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【591645】大昔の私立女子中、高校偏差値

投稿者: いなかもの   (ID:tVtzzMRsRK6) 投稿日時:2007年 03月 10日 20:23


下記は406027から大昔の中学入学偏差値を拝借してきました。 

<昭和53年版・私立女子中学偏差値>
69 桜蔭 雙葉 女子学院
67 東洋英和 聖心
66 学習院女子 白百合 立教女学院 日本女子大附属
65 跡見
64 大妻
63 山脇 三輪田
62 昭和女子 晃華
61 共立 光塩 恵泉 田園調布雙葉
60 東京女学館 桐朋女子 実践女子
58 普連土
57 女子聖学院
56 頌栄 女子美
55 和洋九段 
54 香蘭 武蔵野女子
53 川村 十文字 トキワ松 淑徳
52 東京文化 吉祥女子
51 豊島岡 鴎友 聖ドミニコ
50 目黒星美 戸板

一方、別の板で、今や偏差値60前後となった豊島岡、鴎友、頌栄などは大昔(20-30年前?)は最下位レベルの都立高校にすら受からなかった人の滑り止め高校(偏差値で40台?)であったかの記述をよく目にします。
とするとこれらの学校は中学受験では偏差値50以上なのに高校入試では偏差値がもっと低いことになるのですが、どういうことなんでしょうか? 

当時の事情 ご存知の方いっらしゃいましたら 教えてください。

上記3校というより、当時の私立中学入試偏差値と高校入試の関係(今なら高入偏差値のほうが断然上) に興味があってお聞きしします。

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  1. 【597262】 投稿者: そうですねー  (ID:SRCsLvNryjU) 投稿日時:2007年 03月 16日 22:29

    御三家の某女子中学に行き、あまりに自分に合わずに高校は共学の私立を受験しました。
    中学・高校受験、どちらも偏差値表とにらめっこでした。

    ですから今の偏差値をみてびっくりした1人です。

    当時の中学受験は何が何でも私立へ、ではなく、どちらかというと
    実力試しみたいな感じでした。
    落ちたら公立いけばいい、と私は思っていましたし、そういう風潮だったのではないでしょうか?
    すべり止めも、「試す」だけで、本命に落ちても行く気はさらさらありませんでした。

    そうそう、学大付もお茶付も受けました。
    抽選で玉砕でしたが・・・。受けたとは言わないですね(^_^;)

    高校受験のすべり止めは豊島岡でした。
    そんなに豊島岡の偏差値が低かった記憶はありませんが、合格人数が恐ろしく多かった気がします。

    20年の間の経営努力でしょうね。
    逆に偏差値が下がってしまった学校は、当時の人気の上にあぐらをかいていたんですかね。


  2. 【597431】 投稿者: 高校、中学の偏差値  (ID:qYHFjmcPaRo) 投稿日時:2007年 03月 17日 01:14

    S53年をご存知の方へ

    今日では、中学の偏差値は高校の偏差値−10位?といわれているようですが、
    53年頃もその位の差はあったのでしょうか?

  3. 【597700】 投稿者: いわゆる校内暴力世代  (ID:nMXTssMdBfI) 投稿日時:2007年 03月 17日 13:36

    私の場合は、当時、中堅上位とされていた私立中に進みました。

    地元の公立中が、数年間荒れていた反動で内申書での締め付けが
    厳しく、親にこのような環境だとつぶされるデメリットの方が高いと
    判断されて、中学受験しました。
    同じ小学校から中学受験した人は1割程度でしたが、
    どちらかと言えば実力試しという人の方が多く、
    極力私立に行きたいという人は少なかったですね。

    そして、あくまでも小学校での生活を大切にすることが前提でした。
    だから、私立一本でも、ある程度担任の心証を良くしておかないと、
    内申書が気になるという傾向はあったかも知れません。
    (だから不登校でも中学受験が出来るというようなことは、ほとんど
    考えられなかった)

    受験した学校は、たまたま、系列の大学・短大があるところばかりでしたが、
    親は校風はもちろんのこと、系列外への大学への進学実績も参考にした様です。
    当時は、私立中の学校説明会だと、進学実績については文理比率すら
    余り言っていなかった印象がありますが、親は「6年間で自分の進むべき方向を
    探すために中学受験する。高校卒業後、何となく大学・短大に行くぐらい
    だったら、専門学校で技術を見につけた方が良い」と考えていました。
    (しかし、他の方のレスを見ると、そのような考え方って受験組でも少数だった
    のでしょうかね)

    記憶している範囲だと、他に、その頃と今とはこんなところで違うかなあ。
     ・受験日・・・概ね2月1日に集中していた。(6割方くらい?)
      一部の学校(成蹊・光塩・桐朋女子・成城学園)は、2月1日・2日と連続して
      受験日を設定していました。
      2月3日以降の学校は、国立附属・慶応以外だと、吉祥女子・晃華ぐらい
      だったかな。
      もちろん、どの学校でも複数回受験ということはありませんでした。
     
     ・教科(学科)・・・2教科が圧倒的多数。4教科は、御三家・国立附属
      (筑波大・お茶大)・慶応・日本女大附属・フェリス・聖心ぐらいでした。
       所属していた某大手進学教室では、模試のデータでは引っかかると
       思われる学校もあるので、そちらも1つ本命に受けたらと言われましたが、
       上に書いた考えと噛み合わないと思い、2教科校1本にしました。

