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先生コラム |
【第1回】武蔵野女子学院中学校・高等学校「未知生、焉知死。」(未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん。)
『論語』にある言葉です。漢文の授業で反語形について学習していたとき、例文として用いました。「まだ生きるということがわからないのに、どうして 死ぬということがわかるだろうか(いや、わかるはずがない)。」と生徒たちは訳します。普段の授業であれば、ここでおしまいです。はい、では次の文 を・・・という感じで授業は進むはずなのですが、この例文は少なからず生徒たちに引っ掛かりを持たせてくれたようです。「死ぬ」と軽々しく口にすることが ありますが、先人は、「生きるということがわからない、すなわち、十分に生きていないのに〈死ぬ〉なんて簡単に言ってくれるなよ」、そう語りかけてくれて いるようです。生徒たちなりの解釈で例文の持つ死生観の重さが伝わったのかもしれません。「言葉」の持つ力は大きいなぁ、つくづくと感じた瞬間でした。 私自身、生死に対する考え方は、年を重ねるごとに変わってきていると感じています。年を重ねるということは、それだけ経験が増えるということです。 身近な人の死もいくつか経験してきました。その経験は、幼い頃にただ漠然と「怖い」と感じていた「死」に対して、なんらかの意味や重さを与えてくれまし た。しかし、その経験が少ない若い人たちは、「死」というものをどのように受け止めるのでしょうか。また、私の経験の中には簡単に受け止められない知人の 死の経験があります。そのときの悲しみや心に受けた衝撃をやわらげてくれたものは何だったのでしょうか。 私にとって、そのクッションの役割をしてくれたものは「本」でした。本を読むことで私たちは、先人の哲学に触れ、自分では経験することのできない事 象を疑似体験することができます。 明日のテストを控えた生徒が、「あー、もう死んじゃいたい」と伸びをするかのように発する言葉が、ほんの少し、気になります。若い人たちによって「リスカ (リストカット、の略)」という言葉が、「コンビニ」とか「マック」などと同じような軽さで用いられるとき、妙に耳の中に引っ掛かりができてしまいます。 とはいうものの、そういった言葉を軽く発する彼らには、まだ「生きる」という経験も短く、耐えられないほどの「死」と直面する、という経験もないに等しい のだと思います。だからこそ、「言葉」に触れて欲しい。「本」を読んでほしい。そう強く願ってしまうのです。 私は国語教諭ですので、古典を教えることもあります。特に、優れた古典文学の中には、先人の哲学、私たちの経験を補ってくれる死生観が語られています。 『万葉集』の挽歌に、『平家物語』の敦盛の最期の場面に、『土佐日記』の急死した娘への愛惜の情に、私たちは生死の意味を考えさせられます。鴨長明や吉田 兼好の著名な随筆に、紫式部が千年もの昔に描いた日本が誇る長編物語の中に、死を受け容れること、そして、生きることのヒントが語られています。そうした 古人の言葉と、生徒たちが向き合える、語り合える指導ができれば、と思います。 私が奉職する武蔵野女子学院中学高等学校は、浄土真宗本願寺派の宗門校です。生徒たちは、週1時間「宗教」という授業を受けています。仏教だけでな く世界のさまざまな宗教の基本思想を学ぶことで、ここにおいても「言葉」との出会いがあります。さらには、「脳死と臓器移植」「少年犯罪」「差別問題」 「戦争と犯罪」など現代社会の具体的な問題をテーマに、生と死、善と悪、人生、などについて考える機会を与えられます。初めに述べた『論語』の言葉に立ち 止まれる生徒たちの心の深いところに、こうした人間教育・宗教教育が根付いているのでしょう。最後に、生徒の言葉を紹介してこのコラムを終わります。 「私は高校1年生の夏に初めて身近な人の死に出会いました。そして、初めて何物にも変えがたい悲しみを味わいました。(略)私は悲しみの涙でいっぱ いになりながらも、周りの誰よりも落ち着いている自分に気がつきました。(略)3年前は異様だったもの(宗教)に今では安らぎを感じることさえできる。そ れがとても大きな私の収穫でした。」 おすすめの本
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