マルチリンガルを目指せる女子校
東海地区の私立中学受験において、集団塾で点数は上がるのでしょうか?
ある集団塾に通っている小5の息子をもつ母です。
正直、国語の相談をしてもなかなか成績があがりません。
語彙や漢字の力はあると先生達にも言っていただいているのですが、文章題で伸び悩んでおります。
色々な先生に相談しても、いつも習ったことを意識してやりましょうということや、時間が経てばといったことしか言われず、不安しかありません。
名門会との掛け持ちも考えています。
そもそも、国語の先生はみなこんな感じなのでしょうか?
関東に行かないとレベルの高い先生はいないのでしょうか?
>灘開成筑駒水準の偏差値取れている。
なるほど。「水準」ね。その言い回し、まさに外から見上げている者の口ぶりだ。実際にそのレベルで通過した家庭が、そんな大雑把な三校まとめて一括りにして話すことはない。なぜなら、その三校は偏差値だけで並べられるようなものではなく、文化も空気も、求められる適性すら異なるからだ。共通しているのは、学力と精神の成熟があることだけ。だからこそ、灘と開成、筑駒とでは話の内容やアプローチの仕方が微妙に違う。合格実績の数字を横並びにして語るのは、結局は「受かったことがない人間の話法」だとすぐに分かる。
うちの父は開成、兄も同じく開成。兄の代の仲間には筑駒から東大理三に行った人もいれば、灘から京医に進んだ人間もいる。灘の同級生と話すと、彼らの中学時代の読書習慣は、確かに桁外れだった。けれど、彼らがそれを「読書量が多いから国語ができる」なんて話し方をしたか? 違う。彼らは、自分の考えを表現する訓練として読書を位置づけていた。大量に読むこと自体が目的ではなかったし、ましてや「偏差値を取る手段」として読むわけでもない。
一方で、「うちの子、年間3桁の本を読んで表彰されました。勉強しなくても灘開成筑駒水準の偏差値です」と言い放つ投稿は、見事にズレている。受験というのは、知識や語彙の量だけではなく、制限時間内に問いの意図を読み取り、自分の思考を型に沿って提出するプロセスだ。大量の読書がそのまま点数になると思っているなら、それは国語を「量」のゲームだと誤解している証拠。
さらに言えば、「表彰されるほど読んでいる」ことを強調する時点で、自分の子がどの位置にいるかを確認したいだけの親の自己満足が透けて見える。読書は勲章ではない。特に灘や開成、筑駒を目指す家庭の間では、そういうことを誇示すること自体が幼稚でみっともない。むしろ、「うちの子はあまり本を読まないけど、問いに対して的確な切り口を出してくる」そういう子のほうが、国語の実力者として内部では一目置かれる。
塾を敵視し、「塾が儲からないから読書を否定している」とまで言う姿勢も痛々しい。実際には、読書と指導技術は別軸で動く。自分の子の状況を冷静に分析せず、塾やシステムのせいにして「読書量信仰」にすがるだけなら、むしろあなた自身が子の読解力を歪めている張本人ではないか。
そもそも「水準の偏差値を取れている」と主張しながら、どこにも実際に合格した話が出てこないのが全てを物語っている。本当にそのレベルの合格を手にした者なら、たとえば「開成に進学したが、灘の過去問と比べるとこうだった」といった、具体と実感の混じる話になる。偏差値という数値だけで語っている間は、結局その世界の門をくぐったことがない者の幻想でしかない。
確かに、読書の蓄積は無意味ではない。だがそれは、読書量と読解力が相関するという単純な話ではない。読みながらどう思考を耕したか、その読書体験を通して自分の内面にどんな問いを持てたか、そうした“読みの質”に転化されて初めて力になる。開成や灘の連中が圧倒的に強いのはそこだ。彼らは本を自分の頭で読む術を自然と獲得している。
「本が好きだからできる」という主張に酔っていられるうちは、残念ながら、どこにも届かない。話を総じて言えば、あなたの投稿は、中学受験の現実というより、理想をこじらせた親の自画像に過ぎない。外から眺めて勝手にラベリングし、結論を語るのはやめて、まずはその扉の内側にいる人間の言葉にきちんと耳を傾けるべきだ。外から見えるものと、内から感じるものとは、似て非なる。これは単なる言葉遣いの違いではなく、見ている世界そのものが違うということだ。
…あ、ついでに付け加えておくと、父も兄も理IIIです(残念ながら私は違いますが)。
こう言うと、また「家庭環境が特殊なだけでしょ」とでも言われそうだが、むしろ逆だ。あの世界で育つと、偏差値や合格実績を振りかざす物言いの薄っぺらさが、逆によく見えてくる。
実際、灘開成筑駒を一括りにして語る人ほど、そのどこにも本当に縁がなかったのだと直感的にわかる。偏差値で「水準」などと言い出す時点で、門前にすら立てていない。
そういえば、総入れ歯。
この際なので名乗っておくと、私は“自称”桜蔭で尚且つ、旧帝医卒の者です。この際だから、理IIIと言いたいところだけど、余裕で弾かれていると、自称すら躊躇するものだね。
もちろん“自称”のままでいい。それで目の色変えるような相手には、何を言っても通じはしないから。でも逆に、この“自称”に鼻で笑う余裕がある人なら、偏差値や読書冊数の呪縛からは、もうとっくに自由になっているはずです。
読解力とは、数字で飾った自己像を守る技術ではなく、自分を相対化する眼差しのことですから。
その視点が壊滅的に欠如している文章が。。。