マルチリンガルを目指せる女子校
◆ 東海地区の雑談!スレ
エデュ自体が過疎ってはや何十年。
東海地区はそれが顕著。
そこで、東海地区のネタでなんでも話せるスレッドを作ってみました!
雑談スレッドはありますが、こちらは東海地区限定ネタと言うことで!
みんなで書きゃあ。
大阪万博、インプレッションがどの程度の密度で語られたものか、そのレヴェルより先に、解像度の差が問われる気がします。
語られる「体験」は、時に現地以上に豊かに加工され、時に現地以下の凡庸さで綴られる。問題はいつも、場所ではなくまなざしの方にあるのかもしれません。
SNSには、確かに情報があります。けれど、情報が重さを持たない世界では、どれほどの事象もインプレッション換算の数値に均されてしまう。
そこでは、「知ったこと」ではなく「反応されたこと」が真実と呼ばれ、光速で消費される。
言葉を投げ、熱量を測り、いいねで選別する。その運動の先で、誰もどこにも辿り着かない。
まるで、答えのない問いを、誰かが正解と言ってくれるまで歩き続けるゾンビのように。インプレゾンビも万博をエサや燃料にまた消費していくのでしょう。
とはいえ、知の営みとはそもそも、孤独な静寂の中に芽吹くものです。
情報とは、探すものではなく、静かに浮かび上がるもの。
その差を感じ取れるかどうかは、チャンネルの選び方ではなく、沈黙に耐える訓練の有無にかかっているのかもしれません。
声絶えて それでも集う 灯の中
過疎ったエデュで書き込み50ですね。
なかなか好調ですね。
多少荒れた場面もあったかな?
まあ煽る書き込みは極力スルーで。
さて、私はコンビニフードが好きでよく利用して、その際にはトイレもお借りしたりましますが、女子専用トイレからおっさんが出て来る場面をに本当によく遭遇します。本当にイヤです。
入ってみると便座が上がっているわ、床が汚されていたり。もう最悪。
今は男女どちらも使えるトイレが世界の主流の様ですが、私は絶対にイヤですね。
ここは男性も女性もいらっしゃると思いますが、皆さんどう思いますか?
四月の終わり。皐月の勲風の気配を宿した風が、言の葉を運んでくる。
春の名残をまとって吹き抜けるその風には、どこか「記憶」の匂いがある。
それは、まだ見ぬ明日というより、かつてあった未来のようなもの。
そんな風を背に受けて、私は大阪万博の会場に「在る」。
この場所は、何かが始まるというよりも、何かがようやく終わるという気配に支配されていた。
人が集まる場所にはいつも「早すぎる別れ」の匂いがする。
それでも、足が向いてしまうのは、きっと私たちがいつも誰かの「後朝の文」を待っているから。
平安の昔、夜明け前に別れた恋人へ、その朝のうちに届く一通の手紙。
届けば「あす」があり、届かなければ「きのう」になる。
それが、後朝の文(きぬぎぬのふみ)。
清少納言が記した、「水増す雨の」
ただそれだけの一言に、すべてが宿っている。
〜水が増すように、あなたへの想いも増しています〜
そう読めた者だけが、情に触れることができる世界。
言葉が、意味だけでなく「間」や「余白」を持っていた時代。
見えないものを受け取るために、想像力と感受性が必須だった時代。
それは、今よりもずっと不便で、だけど確かに、豊かだったのだと思う。
ならば、未来はいつだって過去でもある。
「A long time ago, in a galaxy far, far away…」
遠い昔。遥か彼方の銀河系で
スターウォーズの冒頭がそう語るように、未来と過去は時間の両端ではなく、記憶と予感の中でDNAの螺旋のように交差する。
そして、風に揺れる万国旗の下、私は思う。
あの「水増す雨の」は、和歌で、詩で、また祈りでもあったと。
それは、どの国のものでもなく、あらゆる心の中に生まれうる旋律。
そのとき、ふいに脳裏をかすめたのは、あの蒼い少女だった。
「碇くんとひとつになりたい」と願った綾波レイの、ほとんど希薄な生存感覚。
個を超え、境界のない全体へと溶けていくその欲望は、エロスであり、タナトスであり、そして私たち自身の「繋がりたい」という痛みでもあった。
万博という器に浮かぶ地球儀のような会場で、あらゆる文化と記憶と未来が、ほんの一瞬だけ重なり合う。
そこには「分かりあえない」を知った上で、それでも手紙を送る人たちがいる。
届かなくても、送りたいと願う人たちがいる。
それは、後朝の文かもしれないし、LCLの海に溶ける前に、最後に交わす「さようなら」かもしれない。いや、そもそも「まだ出逢ってもいない」かもしれないし、既に「一つに」なっているのかもしれない。
でも、それでもいいのだ。
私たちはまた、今日という朝に立っている。
そして、となりに誰かがいることを選び取った。
―おめでとう。
カレーは一切食べないのだけど、時間潰しにCoCo壱によく行きます。
アイスコーヒーのみをオーダーしますが、このコーヒーも美味しくない 笑
ただ家から近い、トイレが綺麗だから来てます。コーヒー1杯¥220。安。
無駄なので、ストローもガムシロも拒否で簡素にグラスコーヒーだけとお願いしているのに、オーダーのプリントはガムシロあり、ストローありって書いてある。
たまに片方だけありだったり、両方ともなしだったり。でも実際来るものと齟齬があったりとめちゃくちゃ。
不慣れそうな外国人の店員さんなので仕方がないなと思っていますが、店の規定にないサービスをしてくれる外国人店員さんのいる、ミスドと一風堂に比べると随分差を感じます。
CoCo壱、どこが良いんですかね?
