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【4392571】他力本願ってしまつ悪

投稿者: 儺   (ID:sSF.HEMk2Ag) 投稿日時:2017年 01月 10日 20:38

同胞を虐殺しながら逃げた李承晩と釜山で南鮮陥落を防いだ元日本軍将校と兵士達


昭和55年、金錫源(キム・ソクウォン)将軍は、靖国神社に参拝しています。

昭和25(1950)年6月25日午前4時、北緯38度線で北朝鮮軍の砲撃が開始された。
宣戦布告なんてありません。いきなり侵攻がはじまった。
開戦の30分後、11万人の大軍からなる北朝鮮軍が、38度線を越境します。
ちなみに北朝鮮は、現在に至るまでこの開戦を「韓国側が先制攻撃してきた」と主張しています。
けれどこの主張は、ソ連崩壊後のロシア政府でさえ、公式に否定している。

前線の韓国軍は、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていただけです。
どういうことかというと、韓国軍兵士の多くは、6月の田植えのために、ほとんどが田舎に帰っていたのです。
しかもソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴席があり、軍幹部が二日酔いで登庁すらしていなかった。

李承晩大統領への「北来襲」という報告すら、奇襲後6時間経過してから、やっと韓国政府に届いたという始末です。

手薄な前線の韓国軍には、対戦車装備すらありません。そこに北朝鮮軍は、ソ連から貸与されたT-34戦車の大部隊を中核に、次々押し寄せる。各所で韓国軍は総崩れとなります。そして潰走した。
金日成率いる北朝鮮は、初戦の猛攻で大勝利します。
気を良くした金日成は、一気呵成に李承晩を半島から追い落として、5回目の光復節はソウルで行うとまで宣言した。
北朝鮮軍の士気はおおいに盛り上がります。

開戦3日目の6月28日には、韓国の首都ソウルが陥落した。

住民に多くの犠牲を出しながら、韓国政府は、首都をソウル南方の水原に移した。

このときに有名な事件があります。

ソウル陥落の際、李承晩は多数の韓国軍兵士や一般市民が取り残されていたソウル市内の漢江にかかる橋を爆破したのです。

漢江にかかる橋を爆破すれば、北朝鮮のソ連製戦車部隊の侵攻を遅らせることができる。
それだけ南朝鮮政府は、逃げおおせることができる。

だから爆破したのだけれど、この爆破時、漢江の北側のソウルの街には、まだ多数の韓国軍兵士や一般市民が取り残されていたのです。

孤立した韓国軍兵士とソウル市民は、北朝鮮軍によって随所で虐殺された。

このとき、どのようなことが行われたかは、歴史の記録に残っていません。

ただひとついえるのは、圧倒的火力でソウルの街を征服した北朝鮮の兵士たちは、およそ人間ができる最悪の鬼畜非道を行った、

だからこそ記録すらされていないということは、容易に推定できることではないかと思います。

すくなくとも、北の兵士たちが、戦時捕虜となった韓国兵士や、婦女子を含む一般市民を手厚く保護したという記録は、まったくありません。


さて、水原に落ちのびた韓国政府と韓国軍です。
彼らが落ちのびたとき、軍は敗軍そのものだったといいます。
士気も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況となっていた。

そこにマッカーサーが、東京からやってきたという記録が残っています。

水原は、敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめいていた。
マッカーサーは米軍の派兵を韓国軍に約したけれど、その日のうちに東京に帰ってしまっています。

東京に帰ったマッカーサーは、米国政府に在日米軍2個師団を投入するように進言しました。

しかし戦争の再発をおそれたトルーマン大統領は、米軍参戦を許可しない。
それでも食い下がるマッカーサーに、トルーマンは、ようやく1個師団だけの派兵を許可します。

大統領の許可を得たマッカーサーは、日本に駐留していた第24師団の第21連隊第1大隊を基幹とする師団を水原市に派遣します。
部隊は水原南方の烏山の高地に陣取って北朝鮮軍を待ち受けた。

対する北朝鮮第4師団は、ソ連製T-34-85戦車やSU-76M自走砲などの車輌を先頭に烏山に迫ります。

このとき派遣された米第24師団は、大東亜戦争での経験を持たない、新たな徴用兵たちです。

旧日本軍との戦闘経験を持つ精鋭は、戦いに疲れ、すでに本国に帰還していたからです。

北朝鮮軍を視認した米軍は、バズーカなどで攻撃を加えます。

しかし相手は、ソ連の誇る新鋭T-34/85戦車です。
バズーカ砲ごとできは、まったく歯が立たない。

北朝鮮軍の戦車と歩兵は各所で戦線を突破し、米軍は総崩れとなって大敗してしまう。

マッカーサーは、米精鋭部隊の派遣を要請するけれど、戦争に倦んだ米国世論は、これを許しません。
トルーマン大統領は、できたばかりの国連安保理に諮り、第二次大戦戦勝国諸国での多国籍軍を編成し、これを朝鮮半島に送り込みます。

