現代に生きる私達の務めであることは間違いないところ。
    歴史はロマンだなあと思った次第である。

  4. 【4521206】 投稿者: 奥都城  (ID:27vRW.74Gmg) 投稿日時:2017年 04月 02日 15:44

    >伝仁徳天皇陵、伝応神天皇陵のように規模がどんどん拡大しているが、ある説では苦役というよりも、人々が競ってお祭りのように掛け声をかけながら諏訪大社の御柱祭のように、前方後円墳を造営していた可能性も指摘されている。

    古墳造営は治水工事などの土木事業とともに、公共事業の意味もあったのでしょうか?災害や飢饉の被害があった一定の期間に古墳造営に就けば課税免除され食料の配給もあったのかもしれない。

    >大友皇子

    明治になってから「弘文」として歴代にくわえられた稀有な経歴をお持ちの天皇ですね。
    この弘文天皇の陵、長等山前陵は当時の近江大津宮の側に造営され、息子の大友与多王が父の弔いの為に建立した三井寺が陵の南側にあります。
    独身の頃三井寺の夜桜見物に訪れたことがあります。
    当時は大友皇子縁のお寺だったとはなにも知らず、花冷えの中終電まで飲んだくれていました。。。
    あのころは歴史より花とビール、何やってたんでしょ?
    ほんともったいない。

  5. 【4521235】 投稿者: 奥都城  (ID:27vRW.74Gmg) 投稿日時:2017年 04月 02日 16:05

    スレ主様
    礼を欠いた振る舞い、まことに申し訳ございませんでした。
    格調高いハイレベルなここでのお話し、とてもついていけそうにもないと思いつつ、歴史にはどうしても興味をかきたてられてしまいます。
    私のようなレベルのものでも、
    いけそうだな?って思いましたら時々ダイブさせてください(^∇^)

  6. 【4525256】 投稿者: 自由  (ID:ABfLMaLqAug) 投稿日時:2017年 04月 06日 07:53

    >天武天皇、飛鳥浄御原令(683年)前後に、日本と天皇という呼称を内外に向けて高らかに宣言した。漢の劉備、魏の曹操との呼び名は一般的だが、いずれも漢王朝の皇帝(劉備)、魏王朝の皇帝(曹操)と同じで、王朝名が日本で大王を改め天皇と称した。王朝が今に至るまで継続していく中で、日本が国号、国名になった。

    >王朝名、日本、自らを天皇と称したのは、白村江の戦い(663年)に敗れ壬申の乱(672年)を勝ち抜き、皇親政治を行い国内を固めつつあった、天武天皇の、大陸(唐)にたいする、大陸何するものぞといった気概と決意であった。

    >歴史とは、過去から連綿と繋がり続いてきたものであり、現状の足元をしっかり確認したうえで、未来を見通す。子供たちにも伝え教えて生きたいものである。


    まさしくそこが私の最大の関心事で、3人で認識を共有させていただいたところ。

    天皇なき日本はあり得ない、もしも天皇なき国家となるのであれば、私達国民は日本という国号を変える覚悟が必要である・・という当たり前の歴史認識が重要となってきているように思われる。

    歴史というのは、客観的事実と実証された(と勝手に思い込んでいる)事実の羅列では意味を成さないわけで、その国の人々が信じ、積み重ねて編んできた物語があってこそ意味を持つ。ロラン・バルトが指摘した「表徴の帝国」はそのような物語の結晶である。

    日本社会が西洋文明を取り入れても、西洋思想の論理的破綻を招かないのは、日本社会の中心にゼロ記号の存在があり、柔らかな構造を有しているからである。

    ここでいうゼロとは、仏教で言えば「無」ではなく「空」。すべてのものがそこから生まれる、あらゆる事象の根源。

    日本は世界で例を見ないゼロ記号を中心とする国であるがゆえ、世界はそのオリジナリティに目をみはるのであろう。

  7. 【4525602】 投稿者: 奥都城  (ID:27vRW.74Gmg) 投稿日時:2017年 04月 06日 13:59

    こんにちは。


    >天皇なき日本はあり得ない、もしも天皇なき国家となるのであれば、私達国民は日本という国号を変える覚悟が必要である・・という当たり前の歴史認識が重要となってきているように思われる。
    歴史というのは、客観的事実と実証された(と勝手に思い込んでいる)事実の羅列では意味を成さないわけで、その国の人々が信じ、積み重ねて編んできた物語があってこそ意味を持つ。ロラン・バルトが指摘した「表徴の帝国」はそのような物語の結晶である。


    ロランさんは存じませんが
    古代以来、国家・社会の根底にある国民の安定した統合は日本国の独立にかかせない前提であったはずです。その統合こそが天皇という存在です。
    総合の中心に権力を持たない天皇を位置づけることは、社会の解体を防いで独裁を防ぐ日本人の知恵であり、
    日の本の歴史は、神話・古代以来の血統と祈りを受け継いだ天皇とともにあるのだと思います。
    私は日本の歴史を大切にしたいです、天皇なき日本などは考えたくもありません。
    私は日本人でありたい。

  8. 【4525644】 投稿者: 奥都城  (ID:52yDcij4zvk) 投稿日時:2017年 04月 06日 14:39

    「天皇教」

    あえて教と付けるなら、
    天皇教=日本教。
    仏教でもなく神道でもない。

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