東北大学 入学者がAO総合型100%になることをどう思いますか? 地方旧帝大は総合型入試がマジョリティになるのでしょうか? 筆記試験がむしろ本当の能力をはかることができてなく国力の低下につながったのではないでしょうか?
多くの私立大学のように一般入試の偏差値を維持するのが目的でしょうか?
地方だから受験生の確保に苦慮しているということでしょうか?
東北大学サイドとしては筆記試験だけで入学した学生よりもAO入試で入学した学生の方が、入学後の成績が良いことが分かってきたからとのこと。
入学試験の成績と卒業時の成績は昔から相関はないです。
ただ学部の1年生終了時の成績と卒業時の成績は相関がある。
大学生活のスタートがしっかり切れた学生は最後まで走り切る。
AO入試組はその大学を第一志望としていた学生たちが多い。彼らにとっては入学することがスタートになっている。
一方、一般選抜組にとっては入学が一つのゴールなので、4月でまず一息をつくと。
AO入試の合否を左右するのは面接の出来不出来が大きい。
例えば、東北大学ではAO入試III期の1次選考突破者は大学入試共通テストで一定以上の成績を収めた者で、成績分布は団子状態。そのため「面接の成績の差が合否を決めることが多い」。
AO入試の拡大は国際卓越研究大学のためには必須条件。
留学生を学部生としてもっと受け入れるとすれば、日本の教育課程で学んだことを前提とした大学入学共通テストのようなテストではなく、AO入試のような総合的な選抜方法にシフトせざるを得ない。留学生の増加なども含めて全体としては現在の一般選抜入試がゼロに近づいていくというのが東北大学の見立て。
『思考の整理学』(外山滋比古著)にも自力で飛ぶことができる「飛行機」と風がないと飛ぶことができない「グライダー」の例えが書かれています。
日本の「優等生」はグライダーとしては一流ではある学生が、卒業間際になって論文を書くことになる。
これはこれまでの勉強と勝手がちがう。
何でも自由に自分の好きなことを書いてみよ、というのが論文。
グライダーは途方にくれる。突如としてこれまでとまるで違ったことを要求されても、できるわけがない。
グライダーとして優秀な学生ほどあわてる。
グライダー型の受験秀才を大量に再生産してきた結果が今の苦境を招いているのではないでしょうか?
1点刻みの筆記試験ですべて合否を判定することが公平な尺度なのでしょうか?
現実をみると比較的豊かな家庭で育った東京圏の子どもたちが幼い頃から塾通いをして、「学力」を獲得し、難関大学に受かっている現状は国力の衰退につながったのではないでしょうか?
本当に大事なのは自分のポケットに詰まっているものはそんなに多くなくても、入っているものを組み合わせてどう答えをつくるかという力なのではないでしょうか?
昔の工学部の研究室では、研究室のガラクタのような装置を組み合わせて、何とかデータを取るという世界でした
アメリカの大学ではAO入試が基本ですよね?
筆記試験での偏差値序列ってもはや古いのでしょうか?
面接でその生徒が本当にその学問に興味を持ち深めているか判断する事が、研究力や粘り強さのある人材を厳選できる方法なのではないですか?
一般入試メインではどんどんレベル低下が進んでしまい、それこそ存続が危ぶまれるのかも。
30~40年前は東北大へ仙台一と仙台二合わせて毎年250人ぐらいは合格していたイメージ、やはり新幹線等で仙台が近くなったのと、首都圏・京阪神圏の凄まじい受験指導と学力レベルで、地元と東北6県からは以前より入学困難になったってことですかね…
必要だろ?学力は確認してもらいたい。
そうしないと変なレベルの人間が紛れ込んできてしまう。
大体、東北大の推薦って学力重視と聞いていますけど?
私立大学の推薦とは違う。私大の受験と国立の受験って一般、推薦に限らず
全く違うわけですから。
大まかに言うと賢い人は国立大学、そうでない人が私立大学です。
国公立大学の従来メインであった5教科7科目の共通テスト+2次試験方式に対して、学部によって異なるが面接試験のウエイトを2〜6割に設定し、筆記試験も専攻分野の基礎知識、論理的思考力、英語読解力を評価する入試方式の是非の議論でしょう。
いわゆる選抜する視点の違い。当然の従来方式と合格者は入れ替わる可能性が高い。というよりそれを目的としている。画一的に決められた回答を導き出す能力を評価するものではない。
合否判定において筆記試験のウエイトの大小の議論ではない。
少なくとも共通テストを課さないAO入試がGPAがトップで一般入試が最下位であったのが東北大学の10年間のGPAの結果で東北大学の中ではどちらがいいかの結論を出したということ。