けれど、明確な指揮命令系統のない、混成の国連軍は、各所で敗退してしまう。

李承晩は、水原も捨て、南へ南へと、逃げました。

このとき敗走する李承晩は、自国を守れず潰走しながら、

武器を持たない一般市民を、韓国保導連盟員や共産党関係者だと決めつけ、一方的に20万人以上の韓国国民を虐殺しています。

武器を持った北朝鮮軍の前では、味方を見捨ててでもひたすら逃げ隠れした李承晩は、武器を持たない自国民に対しては、平気で虐殺の限りを尽くしたのです。

一方北朝鮮は、忠北清州や全羅北道金堤で、大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族などの民間人数十万人を「右翼活動の経歴がある」などと難癖をつけて大量に虐殺しました。

北の金日成、南の李承晩は、互いに武器を持たない一般市民を虐殺しあっていたのです。

そしてこの虐殺から逃れてボートピープルとなった朝鮮人たちが、大挙して日本に逃げてきたのです。


さて、朝鮮戦争の話を続けます。
李承晩は、ついに朝鮮半島南端の釜山まで追い詰められてしまいました。

釜山というのは、韓国の最も日本寄りの港町です。
いまでも日本から韓国への観光船の定期便は、福岡ー釜山間を運行している。
つまり、日本に一番近い韓国の都市が釜山、というわけです。

李承晩ひきいる韓国政府と韓国軍は、ついにそこまで追いつめられたのです。

釜山は、この時点で韓国にとっての最後の砦、韓国軍は釜山を取り巻くように防御線をひきます。

このとき、米軍を主力とする国連軍はすこしずつ増援されていました。

けれど国連の多国籍軍は動かない。


兵力の逐次投入という愚をさけるためと称して、彼らは兵力を釜山にとどめたまま、戦いに参戦しなかったのです。

タテマエは「戦略的に時間をかせぎつつ大兵力がたまるのを待つ」というのです。

けれど本音は、韓国軍が連戦連敗しているのに、なんで自分たちが命がけで北朝鮮と戦わなければならないのか、というものです。

このことは、私たち日本人も、よく肝に銘じておく必要があります。

日米安保だ、国連だと言っても、天は自ら助ける者を扶けるのです。

自分たちで戦おうとしないような弱虫に、誰が変わりに命がけで戦うものか、ということです。


朝鮮戦争で、韓国軍が釜山という南の果てまで追いつめられたのには、もうひとつの理由があります。

実は、韓国軍の兵士というのは、その多くが日本統治時代に、日本軍に在籍していた者たちだったのです。

けれど個人的怨恨から日本が嫌いな李承晩は、
日本軍によって薫陶を受けた元日本軍士官だった朝鮮人や、元日本軍兵士だった兵士たちを嫌い、
軍の主要な任務に就けなかっただけでなく、元日本軍兵士だった朝鮮人だけでの部隊の編制を厳禁していたのです。

どんなに訓練を受けた強い兵士や士官でも、上に立つ者がアホなら、戦果はあげられません。
なぜなら軍は上官の命令によって動くものだからです。

そして韓国軍は、ついに釜山まで追いつめられた。
このとき、韓国軍に金錫源(キム・ソクウォン)という人物が現われます。

彼は、漢城出身のコリアンです。
日本の陸軍幼年学校、陸軍士官学校を経て、満州事変やシナ事変で一個大隊を率いて中国軍を殲滅し、朝鮮人としては初、また生存している佐官クラスでは、異例の功三級金鵄勲章を天皇陛下から授与された経歴を持つ人物です。

