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【1511147】比治山女子校の人間教育・国信玉三先生について教えて下さい

投稿者: ひじーちゃんのママ   (ID:aXwBymnxmUU) 投稿日時:2009年 11月 18日 23:54

娘を比治山女子中学校に通わせております。

その比治山女子校では,国信玉三先生という方のお名前をよくお聞きします。比治山女子校の芯とも言うべき人間教育を最初に生徒達に伝えられた方のようですが,私は残念ながら卒業生ではありませんので,詳しくは存じません。

もし,国信玉三先生のお人柄が分かれば,娘の通う比治山女子校の教育がより深く理解できるのではないかと考えました。

懐かしいエピソードでも,語り継がれたお話でも構いません。
ご存知の方がおられましたらお聞かせください。
よろしくお願いいたします。

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  1. 【1512417】 投稿者: 卒業生  (ID:H1nV0VvXIpA) 投稿日時:2009年 11月 19日 23:14

    私は比治山の卒業生です。
    比治山は母性というか母心をとても大切にしている学校で、私が在学中も国信先生のお話をよく聞きました。私が在学中は講堂訓話でお話されていました。母はとても大きな存在で、無償の愛で子供を包んでくれる。いずれ母になるであろう私たちもその母の愛に感謝して日々精進しましょうというような教えでした。
    比治山で過す中で、母と子の結びつきがとても大切なことだと感じ、私は幼児教育科に進学し、現在は保育士をしながら4人の子供たちを育てています。私の母は、57歳で他界しましたが、いまでも母には感謝の気持ちでいっぱいです。今は4人の子の母親として、忙しい日々を過ごしていますがいつまでも国信先生の教えは胸の中に残っています。とてもすばらしい教えだと思いますよ。

  2. 【1513776】 投稿者: ひじーちゃんのママ  (ID:aXwBymnxmUU) 投稿日時:2009年 11月 21日 00:00

    比治山の卒業生さま。

    早々のお返事をありがとうございました。

    三歳児神話(子どもは三歳までは,常時家庭において母親の手で育てないと,子どものその後の成長に悪影響を及ぼすという考え)の合理的な根拠は認められないと結論付けられている今の時代,『母の無償の愛』を伝えることは,なかなか難しいことだと思っていました。

    しかし,『今でも母には感謝の気持ちでいっぱいです。』と言うあなたの言葉は,なんともいえない暖かで優しい気持ちにさせてくれました。そしてあることに気がついたのです。

    悪影響を及ぼすからと考えているうちは『無償の愛』とは言わないということに。
    頭で子育てをするのでなく,我が子を愛おしいと思う気持ちが人を育てる,それが母の『無償の愛』ですね。

    明日の11/21(土)フジテレビ系列<探そう!ニッポン人の忘れもの>は,家族がテーマだそうです。国信先生の伝えられたかったことのヒントがみつかりそうで,今から楽しみです。

  3. 【2709018】 投稿者: 比治山出身者  (ID:QoWkoQY7uic) 投稿日時:2012年 10月 02日 14:17

    私が中学校に入学した時には、校長先生としてご健在で講堂訓話という週一度、講堂で全校生徒集合して、聞くお話に毎週お話してくださっていました
    国信先生のお話は、先生のお母さんのお話が中心で、私達もやがて妻になり母になる
    その時に賢い妻になり、賢く強い母になりなさいと言う内容のものだったと思います

    自分はお母さんを尊敬していたが、お母さんに一度だけ馬鹿と言ったことがある
    それは、お母さんが「玉三や、お前もしや人様のものを盗んだり、悪いことはしてまいな?」と聞いた時に「お母さん何を馬鹿なことを言うのです。玉三はお母さんの子です。そんなことをするわけがないじゃないですか」と、言われたそれを聞いてお母さんが安心をされたというお話でした。

    先生は貧しい家で育ったと言われており、それがためにお母さんが人様のものに手を出したりするんじゃないよと、心配されていたという内容だったと思います

    たら乳ねの母という言葉をよく遣われ、お母さんを通じて女性全般を尊敬され、それがゆえに素晴らしい女性を教育することを常に念頭に置かれていたように思っておりました

    私が高校生になった頃から、体調を悪くされたのか児玉 省三先生に校長の座を譲られ、学園町先生になられました。

    その数年後にお亡くなりになったように思いますが、それがいつだったのか正確なことは知りません

    まだ子供だった私には、講堂訓話は苦痛な時間でしたが、国信先生のお話は心に染み付いております

    それは口先だけのお話ではなく、心からのお話だったからだと思います

    国信先生は素晴らしい人ですよ。苦学をされ教鞭をとられ、やがて比治山学園を創設された方です

    国信橋という端がありますが、恐らく国信先生と関係があると思います

    正直・勤勉・清潔・和合・感謝の理念は卒業して30年たった今でも大事にしております

  4. 【6709663】 投稿者: 卒業生  (ID:LRa66Di4q36) 投稿日時:2022年 03月 14日 12:25

     在学当時は聞いたこともなく、ごく最近知ったのだが、国信玉三先生には原爆回避伝説がある。
    ------------------
     8月6日には間違いなく空襲があると第六感が働いた人がいたのだ。当時、比治山高等女学校の校長だった国信玉三先生だ。

     8月5日午後9時27分に空襲警報発令、11時55分解除。日付が変わって6日午前0時25分空襲警報発令、午前2時15分解除。

     国信校長は5日午後9時27分の空襲警報を聞くと学校に駆けつけ、一晩中警戒に当たった。

     その夜は星が一段と輝きを増したきれいな夜空だった。そして朝、風がやんだ。空襲をするには絶好の日よりだ。
     こうした関連から明日の空襲必至のカンが浮び、明朝7時半に建物疎開の現場に行かねばならぬ生徒と思い比べ一晩中ジレンマに悩んだという。

     広島市内では午前7時9分に警戒警報が発令された。比治山高女にはすでに、その日爆心地に近い鶴見橋付近の建物疎開作業に動員される1、2生約360人が集合していた。

     国信玉三校長は一か八かの賭けに出た。建物疎開作業に出るため学校に集合していた300人の生徒をそのまま学校に待機させたのだ。

     「防御設備もない危険な市内へ五千人もの生徒が集まることは犬死ではないか」
     警戒警報の場合は出動しなければならないという軍命令も、愛し子を思う同校長の決心の前にはホゴにひとしかった。生徒を教室に待機させたまま「出動時間の七時半は過ぎる……他の学校は皆作業しているのに比治山高女はどうしたのか」と叱責の問合せが来る……こうしたあわただしい経過のうちに時計は運命の8時15分のセコンドを刻んだ。
    (中国新聞「原爆から救われた女生徒たちー旧比治山高女の思いで明るみへー」1954.7.18 原爆遺跡保存運動懇談会『広島 爆心地 中島』新日本出版社2006所収)

     その日建物疎開作業に出た学校は40校。生徒を作業に行かせないという自分で自分の首を切るような賭けに出た先生は国信校長を含めて3人だけだったといわれる。

     爆心地から2.9km離れた比治山高女の校舎内で待機していた生徒から、死者は出なかった。

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