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【1012779】戦前は、「慶応、早稲田、中央、東洋」

投稿者: ウイキペディア   (ID:vvZ/sI.SCMI) 投稿日時:2008年 08月 29日 17:33

【慶應義塾大学】のウィキペディアより
第二次世界大戦前には「三田(慶応)の理財」とも称され、さらに「早稲田の政治、駿河台(中央)の法学、白山(東洋)の哲学」などをも加えて総称されることもあり、伝統的に経済学部が有名である。三田会の存在やその権勢を背景にした実業家が卒業生に多い。

【早稲田大学】のウィキペディアより
日本の私立大学では最も古い段階で大学令に基づく大学となったうちの一校である。第二次世界大戦前には「三田の理財、早稲田の政治、駿河台の法学、白山の哲学」と称され、伝統的に政治学で有名。

【中央大学】のウィキペディアより
法曹界や官界に多くの卒業生がおり、第二次世界大戦前には本部のあった駿河台にちなんで「三田の理財、早稲田の政治、駿河台の法学、白山の哲学」と称された。また、第二次世界大戦後、特に多摩移転後には「法科の中央」という異称も用いられ、伝統的に法学で知られてきた。

【東洋大学】のウィキペディアより
1887年に井上円了により創設された私立哲学館が前身。第二次世界大戦前には「三田の理財、早稲田の政治、駿河台の法学、白山の哲学」と称され、「白山」といえば東洋大学を指し示すほどの存在感を地域に誇っていた。伝統的に哲学が有名。

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  1. 【4303453】 投稿者: 勉強記  (ID:SW2WFGI1MNo) 投稿日時:2016年 10月 29日 11:21

    坂口安吾 『勉強記』(昭和14年)

    大震災から三年過ぎた年の話である。昨今隆盛を極めているアパートメントの走りがそろそろ現れた頃で、又青年子女が「資本論」という魔法使いの本に憑(つ)かれだした頃でもあった。生活の形式にも内容にも大きな転換期が訪れようとしていた。「近代」が、また「今日」が、始まろうとしていたのである。

    涅槃(ねはん)大学校という誰でも無試験で入学できる学校の印度哲学科というところへ、栗栖按吉(くりすあんきち)という極度に漠然たる構えの生徒が、恰(あたか)も忍び込む煙のような朦朧(もうろう)さで這入(はい)ってきた。強度の近眼鏡をかけて、落着き払った顔付をしているから、何かしら考えている顔付に見えたが、総体に、このような「常に考えている」顔付ほど、この節はやらないものはない。

    ※涅槃大学校=モデルは東洋大学
    ※誰でも無試験で入学できる学校=東洋大学も無試験で入学できた
    ※栗栖按吉=モデルは坂口安吾

    涅槃大学の印度哲学科には十三人の生徒がいた。栗栖按吉という場違い者を除いてみると、あとはみんな素性の正しい坊主であった。

    ※東洋大学も坊主が多かった

  2. 【4303454】 投稿者: 勉強記  (ID:SW2WFGI1MNo) 投稿日時:2016年 10月 29日 11:22

    ここの生徒は耳と耳の間が風を通す洞穴になっていて、風と一緒に先生の言葉も通過させてしまう。然し先生はそんなことを気にかけない。先生は喋るために月給をもらっているが、教えるために月給をもらっていないからであった。

    こんなにあっさりしたクラスに、先生の言葉を真剣にきいている生徒がいたらどうだろう。実際笑止で、気の毒なほど惨めなものだ。耳と耳の中間の風洞に壁を立て、先生の言葉をくいとめようと必死にもがいているのである。なんのためだか、てんで意味が分らない。一目見て、これはもう助からないほど頭の悪い奴だという印象を受けてしまうのである。第一こいつは何のために学校へ来ているのだろう。あまりのことに――いや、まったくだ。物質の貧困よりも、このような精神の貧困ほど陰惨で、みじめきわまるものはない。そこで先生は泣きだしたいほどがっかりして、学生の本分とは何か、とか、学校の精神は何か、もっと正々堂々たれ、惨めであるな、高邁(こうまい)なる精神をもて、そんなことを口走りたくなるのであった。