金錫源は、軍事対策会議に出席すると、国連軍の総司令官がマッカーサーであることを哄笑します。

「日本軍を破った男が日本軍を指揮するのか。よろしい。日本軍が味方にまわればどれほどたのもしいか、存分にみせつけてやりましょう。」

彼はそういって軍刀の柄をたたいた。

李承晩にしても、釜山が陥落すれば、もはや朝鮮半島は完全に北朝鮮に支配され、己の命もなくなることは、この時点で十分承知しています。

そしてこの段階に至って、はじめて李承晩は、金錫源の言を入れ、元日本軍兵士たちだけでの師団を編成することを認めます。

金錫源は、元日本兵だけを集め、1個師団を編成する。

軍事経験に乏しく、十分な訓練を受けていない日本軍での訓練経験のない韓国人士官たちは、
敵が来ると、我先に逃げてしまうのです。

軍は指揮官によって動く。指揮官が敵が見えただけで逃げ出す軍では、どうにもならなかったのです。

それが釜山まで追いつめられた時、やっと念願の元日本軍士官に率いられた、元日本軍兵士たちによる部隊ができたのです。



金錫源は、一個師団を編成すると、全員の前で薫陶を行います。

このとき、演台の変わりに、近くにあった大きな壷に乗って、兵士たちに薫陶した。

金錫源将軍は、兵士たちに必勝の檄を飛ばしたのだけれど、そのとき力一杯足を踏み鳴らしたために、その壷のフタが割れ、足が壷に入ってしまった。

なんとその壷は、糞壷だったそうです。
平時であれば笑ってしまいそうな話ですが、そのときの金錫源将軍の迫力は、ものすごく、兵士たちはひとりとして笑うものなどいず、全員が必勝の意欲に燃えたといいます。