ドバイと大阪、二つの幻影。。。
ドバイ万博を歩いたとき、そこには未来があった。
意匠は一様に流線型で、曲線が空に溶けるように立ち上がり、世界各国のパビリオンが「地球」というテーマの下であたかも調和していたかのようだった。エネルギー、サステナビリティ、モビリティ。。。名目は理想的な文脈に満ち、スタッフは流暢な英語で来訪者を導く。モスクからは祈りの声が聞こえ、気温45度の砂漠に人工の冷風が流れる。
そこにあったのは、未来の建設現場だった。眩暈のするような資本と労働、そしてビジョン。それを幻と見るか希望と見るかは、見る者の自由に任されていた。
一方、OSAKA。
駅前に立てられた仮設のゲートには当初、人もまばらで、どこか都市の廃墟を連想させる鉄骨の残響。人工島に立てられたパビリオン群は、予算と現実の接点で何度も設計変更が繰り返された末の継ぎ接ぎで、既に過去の産物としての「未来」をまとう。
その様は、フリッツ・ラングの『メトロポリス』(1927)を想起させる。
上層に象徴的な建築美と管理者階級があり、下層に膨大な数の労働者が沈黙のうちに動く構造。あの映画が描いた1920年代の未来都市は、今の日本の大都市にも、そしてこの万博にも重なる。表層の映像美の裏に、時間の断層がある。
さらに言えば、大阪万博は、D・W・グリフィスの『イントレランス』(1916)のように、複数の時代が同時進行する舞台装置にも見える。そこでは、近未来のテクノロジー展示の隣に、昭和ノスタルジーの飲食ブースが並び、「多様性」という標語の下にバラバラの物語が配置されている。しかしそれらは決して繋がらず、ただ同時に存在しているだけだ。時代が語られず、ただ展示されている。
私が万博会場で、ジョージ・オーウェルの『1984年』(1949)を思い出すのは、皮肉ではない。
記録と記憶が書き換えられる時代、反戦のための軍備拡張、公共のための排他的決定、そして何より「終わりなき国家的事業」が永遠の建設という名で掲げられる。
この万博が、本当に必要だったのか?
この問いはもはや誰も発さない。というより、発するための「言語」が失われている。まるで、オーウェルのニュースピークのように、「懐疑」を含む単語が減り、感情はスタンプとハッシュタグに溶けていく。
大阪万博は日本の最後の打ち上げ花火かもしれない。
その煌めきは夜空を焦がすが、朝には忘れられる。それは徒花か、否、徒花ですらないかもしれない。
咲くことすら知られずに、すでに散っている。
それでも人は集まる。
なぜなら、万博とはかつて「未来を見せる場」ではなく、「未来を信じたい人々の祭祀」だったからだ。
巨大な予算も、膨れ上がった建設費も、構造の矛盾も、冷笑も諦念も、すべてはただ一つ——「まだ終わっていない」と信じるための。
そして、私たちはその会場で、もしかすると、かつて存在した未来の墓標に花を供えているだけなのかもしれない。
「未来」という言葉の傍らで、「終わり」がゆっくりと呼吸している。
その静かな終末に、風は何も言わず、旗はゆっくりと揺れていた。
この国が描く“未来”とは、もはや一つの過去形であって、大阪万博はその記憶に置かれた記号。AIが“最後の発明”だとするなら、彼?がすべてを予測し終えたその世界で、大阪万博は、“まだ知らなかった”頃の私たちが最後に夢を見た、その残光だったのかもしれない。そしてその光には、黙示録〜アポカリプスというタイトルが相応しいのだろう。
あまりにも暇過ぎて。
この文章にBGMをつけるなら?