    即ち栗栖按吉がこのようなたった一人の惨めな生徒であったのである。

    尤(もっと)もこんな男でも、たったひとつ効能のあることが分ってきた。というのは、涅槃大学校の印度哲学科というところは、時々先生がわざわざ三十分も遅れたあげく教室へ出向いてくるのに、生徒の影がひとつもないということがあるのであった。即ち坊主の子供達は就職の心配がないのであるし、世襲の職業に情熱や興味を持っていないからなのである。時間制の月給をいただいていらっしゃる先生達は、人のいない教室に四五十分もうたたねしたり鼻唄うたったりしながら風をひいたりするのであった。

    ※坊主の子供達は就職の心配がない=だから東洋大学は民間企業への就職力が弱かった
    ※時間制の月給をいただいていらっしゃる先生達=当時の東洋大学も時間給の講師が多かった

    ・・・これが自称「白山の哲学」の東洋大学ですか。

  3. 【4303965】 投稿者: こちらは 筑波・明治・早稲田・慶應  (ID:1Qj/haW.5V6) 投稿日時:2016年 10月 29日 20:06

    箱根駅伝の由来

    箱根駅伝オフィシャルサイトより(2010)

    『1919年10月、
    上野駅を出る汽車に3人の男が乗り合わせた。

    1人は東京高等師範学校出身の金栗四三。
    1912年ストックホルムオリンピックにマラソン代表として出場、日本人初のオリンピック選手となりその後、
    2度のオリンピックに出場し後に、「日本マラソン界の父」と呼ばれた男。

    もう1人は明治大学の沢田英一。
    明治大学の出口林次郎とともに札幌~東京間(約830km)を22日で走破した実績を持つ健脚。

    そして野口源三郎。
    東京高等師範学校体育課教授で、1924年パリオリンピックに十種競技代表として出場。

    3人は鴻巣の小学校で行われる運動会の審判員として招かれていた。
    その車中での何気ない会話。同じ陸上選手としての一つの夢が、
    世界一の歴史を誇る駅伝「箱根駅伝」創設の発端となったのである。

    車中で金栗は、オリンピックで戦える日本の長距離ランナーを数多く育てるためには駅伝競走が最適だと熱弁した。
    しかし、金栗は下関~東京間を、同じ東京高等師範学校の秋葉祐之とともに走破し、
    乗り合わせた沢田も札幌~東京間をすでに走破していたため、「日本はもう走り尽くしてしまった」との思いもあった。
    そこで3人は、何か桁外れのスケールで長距離ランナーを育てられないか?と考えた。
    そして出した結論は、「アメリカ大陸横断駅伝」というものだった。

    サンフランシスコを出発し→アリゾナの砂漠を越え→ロッキー山脈を越えて→アメリカ中部農村地帯を抜け→ニューヨークへ
    ゴールするという壮大な計画。
    世界中の人々を驚かせよう、何かどえらいことをやってやろう、3人はそんな気持ちだった。

    車中でのまったくの思いつきで始まった「アメリカ大陸横断駅伝」
    この構想を実現すべく、3人は、当時、陸上競技に大変理解のあった報知新聞を説得、資金の調達を試みる。

    そして、金栗が当時勤務していた東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)に早稲田大学、慶應大学、明治大学、帝国大学など
    東京都内の大学・専門学校の代表を集めて選考会実施計画を協議した。
    「アメリカ横断駅伝」というアイディアに度肝を抜かれながらも、同じ夢を共有する仲間たちは満場一致で賛成、
    意義を唱える者などいなかった。即座に翌年2月、予選としての出場選手選考会を行うこととなった。

    しかし当初、東京都内13の大学、専門学校が参加の予定ではあったが、10人の長距離ランナーを揃えられる学校は少なく、
    最終的に、「早稲田大学」、「慶應大学」、「明治大学」、「東京高等師範学校」の4校で行われることとなった。

    さて、どこを走るか?コース決めは難航した。
    それは「アメリカ大陸横断」という最終目的を考えた場合、
    険しい山脈地帯や砂漠など厳しい自然状況下を走ることも予想されたためだった。