そして師団は、8月15日深夜、粛々と釜山東部の守備に向かう。
その途中、金錫源将軍は、師団の一部の兵士を夜陰にまぎれてどこかへ逃がします。

なぜ逃がしたのか、この時点では誰も知りません。

師団の移動の様子は、北朝鮮側から丸見えです。
なんのことはない。裸同然で、銃器程度の武器しかない一個師団です。
ソ連製戦車の前では、赤子同然の兵力でしなかい。

金錫源将軍の師団が釜山東部で配置に付いた時、北朝鮮軍は、戦車を先頭にした大軍で、これを包囲します。
集中放火によって、完全に金錫源将軍の師団を殲滅する作戦です。

この包囲によって、金錫源の師団は完全に孤立してしまう。

そして双方の戦いが始まった。

金錫源は、飛び交う銃弾の中で、日本刀を振りかざして陣頭に立ちます。

そして敵軍を睥睨し、撃て~!と叫ぶ。
その姿は、これこそがほんとうの軍人の姿だ、と兵の士気を著しく高めたといいます。

金錫源たちが奮戦している間、米軍は動きません。


多国籍軍も、釜山にあってひたすら沈黙を守っています。つまり、金錫源率いる師団に援軍はないのです。

「孤軍」の状態で、金錫源たち旧日本兵師団は戦い続けた。

金錫源は、頃あいをみて、兵力を敵右翼に集中すると、北朝鮮軍に一斉砲撃をしかけます。
そして、にわかに突撃を命じます。

相手は命知らずの旧日本軍韓国兵です。北朝鮮軍はあわてて後退した。

敵殲滅の好機到来です。
金錫源の士気はいやがおうにもあがった。

ところがこのとき、なぜか金錫源は、全軍に退却を命じます。

深夜です。日付はすでに16日になっている。

北朝鮮軍は、韓国軍が退却し始めたのを見ると、反撃に転じ、金錫源軍をいっきに殲滅させようと迫ってきます。

金錫源将軍の師団は、岬を回って潰走します。

とにかく逃げる、逃げる。
北朝鮮側は、まさに好機到来と、金錫源将軍の師団を追います。

全軍一丸となっての猛烈な追撃です。
北の戦車部隊も、一気に追い、責め立てる。

そして北の戦車隊が岬を回り込んだときです。そこにこつ然と、米軍の大艦隊が出現したのです。

ソ連製の戦車は、装甲が厚く、銃や迫撃砲、バズーカ砲などではまるで歯がたちません。
けれど戦艦から繰り出される対戦艦用の大型砲門相手ではどうでしょう。

戦車の巨体よりもさらに大きい、米艦隊の砲弾が、雨あられと北の戦車部隊に降り注いだのです。

これには北の自慢の戦車部隊も一網打尽です。

実は、前夜、金錫源将軍の師団が移動中、一部の兵士に命じ、作戦の詳細を米艦隊に連絡させてあったのです。

師団がおとりになり、北朝鮮軍が進路を東に転じて海岸線にでたところに、米艦艇から一斉に艦砲射撃をあびせるようにと、です。

それまでの弱腰だった韓国軍に、最初は半信半疑だった米海軍も、

金錫源将軍が元日本陸軍の左官であり、勲章ももらっている人物であると聞き、それならもしや、と艦隊を待機させてくれていたのです。

要するに日本の信用で、米艦隊が動いた。


天地がくつがえるかと思われるような轟音がひびき、無数の砲弾が北朝鮮軍第五師団のうえに降りそそぎます。米国誇る太平洋艦隊の主砲です。T型戦車などひとたまりもない。

それを待っていた金錫源の第三師団は隊列を変化させ、北朝鮮軍を包囲して砲撃を開始します。

艦砲、迫撃砲、榴弾砲などあらゆる種類の砲弾が火を噴いた。

北朝鮮の戦車は粉砕され、兵は空中に飛ばされ、隊列を乱して逃げる北朝鮮兵士は、金錫源将軍の師団の銃撃の恰好の餌食となった。

追って来た北朝鮮軍は、一瞬で壊滅し、兵士たちがバラバラになって敗走をはじめます。

ところがその潰走ルートには、金錫源が、やはりこれも前夜のうちに金錫源将軍があらかじめ忍ばせた伏兵が待ち受けます。

伏兵たちは、潰走する北朝鮮兵に猛射をあびせた。

「草木皆ナ兵ト化ス」

恐慌状態におちいった北朝鮮軍は、軍隊組織として統制のとれた行動をすることが不可能となってしまいます。

北朝鮮軍は予想外の損害をうけ、いったん盈徳を放棄して西北にさがり再編を余儀なくされてしまいます。
それだけでなく、友軍との連携すらとれなくなり、各部隊の孤立化がはじまった。

8月22日、金錫源たちが戦った釜山の反対側の西側では、遊鶴山のふもとを守っていた韓国軍一個大隊が、北朝鮮軍の攻撃に耐えかねて後退を開始ます。ここにも元日本兵が数多くいた。

このままでは米軍第27連隊の側面が敵にさらされてしまいます。韓国も、米軍も、戦線の崩壊はまぬかれません。


そこに、白善(ペク・ソンヨプ)師団長が駆けつけます。



そして散らばっていた元日本兵だけを集合させて座らせた。

白善- 白善燁も日本軍の出身です。

昭和14(1939)年平壌師範学校を卒業したのち、奉天の満州軍官学校に入学、昭和16(1941)年に卒業して満州国軍に任官し、昭和18(1943)年には間島特設隊に配属され戦った経歴を持ちます。

実はこの日、白善師団長はマラリアを患って高熱を発し、病院にいたのです。

けれど釜山西側の危機を知った白師団長は、集まった西側守備隊の兵士たちに「二日間,補給もないのによくがんばってくれた。感謝の言葉もない」

とねぎらいの言葉をかけると、

「ここが破れればわれわれには死が待っている。それに見ろ。アメリカ人もわれわれを信じて戦いに来ている。かれらを見捨てることができるか」

と静かに語った。

そして突然立ち上がると、大声で兵士たちに言った。


「ただいまより、あの四八八高地を奪回する! ワレに続け! もし俺が臆病風にふかれたら後ろから撃て!」

そうさけぶと、銃をとり、先頭にたって突撃を敢行したのです。

兵たちは驚きます。

いきなり前線に、マラリアで入院中の師団長が現れたかと思ったら、鬼気がのりうつったかのように咆え、駆けだしたのです。

「師団長に続け~~!」

鬼人と化した元日本軍の韓国兵は、わずか一時間で四八八高地を奪還してしまいます。

そしてそこから谷底の北朝鮮軍にむかって猛烈な砲火をあびせた。
そしてここでも北朝鮮軍は完全に潰走してしまいます。

前線の北朝鮮軍が無力化されたことで、米軍はその退路を断つ作戦を発動します。
そして仁川に上陸すると、南進していた北朝鮮軍の補給路を完全に断ち、9月28日には、ソウル奪回を果たした。

勢いを得た米韓多国籍軍による南軍は、反攻に転じ、10月1日にはそのまま38度線を突破、10月20日には、北朝鮮の臨時首都の平壌までも制圧します。

北朝鮮が完全に壊滅とみられたとき、中国共産党義援兵が北朝鮮に味方して参戦します。
100万人以上の大兵力です。

   兵は国民党軍の捕虜たちです。八路軍/人民解放軍ではない。

米韓多国籍軍は、シナの人海戦術に、平壌を放棄し38度線近くまで潰走した。

しかしシナの大軍の装備は、ソ連から補給された日本軍の残存兵器です。

それ以上の装備はない。旧式兵器に頼るシナの援軍は、度重なる戦闘ですぐさま消耗し攻撃が鈍ってしまいます。

米韓多国籍軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し、翌年3月14日にソウルを再奪回。
しかし、戦況は38度線付近で膠着状態となった。

