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【5601828】公立高校の最低迷期、1900年代を語る

投稿者: エネイブル   (ID:T4LanBR7CEo) 投稿日時:2019年 10月 11日 23:32

超伝統公立校、日比谷高校の東京大学合格者数

1990年  8人
1991年  7人
1992年  8人
1993年  1人 ←まさにこの人のおかげで日比谷の連続性が守られた
1994年  7人
1995年  4人
1996年  3人
1997年  6人
1998年  2人
1999年  2人

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  1. 【5604026】 投稿者: 古い都立高校生  (ID:vGZT.cPgLM2) 投稿日時:2019年 10月 13日 20:26

    私は1980年代後半の都立高校卒ですが、当時は「23区内のトップは西、多摩地区のトップは立川」でした。
    私が都立高校を受験した年は、入試の得点の平均点男子1位が西、2位が戸山、3位が武蔵でした。
    子供が大きくなって受験を考えるようになると、何故か都立のトップが日比谷のように言われていることを知り、驚きました。
    だいたい何年頃が転換点だったのでしょうか?
    1999年の時点では、まだ西の圧勝ですよね。

  2. 【5604406】 投稿者: もっと年下のゆとり  (ID:H0wTNTD.CW.) 投稿日時:2019年 10月 14日 07:25

    90年代この頃は、もうゆとり教育の頃なんでしょうか?また、単純に興味で、都立で一番実績が良かったところを知りたい。

  3. 【5610319】 投稿者: 都政  (ID:WZk5iEtnsxY) 投稿日時:2019年 10月 19日 22:32

    ノスタルジーのお爺ちゃん知事の時に、日比谷復活政策が取られて、資源を日比谷に集中した。
    その結果、代わりに戸山青山が凋落。

  4. 【5610338】 投稿者: ?  (ID:6nmJaS7Y1UY) 投稿日時:2019年 10月 19日 22:46

    >ノスタルジーのお爺ちゃん知事の時に、日比谷復活政策が取られて、資源を日比谷に集中した。その結果、代わりに戸山青山が凋落。


    よく事情を知らない人のようで。戸山と青山の東大合格数は2校ともに近年最多を更新しています。確かに2校とも学区撤廃当初は落ち込んだのですが、その後にV時回復しています。都立の3番手とよばれる学校までは、どこも90年代よりも伸びていますよ。小山台、駒場、三田などの国立大実績は見違えるほどよくなりました。

  5. 【5611309】 投稿者: 学校群  (ID:eVG7NvrmQR.) 投稿日時:2019年 10月 20日 21:49

    都立は学校群時代の末期の卒業生、昭和58,59年の卒業生が一番できなかったんじゃないかなってイメージがあるな。
    自分がその世代なもので。
    先輩たちの進路実績に比べて、自分たちはあまりにも不甲斐なかった。
    希望してる高校に入れなかったりしたら、モチベーションだだ下がりで。
    ま、それは不甲斐ない自分の言い訳なんだけどね。
    単独高校はそれとは少しは違うと思いますが。

  6. 【5611337】 投稿者: ホントにね  (ID:IGGE/9oZ5YY) 投稿日時:2019年 10月 20日 22:14

    1900年代と書くと普通は近代。
    明治大正昭和と続く時代。開国し近代化を進め、太平洋戦争などの戦争を経て敗戦から復興を果たすって流れで語るべき。

    90年代(1990年代)とはエライ違い。
    タイトルから間違えてるのか、意味も分からず使ってるのか。どっちにしても、その程度の人に批判されたくないだろうね。

  7. 【5611385】 投稿者: なんだ  (ID:qBAwY0WPGWg) 投稿日時:2019年 10月 20日 22:46

    戦前の話かと思ってスレを見ちゃった。


    私1980年代初めに高校を卒業しました。
    そのころ、
    私立高校では高2までに高校の範囲を終えて
    三年生では受験勉強すると聞いて、
    へ~~~、と思ったものだわ。

    私立高校の東大合格率が上がったのはそのころからでは?
    必然的に都立も国立も実績は下げていった・・・

  8. 【5797896】 投稿者: その時代の旧第一学区  (ID:MOwzMPo1/N6) 投稿日時:2020年 03月 17日 07:52

    1980年代から、日比谷は低迷していました。マスコミが書く「一時期、東大合格者数が1人までに落ち込んだ」という表現は、かなり不正確で、2、3人、又は数人という状態がだいたい20年続いています。中学の先輩や同級生で日比谷に進んだ人の進学先は、日東駒専が中心で、それらに決まった人は嬉しそうにしていました。マーチに受かったら凄い、という感じで、噂が伝わってくる感じでした。国立大学どころか早慶とかを進学先として真面目に考えている生徒は例外的だった様です。
    そんな日比谷では、公立中のトップ層にとっては滑り止め校としても進学したくないという感じで、國學院久我山とかに受かった同級生はそっちを選んでました。日比谷が本当の進学校だった時代のOBは、75歳より上なので、実際のところは、「日比谷高校の豊富なOB人脈」とは、こうした日東駒専レベルの方々です。
    他方、こうした時代でも、都立西、都立戸山、都立国立とかは、それなりの進学実績を維持していて、学界、官界、財界にそれなりのネットワークがあります。
    当時、家庭の経済事情で苦しい優秀な子供は、国立大学附属を必死で目指していたので、天上界を形成していて、次いで開成、武蔵、そして西、戸山、国立という限定的な都立進学校群、早慶附属、ICU、次に海城、巣鴨、桐蔭学園、といった難関私立進学校群、さらに、程々の私立進学校群、そして学区トップ校の非進学校群と続きました。日比谷は、学区トップの非進学校群だったのです。

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