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投稿者: ヘンゼルとGLAYのテル (ID:4WSwbggRx/U) 投稿日時:2025年 01月 19日 17:14
以前、この板に
グレイヘアが流行ってる?嘘でしょ!
投稿者: 絶対老けて見えるよ!(ID:/Ct5n8eaqxM)
投稿日時: 2017年 10月 26日 23:00
今朝のNHKでやってたの、見ました?
白髪染めを止める人が増えていて、それが素敵だとか何とか、、、、。
でも、絶対老けて見えるよ。45歳?嘘でしょ。60歳かと思ったよ。パリジェンヌの真似かなんか知らんけど日本人には無理!
っていうスレッドが立っていましたが、私は逆ですね。
髪染めに拘っているのって、髪染め以外のアンチエイジングの施しようが無くなってしまった方じゃないかと。
私はまだ白髪は無いですが、芸能人の方の美しいグレーヘアを見ると将来はあんな風に歳を重ねたいなと思います。
まず思いつくのは、近藤サトさん(56歳)、小雪さんのお姉さんでモデルの弥生さん49歳)、相楽晴子さん (56歳)、中尾ミエさん (78歳)、草笛光子さん (91歳)。
男性で言うなら、吉川晃司さん、岩城滉一さん、舘ひろしさん、高田純二さん、松茂豊さん、玉置浩二さん、陣内孝則さん、北大路欣也さん。
元が美しいだけじゃんって、草笛さんは絶世の美女と言う程でもないですし、中尾ミエさんも個性的?笑 な顔をされていますから、美人だから見れる、美しいじゃないと思うんですよね。
そうそう、金美齢さんもいたわと思い調べると90歳!見た目もそうですけど、頭脳も若いですよね。
他にも最近、雑誌の表紙で見かけた、竹下景子さん(71歳)、結城アンナさん(69歳)も素敵!
>白髪ケアしていない頭だと、見た目間違いなく見苦しい老婆です。
コレ、全然違うと思いますよ。むしろ髪染めしているのに全然若くなく、黒髪が浮いて見える人が目立つと思っています。
上記の美しいグレーヘアの方々に共通して感じるのは、彼らの髪の色やスタイル以上に「生き方」そのものが外見に表れているということです。彼女たちが白髪を隠さず自然体でいることで、むしろ自信や品格が際立っているという点です。
白髪の有無や髪型が彼女たちを美しくしているのではなく、それをどう受け入れ、どう生きているかが外見に投影されているのです。
運動やケアは確かに大切かもしれませんが、それだけでは「若々しさ」や「美しさ」を形作ることはできません。日々をどう生きているのか、何を大切にしているのか、どのような価値観を持っているのかといった内面が、立ち居振る舞いや表情、言葉遣いに滲み出るものです。それが結果として他人に与える「印象」や「オーラ」を決定づけるのではないでしょうか。
例えば、同じ白髪でも、「隠さなければ恥ずかしい」と思っている人と、「これが自分の一部」と受け入れ堂々としている人では、その佇まいが全く異なります。
後者の方が、自然と他者を惹きつける魅力を放つのは明らかです。運動不足や外見の変化を嘆くのではなく、年齢を重ねる中で何を学び、何を誇りに思い、どのような未来を見据えているのか。その姿勢が、外見に刻まれる「豊かさ」を形作るのではないでしょうか。
結局のところ、美しさを左右するのは白髪の色や体型そのものではなく、その人が自分自身をどう受け入れ、どう輝かせているか。それこそが、年齢を重ねるほどに大切になっていくのだと思います。
確かにそういうグレイヘア美人が染めたらもっと若く見えるでしょうが、そんな偽りの若見え、美魔女というまやかしに囚われない生き方そのものが美しいのだと思います。
皆さんの思う、美しいグレイヘアの芸能人、誰ですか?
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【7607061】 投稿者: 美しいかどうかより (ID:rD1pTG9Wkts) 投稿日時:2025年 01月 19日 17:55
確実に老けて見えておばあちゃんに見えます。
下手すると、実年齢より20歳以上老けて見えます。
それを本人が受け入れるかどうかだけなのでは?