そんな問いを自問自答してみた。
やはりクラシック。しかもピアノソロ。
ただし、美しい旋律や甘美なメロディは不要だ。
ノスタルジーも情感も、もはや場違いなのだ。
そう。田中カレン作曲『Techno Etudes』。しかもIII。
アナログの鍵盤が、デジタルの脈動を模倣するその曲は、機械と人間の境界を往復する指の運動記録。
それは音楽というより、情報の洪水をピアノで圧縮した幾何学的なメッセージだ。
「楽譜」と呼ぶにはあまりに非人道的な構造。
人間が弾いているはずなのに、演奏からは人の気配が薄い。
そして、どこかで聴いたような既視感のすべてを、容赦なく切断していく。
大阪万博を照らすのは、もう感動ではなくパターンだ。
展望ではなく、反復される既知。
だからこの曲は、ただのBGMではなく、エッセイそのものの音的翻訳なのかもしれない。
テクノ・エチュードIIIの打鍵が響くたび、私たちは思い出す。
未来は、誰かが夢見たものではなく、誰もが既に見た夢のバリエーションでしかなかったことを。
。。。それでも、打ち続ける。
鍵盤の上に、かつて希望と呼ばれたノイズを、もう一度。
「大阪万博が地味すぎて感動しない? そんなの考えるきっかけになっていいじゃないか」
……という老害ポエムが散見されるが、ちょっと待て。
万博というのは本質的に興行だ。客が入ってナンボ、集客してナンボ。ましてや「国際博覧会」を名乗っている以上、世界の目が向いている。観客数というシビアなKPI(評価指標)で裁かれる場である以上、
「感動できなきゃ意味がない」
「映えなきゃ反応しない」
―これこそが正しい。
初代万博世代は「万博だから行く」で成立した。
これは現在も続く。老人にとって万博に理由はいらない。山と同じ。「そこにあるから行く」。それだけ。エデュで万博を無条件に絶賛しているのも、だいたいこの層。
40代には、「子どもと行く理由」が要る。中身と物語、つまりコンテンツとストーリーが必要だ。
そして問題は、その下。アンダー30世代。
彼らは中身より「映え」で動く。言い換えれば、見た目と瞬発的なエモさで反応が決まる。
この傾向を笑うのは簡単だが、致命的な間違いは、彼らを「客」としてしか見ていないことだ。
もちろん、客としても重要だ。フットワークが軽く、推しモードに入れば来場数を一気に押し上げる。
だが、本領はそこではない。
彼ら最大の魅力、それは「拡散装置」だ。
今の万博にとって成功の指標は、単なる来場者数ではない。
どれだけ「行った気にさせられる画像や動画」が、世界中にリアルタイムで届くか。
その伝播力にこそ、勝敗がある。
つまり、アンダー30の「中身より映え」は、国際イベントとしての命脈そのものだ。映えない未来は、存在しないのと同じ。
SNSというリアルタイム伝送網を通じて、「未来像」を世界中に刻む装置として、彼らは動員されるべき「戦力」なのだ。
にもかかわらず、「光らないけど考えさせられるから」などと、動員も発信もできない自己満足型展示に資源を割いてどうする?
この時代、展示とは「見る」ものではない。
「撮られるために存在する」ものだ。
それって、日本の得意分野そのものだろう。
ねぷた、だんじり、提灯、金箔、竹細工。
全部「映える」じゃないか。
安価でも高見えし、構造もシンプル。それでいて心を掴む。
それが日本の美意識で、矜持。演出力の真骨頂だったはずだ。
「考えさせる展示」と「ただ地味なだけ」は、似て非。「本質的」と言いながら「映え」を軽んじる者に、未来を語る資格はない。
歌舞伎の「見得」だって、まさに「映え」そのものだ。
バジェット無限の産油国とは違う。
限られた予算で、最大の訴求力を生む。
そのアプローチこそが、「智慧」と「テクノロジー」の見せ場だろうに。