    まずは、東京~水戸間が、候補にあがる。
    しかし、平坦すぎるなどの理由から断念。続いて、東京~日光間。がこれは片道コースで、交通の利便性が至極悪いとの理由で消えた。

    最後にあがったのが東京~箱根間ルート。
    交通の利便性、箱根の山登りの勇壮さ往復コースとなることなどが決め手となった。
    「天下の嶮」箱根の山、越すに越されぬ箱根山と歌われるほどの急峻な山道に挑む選手たちの姿が頭に浮かんだのかもしれない。

    難航の末この東京~箱根間、東海道を往復するルートに話は決まった。

    そしていよいよ、翌年1920年2月14日、有楽町の報知新聞社前から東京高等師範学校(現筑波大学)、
    早稲田大学、慶応大学、明治大学の4校がスタートする。

    そのスタート地点には金栗四三の姿があった。
    審判長として自ら万感の想いでスタートの号砲を鳴らした。
    栄光と挫折、襷にかける男たちの熱い情熱に彩られた「箱根駅伝の歴史」はここから始まった。

    結局、「アメリカ大陸横断」は達成されなかったが、3人の男の情熱と世界を目指す熱い想いは今も「箱根駅伝」に生き続けている。』

  4. 【4383020】 投稿者: 戦前の東洋大学は小規模校だった  (ID:Uodk60fTDFo) 投稿日時:2017年 01月 03日 02:17

    主要私立大学の学生数(昭和10年、専門部除く)

      早稲田 8174 (法、政経、商、文、理工)
      慶  應 6759 (法、経済、文、医)
      日  本 3947 (法文、商経、工)
      明  治 3345 (法、商、政経)
      中  央 2643 (法、経済、商)
      法  政 2540 (法文、経済)
      立  教 1415 (経済、文)
      同志社 1346 (法、文)
      関  西 1371 (法、商)
      専  修 1284 (法、経済)
      立命館  937 (法経)
      関  学  840 (法文、商経)
      拓  殖  688 (商)
      國學院  566 (文)
      駒  澤  410 (文)
      ---------------------------------------------
      東  洋  226 (文) ← 自称「早慶と同格」[削除しました]ww

  5. 【4384409】 投稿者: 出陣学徒壮行会  (ID:Re2GkxRn8xQ) 投稿日時:2017年 01月 04日 11:43

    昭和18年10月21日「出陣学徒壮行会」ラジオ放送(志村正順)
    http://www.youtube.com/watch?v=-6Xfuc0GhwY

      「征く学徒。東京帝国大学以下77校××名。これを送る学徒96校、実に5万名。
      今、大東亜決戦に当たり、近く入隊すべき学徒の尽忠の至誠を傾け、
      その決意を高揚するとともに、武運長久を祈願する出陣学徒壮行の会は、
      秋深き神宮外苑競技場において、雄々しくも、そしてまた猛くも展開されております。
      日章旗翩翻として中空にひるがえる間に、なおも学徒行進は続いていきます。
      慶応大学、早稲田大学、明治大学、法政大学、中央大学、日本大学、
      専修大学、立教大学、拓殖大学、駒沢大学、立正、農大、日本医科大学、
      大正、上智大学、国学院、★東洋大学と、各大学の行進はまったく終わりました。
      正面芝生、所定の位置、順次凛然たる整列を続けております…