老けて見えるかどうかだけで、きちんと手入れされている髪は綺麗です。
白髪が当たり前の年齢になって納得したら、草笛光子さんのような上品なおばあちゃんになりたいなぁと思っています。 -
【7607075】 投稿者: あれまあ (ID:kOykwZNPZR2) 投稿日時:2025年 01月 19日 18:05
各々が好きにすればええやん
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【7607309】 投稿者: そ・ゆの (ID:WiX/FcfXEpU) 投稿日時:2025年 01月 19日 22:29
いらんから。
それ言ったら、掲示板の存在いらんやん。
まあ の存在価値より掲示板の存在価値は高いよ。残念ながら。 -
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【7607430】 投稿者: 思いつくのは (ID:rMRbPfRzm1g) 投稿日時:2025年 01月 20日 02:07
役作りだとは思いますが、『海に眠るダイヤモンド』の宮本信子さんの自然体なグレイヘアも素敵でした。言動がテキパキしているから、出来る品が良いおばあちゃんのイメージになっていました。
中尾エミさんも、言動がカッコいいからグレイヘアでもとても素敵です。
男性ですと、岩城滉一さんにそっくりな神田正輝さん。元石原プロって白髪にしなきゃいけない決まりでもあるのでしょうか。
大昔、記者の筑紫哲也さんがグレイヘアになったとたんに人気が出でモテ気が来た感があって。昭和時代はグレイヘアになった後の方が人気が出た人がいたような。令和はみなさん染めてますね、お笑い芸人は特に。お笑い芸人で染めないのは堺正章さんぐらいしか思いつかないわ。 -
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【7607479】 投稿者: え (ID:jwnBmMlCctI) 投稿日時:2025年 01月 20日 07:20
マチャアキは歌手でしょ。
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【7607920】 投稿者: 白髪は老けて見える (ID:OxXQ9nhmNGk) 投稿日時:2025年 01月 20日 19:35
素敵かどうかはさておき、白髪は確実に老けて見えます。
近藤サトさん、この前カズレーザーさんの番組に出演されてましたが、ずいぶんおばあさんになられたと思いました。
まだ56歳であれはないなと…。
和服だったのと、もともと綺麗な方なので上品でしたが、もったいないなぁと思いました。
近藤さんであれですがら、一般人は難しいでしょうね。
80歳近くになったら白髪の方が自然だし、草笛光子さんのように素敵なおばあさんは多いのかもしれませんが、5.60代はまだ早い気がします。 -
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【7608066】 投稿者: 悠久モバイル (ID:9GrtceS59yU) 投稿日時:2025年 01月 20日 23:31
違いますね。若く見える、老けて見えるなんていう枝葉末節に拘っていないのですよ。本当に問うべきは、美とは何かという根本的な問いではないでしょうか。
美しさは、若さや外見の整いだけに宿るものではありません。それを考えるとき、ある詩が思い浮かびます――童謡「月の砂漠」です。この歌は、日本人の多くが知る名曲であり、その幻想的な世界観と美しいメロディで世代を超えて愛されてきました。詩に描かれる砂漠を旅する王子と姫、金と銀の甕を運ぶ二頭のラクダの姿は、誰の心にも広がる一つの物語を作り出します。
ところが、実際にこの歌の背景を調べると、意外な事実が浮かび上がります。作詞を手がけた加藤まさを氏は、砂漠を訪れたこともなければ、詩の中の情景も現実のものとは大きく異なっていました。砂漠には甕ではなく革袋が用いられる、湿度の低い砂漠には朧月は見えにくい――このような指摘もあります。しかし、これらの現実的な矛盾が、この詩の美しさを損なうでしょうか?むしろ、そこにこそ重要な意味があるのです。この詩は、事実の正確さを求めるものではなく、心象風景としての美しさを描いた作品だからこそ、多くの人に深い感動を与えているのです。
同じことが、美そのものにも言えるのではないでしょうか。外見的な若さや整った容姿だけを基準にすることは、目に見えるものに囚われた非常に浅い評価です。本当に大切なのは、その人がどんな生き方を選び、それをどう表現するかというところにあります。たとえば白髪を選んだ近藤サトさんの姿は、若さに抗うのではなく、自分の歳月を受け入れ、自然体でいるという美しさを示しているように感じられます。それは見る人に、静かな感動や尊敬を呼び起こすものです。
このことを考えるとき、もう一つ思い出すのは、千利休が愛したとされる「柴の庵」という名の茶器です。一見すると、古びた手桶であり、ヒビが入り水漏れしそうな器。それは素人目には、壊れかけの役に立たないものに見えるかもしれません。しかし、この水指は茶室に置かれると、侘び寂びの精神を体現する道具として輝きを放ちます。完璧でないからこそ、そこに深い味わいが生まれる――それが利休たち茶人に愛された理由です。
茶室では名器として尊ばれる「柴の庵」も、茶会が終わればただの手桶として戻っていく。この曖昧さや移ろいが侘び寂びの本質であり、利休はそれを「柴の庵」と名付けることで詩的に表現しました。「ひきよせて結べば柴の庵にて、解くればもとの野原なりけり」という慈円の歌を借りて、完璧でないものが時と場によって完璧になる瞬間を象徴したのです。
若さや外見の完璧さにこだわる風潮は、こうした曖昧さを許容しない時代の表れかもしれません。しかし、美しさの本質はそんなところにはないはずです。人が本来の自分を受け入れ、それを生きること。白髪であっても、それを堂々と選んでいる人は、その自然体の中に深い魅力を宿します。それは、月の砂漠が現実の矛盾を超えた幻想の美を生み出すように、あるいは「柴の庵」がその場に応じて風情を変えるように、外見や若さを超えた美が存在するということの証なのです。