そして最終的に38度線を休戦ラインとして、現在にいたっています。

以上が朝鮮戦争の概略です。

上に登場した金錫源将軍は、朝鮮動乱で韓国軍が雪崩を打って敗走を重ねた時、軍刀(日本刀)を振りかざし、
「攻勢こそは最大の防御」
「死をもって戦うときにのみ勝機は訪れる」と部下を叱咤激励したといいます。

韓国軍が釜山で辛うじて全軍の崩壊を免れ踏みとどまったのは、かつての大東亜戦争の英雄が「ここにあり」と奮戦する姿に鼓舞されたからだともいいます。

金将軍は多くの将校が近代戦には邪魔になるといって軍刀をはずす中にあって

「日本刀は武人の魂である」と、ひとり軍刀(日本刀)を手放さない人でもあった。


昭和55年、金錫源将軍は、靖国神社に参拝しています。

靖国には、フィリピンのルソン島各地を中隊長として転戦し、アレプンヨ高地で壮烈な戦死を遂げた彼の次男、金泳秀が祀られている。

金錫源将軍は、参拝後、一緒に参拝した元日本陸軍の兵士たちにこう語ったといいます。

「自分の息子は戦死した。
それは軍人として本望である。
本人も満足しているであろう。」

息子を犠牲者として日本を恨むような卑怯な姿は、金錫源将軍には、微塵もなかったのです。

逆に、並いる旧日本軍将兵らが、金錫源将軍に「軍人精神の神髄」を見たと感嘆した。

ご存知の通り、朝鮮半島は北と南に、いまも分断されています。
日本統治時代までは、朝鮮半島はひとつだったのです。
それがいまでは、親戚であっても行き来ができない。厚い鉄のカーテンによって北と南は38度線によって分断されているからです。

逃げ出しただけでなく、あたりにいる韓国市民が、みんな共産ゲリラに見えた李承晩は、行く先々で同国人を片端から虐殺しています。

自国民を殺しながら逃げる李承晩、追う北朝鮮軍。

南朝鮮も、ちゃんと戦えば、もしかしたら早期に北を駆逐できたかもしれない。
それを阻害したのは、やはり李承晩です。

日本嫌いな彼は、元日本軍関係者だというだけで、疑いを持ち、元日本軍士官だった者たちを重用せず、指揮はいつの時点でも、日本軍と関係なかった者だけを用いた。
その結果は、常に南朝鮮の完敗です。

それだけでなく、米軍にも多大な損害を与えてしまっている。

そしてついに韓国最南端の釜山まで追いつめられたとき、李承晩はやっと元日本軍士官と、元日本軍兵士に軍の指揮を委ねた。

その結果、なんと最南端の釜山まで追いつめられていた南朝鮮は、逆に北のはずれの平壌まで、北を追いつめることになったのです。

毛沢東率いる百万の支那人民解放軍の参戦を得た北は、戦線を38度線までようやく盛り返したけれど、そこで停戦に応じたのは、韓国にいた元日本軍兵士たちがあまりに強かったからに他なりません。

けれど、大韓民国を建国し、初代大統領に就任した李承晩は、それでも日本が嫌いで、日本との国境線を勝手に定めた(李承晩ライン)りもしています。

そして韓国建国の理念は、なんと「日本によって奪われた朝鮮半島を、朝鮮民族の手に取り戻した」というものとなっている。
つまり、日本=悪であり、自分たちは両班が取り仕切っていた平和で豊かな朝鮮半島を取り返した英雄であるという仮説に立った国つくりをしました。

なるほど李氏朝鮮の時代、朝鮮貴族の両班たちにとっては、まさに半島は天国だったかもしれません。

なにせ一般国民には私有財産すら認めず、女性には名も与えず、両方の乳をすぐに露出させれる服を着ることを強制し、女は犯し放題、財産やカネも奪い放題の特権階級を作っていたのですから。

けれど両班にとって天国だったという朝鮮半島は、他の99%以上の国民にとっては、地獄そのものの国でしかなかった。

李承晩は、朝鮮戦争で敗退を続けるときに、同国人を何十万人と殺しています。

そういう、手前勝手なご都合主義の人物が、韓国建国の主となり、韓国という国家の基礎を築いた。

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  1. 【4392581】 投稿者: 亡命  (ID:sSF.HEMk2Ag) 投稿日時:2017年 01月 10日 20:45

    http://www.focus-asia.com/socioeconomy/photonews/421671/




    韓国メディア・ポリニュースなどによると、1950年の朝鮮戦争勃発直後に韓国の李承晩政府が、日本に6万人が亡命して山口県に亡命政権を樹立したいと打診していた事実が報道され、韓国で注目を集めている。