    私の母校も、数値だけ見ると、「この20年間で偏差値が下がった」方の部類ですが、
    この20年間での学生の変化(女子の進学系統の変化、成績・意欲の2極化)に
    すばやく対応出来なかったのではないか、と思っております。




     
      
     























  4. 【597877】 投稿者: 昔の子  (ID:AHsKGSqfn3E) 投稿日時:2007年 03月 17日 17:34

    私も公立がかなり荒れ始めた頃の受験生だけど、
    当時共立も一日筆記試験、二日面接の二日がかりでした。
    あの頃は、募集人数500人で倍率3倍ちょっとを一回の試験で
    決定していた訳だから仕方がなかったのかな?
    ただ、最近の受験よりずっとのんびりしていましたね。
    私の周りの子も、一校か二校しか受験しなかったし(日程的にたくさんは無理だった?)
    私もすごく勉強したという記憶が全く無く、模試も四谷を一回受けただけで
    近所の小さい塾に週一回通ったのみ。(当時は二科受験主流でした)
    最近受験生だった娘がたくさんの過去問を解いている姿をみて、
    「あらっ?私、過去問なんて一度も見ないで受験当日を迎えちゃったけどな〜」
    なんて思いました。
    今の子はタイヘン・・・

  5. 【598052】 投稿者: 昔の子2  (ID:QdzVpEbOmE.) 投稿日時:2007年 03月 17日 21:31

    私も↑の時期に受験しました。
    算数が苦手だったので、4教科受験でしたが、
    ほとんどが2教科の学校だったので、受ける学校が少なかったです(^^;
    ホントに2教科全盛でしたよね。


    しかも2月1日試験・2日面接だったし、
    神奈川よりに住んでいたこともあり、滑り止めで受ける学校、無かったです。
    ひとつ受けてダメなら、しょうがない(笑)
    でも、入った学校では、そんな子が多かったですね。
    複数受験も無かったですし、とにかく一発勝負。
    だから、案外さっぱりした受験だったような気が。
    今は、この掲示板などを見ても、結構どろどろしている感じ(^^;


    うちの子も終了していますが、
    自分の頃とは全く違って(勉強量とか塾に通う日数・時間など)、
    私だったら、耐えられなかったなあ〜、などと心ひそかに思っていました(笑)
    今の子は、偉いです。ホント尊敬しました。

  6. 【598089】 投稿者: 本当に  (ID:9tZNGcr3SuQ) 投稿日時:2007年 03月 17日 22:04

    3番目の子がようやく中1に。
    私も30余年前中学受験しました。
    第1希望1校のみ。ダメなら公立にと思っていました。
    四谷は日曜テストとその解説授業のみ。
    合不合の模試だけ。
    平日は自分で予習シリーズを週3日集中して勉強してテストに臨むというペースでした。
    それで十分だったし今のような塾通いはどう考えても異常と思う。
    今の子、昔の子より賢いのかしら?


  7. 【598381】 投稿者: 御三家の源流  (ID:B4w.mp16t5k) 投稿日時:2007年 03月 18日 13:19

    なつかしい さんへ:
    -------------------------------------------------------
    > <昭和53年版・私立女子中学偏差値>
    > 69 桜蔭 雙葉 女子学院
    > 67 東洋英和 聖心
    > 66 学習院女子 白百合 立教女学院
    > 日本女子大附属
    > 65 跡見


    今の御三家は、いつから御三家と言われるようになったのか
    という議論がよく出てきますが、昭和53年にはすでに、この
    3校が、御三家であることがわかりました。

    少なくとも29年前には、このような状態であったと。

    それにしても、東洋英和,聖心、跡見が
    こんなによかったとは・・・・・・・・・・

  8. 【598600】 投稿者: 女子大・短大の黄金期  (ID:MyLqy2.pPcc) 投稿日時:2007年 03月 18日 20:10

    御三家の源流 さんへ:
    -----------------------------------------------------
    > > <昭和53年版・私立女子中学偏差値>
    > > 69 桜蔭 雙葉 女子学院
    > > 67 東洋英和 聖心
    > > 66 学習院女子 白百合 立教女学院
    > > 日本女子大附属
    > > 65 跡見
    >
    >
    > それにしても、東洋英和,聖心、跡見が
    > こんなによかったとは・・・・・・・・・・
    >
    >


    女子大・短大の黄金期なんですよ・・附属もエスカレーターを目当てに人気があったんです
    女子大・短大のお嫁さん大学の超人気、共学でも青山、成城、玉川などの「女の子っぽい大学」が人気


    これはバブルまで続きます。
    バブル期にはさらに早い時期から「女の子には人生の安全弁を」で、小学校から女子大・短大系に入れようとする動きが・・
    その頃は白百合学園小学校は日本女子大豊明小のすべり止めでした
    大学の序列そのまま。


    バブルがはじけて、短大は価値を失い
    跡見、山脇、川村などが低迷
    女子大も共学志向の強まりで、低迷
    エスカレーターを売りにして黄金期を謳歌していた日本女子大、聖心などが偏差値を下げます。
    玉川・成城などの「女の子っぽい大学」の附属も気がつくと・・。


    元々、大学の評価がイマイチだった白百合などの進学校は、評価を保持・上昇させることになるわけです。


    女性の「将来像の変化」で、偏差値が変わるんですね。

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