    東洋は最下位です。

  6. 【4386387】 投稿者: 国会図書館デジタルコレクション  (ID:LMEcPFnlx3c) 投稿日時:2017年 01月 06日 10:08

    【「白山の哲学」なる宣伝文句はどこにも見当たらない】

    『男女東京学校案内』(蛟竜子編、大学館、明治35年)
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812971
    『東京修学案内』(田山停雲編、井上一書堂、明治41年)
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813107
    『全国学校案内 明治42年』(高橋都素武編、内外出版協会、明治42年)
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812848
    『学生の進路』(相良桜崖 (忠道) 著、昭文堂、明治44年)
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813460
    『最近東京遊学案内』(東華堂編輯部編、東華堂書店、大正3年)
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/937437
    『新撰東京遊学案内』(集文館編、集文館、大正5年)
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/937556
    『入学選定男女東京遊学案内と学校の評判』(太田英隆著、二松堂書店、大正7年)
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/937619
    『東京遊学学校案内 大正11年版』(出口競著、大明堂書店、大正11年)
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/937655
    『震災後の東京学校遊学案内:附・苦学生の就職案内』(森山正雄編、啓文社、大正13年)
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/937687
    『入学試験問題入東京遊学苦学案内 大正14年度用』(中原隆三編、日刊第三通信社、大正13年)
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/937703
    『男女東京遊学指針:苦学と就職の秘訣』(箕輪香村著、文憲堂書店、昭和2年)
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459037
    『東都学校案内』(東京市編、三省堂、昭和3年)
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1466046
    『標準東都学校案内 昭和8年度版 男子部』(大日本学生保護者協会編纂、春陽社、昭和8年)
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275625
    『最新東京男子学校案内』(芳進堂編輯部編、武田芳進堂、昭和10年)
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1455805

  7. 【4390425】 投稿者: 京都大学  (ID:u8r.BYg4Wmc) 投稿日時:2017年 01月 09日 10:53

    京都大学大学院文学研究科・文学部/日本哲学史研究への案内
    https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_philosophy/jp-guidanceguidance/

    1、代表的な思想家の紹介
    西周       1829-1897(文政12-明治30)
    福沢諭吉   1835-1901(天保6-明治34)
    中江兆民   1847-1901(弘化4-明治34)
    内村鑑三   1861-1930(文久2-昭和5)
    岡倉天心   1862-1913(文久2-大正2)
    清沢満之   1863-1903(文久3-明治36)
    大西祝     1864-1900(元治元-明治33)
    北村透谷   1868-1894(明治元-明治27)
    西田幾多郎 1870-1945(明治3-昭和20)
    鈴木大拙   1870-1966(明治3-昭和41)
    柳田国男   1875-1962(明治8-昭和37)
    波多野精一 1877-1950(明治10-昭和25)
    田辺元     1885-1962(明治18-昭和37)
    高橋里美   1886-1964(明治19-昭和39)
    九鬼周造   1888-1941(明治21-昭和16)
    和辻哲郎   1889-1960(明治22-昭和35)
    柳宗悦     1889-1961(明治22-昭和36)
    久松真一   1889-1980(明治22-昭和55)
    木村素衛   1895-1946(明治28-昭和21)
    三木清     1897-1945(明治30-昭和20)
    西谷啓治   1900-1990(明治33-平成2)
    戸坂潤     1900-1945(明治33-昭和20)
    下村寅太郎 1902-1995(明治35-平成7)
    井筒俊彦   1914-1993(大正3-平成5)
    丸山真男   1914-1996(大正3-平成8)
    大森荘蔵   1921-1997(大正10-平成9)

    ※井上円了やその教え子たちは紹介されていない。

  8. 【4393206】 投稿者: 日本哲学会  (ID:N4kkC8.40as) 投稿日時:2017年 01月 11日 11:10

    日本哲学会歴代会長(委員長)に東洋大学OBはいない
    http://philosophy-japan.org/ja/history

    天野貞祐  (京都帝大卒)
    務台理作  (京都帝大卒)
    伊藤吉之助(東京帝大卒)
    出隆      (東京帝大卒)
    桂寿一    (東京帝大卒)
    三宅剛一  (京都帝大卒)
    松本正夫  (慶應大卒)
    下村寅太郎(京都帝大卒)
    山崎正一  (東京帝大卒)
    岩崎武雄  (東京帝大卒)
    沢田允茂  (慶應大卒)
    山本信    (東京帝大卒)
    藤沢令夫  (京都大卒)
    渡辺二郎  (東京大卒)
    坂部恵    (東京大卒)
    加藤尚武  (東京大卒)
    野家啓一  (東北大卒)
    高山守    (東京大卒)
    飯田隆    (東京大卒)
    加藤泰史  (静岡大卒)

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