    李承晩政府は朝鮮戦争の勃発(6月25日)の2日後、日本の外務省に「6万人規模の亡命政権を山口県に樹立したい」と打診した。これに対し、当時の田中龍夫・山口県知事は「日本の住民も配給が不足している状況」と難色を示しつつ、韓国人5万人を収容する「緊急措置計画書」を作成した。

    計画によると、山口県阿武郡など4地域に20か所の避難キャンプを設置し、臨時兵舎1棟に200人ずつ、計250棟の兵舎を建設して5万人を収容する予定だった。計画書は米軍に提出され、田中知事は予算支援も要請していた。ただ、釜山が陥落を免れたことで亡命計画は実行されなかった。

    この李承晩政権の亡命要請は、日本では知られていたが、韓国ではこれまで“日本亡命政府要請説”としてウワサ扱いをされていたという。今回は、韓国メディア・KBSが山口県の図書館で計画書を“発見”し、“亡命要請説”を裏付ける日本側の文書が「初めて確認された」と24日に報じた。



    亡命断られ
    腹いせに
    竹島の漁民を拉致

  2. 【4392592】 投稿者: アチソンラインの再来は?  (ID:sSF.HEMk2Ag) 投稿日時:2017年 01月 10日 20:49

    1948年8月13日、ソウルで李承晩が大韓民国の成立を宣言。
    金日成はこれに対抗し9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させました。
    1948年8月18日李承晩は記者会見で「対馬は350年前に日本に奪取された韓国の領土」と主張 しました。
    1950年1月、李承晩は朝鮮半島南部での大演習を装って日本の対馬を含む九州北部への侵攻計画を実行に移したのです。
    日本侵攻計画を知ったマッカーサーは李承晩政権に警告します。
    「もし韓国が、国連軍による占領統治中の地域に軍事進駐するなら在韓米軍は朝鮮半島から引き揚げる。」と
    李承晩政権は警告を無視し韓国軍の主力を朝鮮半島南部に大移動を始めていきます。
    1950年1月12日、アメリカのトルーマン政権のディーン・アチソン国務長官が、「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任を持たない」と声明を発表しました。(=アチソンライン)
    金日成は「アメリカによる西側陣営の南半部(韓国)放棄」と勘違いをし行動に出ます。
    金日成1950年3月にまずソ連を訪問します。
    開戦許可を求めた金日成と朴憲永(=のちに粛清される)に対し、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認しました。韓国を共産化させるため1950年6月25日未明4時に38戦全域にわたり奇襲侵略を強行しました。
    1950年7月8日(朝鮮戦争開戦の2週間後)、マッカーサーは吉田茂首相へ書簡を送り、警察に予備隊7万5千人と、海上保安庁に8千人の増員を許可します。マッカーサーの意向によって警察予備隊(のちの自衛隊)が設立されたのです。
    1951年8月10日ラスク書簡の文書によって
    韓国政府が「「独島(竹島の韓国名)を韓国領に加えてほしい」と要求したことに対し、米国政府が断固拒否を通知しました。
    1952年1月,李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」を行い「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定されてしまうのです。
    そして日本の悲劇が起きます。1953年9月に第28海鳳丸の船長が拿捕され投獄されるのでした。

  3. 【4392609】 投稿者: 交換条件  (ID:wUs2vv8tU9M) 投稿日時:2017年 01月 10日 20:59

    http://www.news-postseven.com/archives/20120827_139345.html



    領土を守る行為とは、その土地に日の丸を掲げ、「ここは日本領だ」と叫ぶことだけではない。むしろ、名もなき市井の人々がその土地に築いてきた生活の営みこそ、「日本領土」たる揺るぎなき根拠である。ここでは竹島をめぐるエピソードを紹介しよう。

     韓国が竹島を不法占拠して以降、韓国側は竹島近海で操業する日本漁船に対して、銃撃や拿捕を繰り返すようになった。日韓漁業協議会の調べでは、1965年に日韓基本条約と漁業協定が締結されるまでに、拿捕された日本の漁船は328隻、抑留された船員は3929人、死傷者は44人に上った。

     1953年9月に拿捕された第28海鳳丸の久保田伴良・船長は帰国後、国会の小委員会で壮絶な投獄体験を証言している。

     済州島周辺を航行中、韓国海軍の巡航艇に大砲2発を発砲され拿捕された海鳳丸だったが、船長は小銃を突きつけられた状態で軍幹部に反論し、警察尋問では拳銃で脅されながら自分の証言と調書の違いを主張するなど、抵抗を示した。彼は2か月以上勾留された留置場の様子をこう述べた。

