マルチリンガルを目指せる女子校
東大を卒業しても「仕事がまったくできない人」の意外すぎる共通点
https://news.yahoo.co.jp/articles/542413653a2a7ab4b633fc254d8dcf98fe14059d?page=1
合格すれば、前途洋々の明るい未来が待っている―。東大受験生たちは、かたく信じて今日も勉学に励んでいる。だが、そんな時代はとっくに終わった。東大卒を取り巻く社会環境は激変しているのだ。
気難しい、屁理屈が多い、プライドが高すぎて扱いづらい……。
東大卒を指してそう指摘する声が多いのは、今も昔も変わらない。
東大卒の部下に手を焼いた経験を話すのは、大手システム開発企業の40代中間管理職だ。
「ある時、中小の取引先にシステムを納品することになり、先方のニーズを反映するためのヒアリングに東大卒の部下を連れて行ったんです。ところが、彼は先方と会って早々、『世界標準ではこうなっている。たとえばグーグルでは……』と、大上段の話をする。相手の希望はお構いなしなのです。
ならば、大きな仕事がしたいのだろうと思ってプロジェクトを任せようとすると『いや、それは』『いや、でも』とできない理由を滔々と並べ立て、なかなか前に進まない」
偏差値で自分の立ち位置を数値化したり学校レベルを分けること自体は悪いことではないと思う。算数で躓いて苦しんでいる子と線形代数を1回の授業で理解しより深く学びたい子が同じ学校で同じ授業を受けても誰も幸せになれないので。問題は、「偏差値が高い=よい学校」という評価軸を社会が持ってしまっていること。会社が採用時に偏差値の高い学校の出身者を(理由なく)求める面があるからなのかもしれないが。だからこそ地域での評価を上げたい学校・教員は生徒の偏差値を上げることに躍起になってしまわざるを得ない。
より深く考えるために教科学力があることは十分条件ではないが必要条件。教科学力が高いやつほど使えないとか考えられないとかそんな論争もバカバカしい。さらに、個々に適性もあるし、世の中すべての人間に最高レベルの考える力と教科学力が必要なわけではない。
いわゆる「詰め込み教育」全盛期に学校生活を送ったが、私は学校以外では勉強しなかったので、学校以外の時間は考え続けた。
親がかなり理不尽だったから、それをどう乗り越えるか真剣に考えたし、その為に学校で学ぶ基礎学力は役に立った。
現在公立高校の教育を間近で見る機会のある仕事をしているが、探究の時間や討論の時間がとても増えている。
しかし、指導力があって本当の意味で生徒に考えさせる授業は少ない。
結果、考える力も基礎学力もない生徒がそのまま放置されている。
尚且つ、そういうグループ学習的な事は友達作りの苦手な生徒にとっては恐怖でしかなく、不登校の原因にもなっている。
考える力は大事だが、それを学校の中で身に付けさせるのは難しい。
教師の能力が低いと、詰め込み教育より酷い事になると思う。
情報を効率的に変換していく能力に欠けているタイプの人からみれば、それをこなすことができる人向けの教育などは詰め込みと感じることしかできない。
仕事には、大量の情報をこなす高度な能力を要求する仕事と、単純反復で時間払いをうける作業とがある。
このスレは単純反復の上手さを仕事の基準としている人の歪曲した本能が興味深く観察できる。
世知辛い話だけど、そう思ってしまうのは公立出身だから。東大の進学実績が高い私立中高一貫校って、ただ進学のために勉強するのではなく中学受験のアドバンテージを使って余裕を持った六年間を過ごす上に、同級生や授業、課外活動、語学習得などの面で恵まれていて公立とは本当に大きな差があります。考える力も養われやすい環境でしょう。私も公立出身ですが、私立中高一貫校出身の方や私立中学に通う子供を見てそう思います。