    「留置場は1部屋4畳半くらいで多いときは1部屋10人もおり、超満員になって寝ることもできなかった。食事は丸麦1合くらいを1日2食、おかずは大根の葉っぱの塩漬を毎日毎日73日間も食わされた」

     裁判で罰金刑を受けた船長は、「今後は国際裁判で正当な解決をしてもらうことにして一同涙をのんで翌日判決を承認して」帰国した。

     船長は国会で、「この事件について考えさせられますことは、我々第一線に働いている漁船船員に対してまだ政府は何ら安心して働けるような保護対策のないことであります」と訴えている。







    この時、李承晩と約束したのは不法移民(逃げてきた在日朝鮮人)を日本で面倒みることが鳥取の漁民の命との交換条件だった。

  4. 【4392630】 投稿者: 猜疑心  (ID:sSF.HEMk2Ag) 投稿日時:2017年 01月 10日 21:06

    非道で不徳な条約も日本は守り続けている。慰安婦像は撤廃されない今、不法難民又は移民を永住させなければならない義務があるのだろうか

  5. 【4392640】 投稿者: 予言  (ID:sSF.HEMk2Ag) 投稿日時:2017年 01月 10日 21:11

    親愛なる閣下



    連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥閣下


    日本の戦後の諸問題のうち朝鮮人と台湾人に関するものがありますが、
    彼らはかつて日本国民であり、現在もこの国に依然として滞在しているものです。


    ここでは台湾人については、彼らが比較的少数であり、
    それほど問題を起こしておりませんので、しばし触れないことに致します。

    しかし、総数約一〇〇万人、
    そのほぼ半数は不法入国者であるところの在日朝鮮人の問題について、
    われわれはいま早期の解決を迫られております。

    私はこれら朝鮮人がすべて、彼らの生国の半島に送り返されることを欲するものです。
    その理由は以下のとおりです


    1.日本の食糧事情は、現在もまた将来においても、余分な人々を維持することを許しません。
    アメリカの厚意によって、
    われわれは大量の食料を輸入していますが、その一部は在日朝鮮人を食べさせるために用いられています。
    これらの輸入は、将来何世代にもわたって我が民族の負債となることでありましょう。

    もちろん、われわれはそのすべてを返済する覚悟を固めておりますが、
    この対米負債のうち朝鮮人のために生じた分まで、将来の世代に負わしむるのは、
    公正なこととは思えません。





    2.これら朝鮮人の大多数は、日本の経済の債権に貢献しておりません。




    3.もっと悪いことには、これら朝鮮人は犯罪を犯す割合がかなり高いのです。
    彼らは我が国の経済法規を破る常習犯です。

    かなりの数が、共産主義者かその同調者であり、最も悪質な政治的犯罪を犯しがちなのです。
    投獄されているものは、既に七〇〇〇人を超えています。

    戦後今日まで裁判に付せられた、朝鮮人による刑事事件は以下のとおりです。




    年次 事件数 朝鮮人関係者数

    1945(8月15以降) 5334件 8355人
    1946 15579件 22969人
    1947 32178件 37778人
    1978(5月末現在) 17968件 22133人
    合計 71059件 91235人

    さて朝鮮人の送還計画としてわたしが考えるのは次のようなものです。




    1..原則として、朝鮮人は全て送還され、その費用は日本国政府の負担とする。
    2.日本に在住を希望するものは、日本政府に許可を申請すべきものとする。
    在住許可は、日本経済の再建に貢献しうると見なされたものに与えられる。



    以上述べました私の考えが、期間によって原則的に承認を得られた場合は、
    送還に伴う予算その他の具体的措置について、改めて案を提出いたします。


    敬具 吉田茂

    吉田茂=マッカーサー往復書簡集

    袖井林次郎 編訳
    講談社学術文庫

  6. 【4416944】 投稿者: 諸国民とは米英のみ  (ID:cYaNCEzMPk6) 投稿日時:2017年 01月 27日 11:08

    1853年にペリーが来航する以前から日本の沿岸にはたびたび外国船が訪れ、幕府はそのたびに問題の先延ばしをしていました。しかし、幕府は手をこまねいていたわけではなく1845年に海防掛(のちの外国奉行)を設置するなどして対応に当たっていました。

    1861年の時代は桜田門外の変によって井伊直弼が暗殺され幕府の威信は揺らぎました。そんな中、倒れかけた幕府を立て直すために老中・安藤信正はひとり気を吐きます。日普修好通商条約の締結に際して外国奉行の堀が安藤の逆鱗に触れ切腹したのち、小栗はその後任として外国奉行に就任します。

    そん幕府に立て続けに起こった事件が薩摩(現在の鹿児島県)藩士によるアメリカ公使の書記官ヒュースケンの殺害事件と対馬占拠事件でした。ヒュースケン殺害事件はアメリカのみならず各国から非難が巻き起こり各国の公使館が江戸から引き揚げました。幕府はこの件を解決するために銀貨1万ドルを遺族に支払いました。薩摩藩はこの件を黙殺し、何の反省もなくのちに生麦事件を引き起こして再び幕府に尻拭いをさせたのは周知の事実です。

    対馬占拠事件は1861年2月3日に、ロシアの軍艦ポサドニック号が突如対馬の西海岸に停泊し、乗務員を上陸させ対馬の領主・宗義和に面会を強要しました。対馬藩は10万石の外様大名で、とてもロシアの軍艦を追い払える能力は有していませんでした。ロシアとの領土問題は、安政元年(1854年)の日露和親条約によって決着していましたので、幕府にとっては寝耳に水でしたが、対馬はかつてはイギリスが対馬の租借権を要求し、強引に対馬の沿岸の測量を行ったこともあり、このときロシアはもしもイギリスが実力で対馬を占拠した場合、日本と協力してイギリスを撃退したいと申し出たことがありました。

    幕府はあわてて外国奉行の小栗を対馬に送ります。4月23日に品川を出た小栗が5月10日に対馬に到着したとき、すでに艦長のピリレフは対馬に兵舎の建築などを始めており、対馬の地元住民との間で一触即発のムードが漂い始めていました。しかも、対馬の家老が、勝手に藩主との面会を約束していました。

    小栗とピリレフとの会談は再三にわたって行われ、ピリレフは家老との約束を盾に藩主との面会を要求します。このことを急ぎ江戸に伝え老中に指示を仰ぎますが、返答はノーでした。小栗は、ピリレフの立場も考慮し、「責任は対馬藩主との面会を実現できなかった自分にあるのだから、この小栗を討つことによってあなたの責任と立場を守るがよい」と言ったとされます。さすがのピリレフもその小栗の姿勢に対して敬意を抱き、さすがに小栗を討って事を運ぶわけにはいかないと藩主との面会は断念することで対馬会談は終了しました。

    5月19日に小栗が対馬をたって江戸にもどりましたがロシアの軍艦はまだ対馬に居座ったままです。帰途の途中、小栗はこの事件の解決方法と日本という国が抱える重要な問題に対して思いを巡らせていました。江戸に帰った小栗は次のような報告を幕府に提出します。ロシアの軍艦を追い払う能力が対馬にない以上、ロシア領事を通じてロシア本国に外交ルートで抗議をおこなうよりない。それでも解決しない場合、国際世論に訴えて、国際正義の立場からこれを解決してもらうよりない。そして、今後このような事態になった場合、日本が軍事力によってこれを排除できるように一刻も早く軍事力の整備を行うよりない。

    そして、今後も幕府を通さず藩主と直接交渉しようとする事態が起こらないとも限らない。対馬は幕府の直轄領とすると同時に、外国に対する幕府と藩の権限を明確にしておかなければならない。しかし、対馬の直轄領化は見送られ、小栗は外国奉行の任を辞します。老中は外国奉行として函館に行きロシアとの交渉を行うように命じますが、函館奉行で小栗も信頼していた村垣淡路守の面目を潰すことになると考えた小栗は、村垣に全て任せるように幕府の要人に伝えると、自分の屋敷へとこもってしまいました。

    そんなとき、安藤信正に一計を用意したのが勝麟太郎でした。安藤はその策を受け、表では函館奉行とロシア公使の交渉を続けながら、裏ではイギリス公使を呼び、対馬におけるロシアの状況を伝えました。かつて、対馬を租借しようとした経緯のあったイギリスは直ちに行動を移し、7月20日には軍艦2隻を対馬に送り込みます。そこには幕府の役人や通訳も同乗していました。イギリスはロシアに厳重に抗議し、ピリレフもまた、ここでイギリスの軍艦と事を構えるわけにはいかないとやむなく退去しました。

    のちに、勝は『氷川清話』の中で「彼をもって彼を制す」と胸を張ります。しかし、イギリス公使オールコックが本国に送った報告書を勝が読んでいたなら勝も青ざめたでしょう。そこには、イギリスが機会さえあれば対馬を武力で制圧し拠点としようとしていた事実が記されていました。そして、今回の事件はその絶好の機会だったことも記されていました。同様のことも、当時の日本領事の日本滞在録にも記されています。綱渡りにも似た危ういバランスの中で、この一件がかろうじて成功したにすぎませんでした。

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