高2が体験!金沢探究レポート
共テは作業、学問を競う試験ではない。
共テの問題が解けたところで、日東駒専の英語や古文でさえ解けない現実。
なぜか?
共テは学問ではなく作業だからです。
だから6割しかとれなくても、多くの国公立大は合格可能です。
諦めないで。
ララランド西田(上智 卒後からノー勉) 現代文98/100 英語筆記97/100(50分で解答)
エビスジャップたく(慶應) 英語149/200
ひろと(早稲田) 数学169/200
森山(慶應) 現代文147/200
(全員卒後10年 直前に1週間の勉強のみ)
少なくとも他者との競争を学習の動機にしていないっていうのが世界の基準なんだなあ。一定の難度のテストで5段階の得点を出す。それで出願できる大学が決まる。対策も広がるかもしれないが、何にも学習しなくても大学生になれてしまう状況よりいいと思う。
共通テストが知識量を測るのは確か。しかし、知識量が学問の能力と同義だった時代は終わった。知識の蓄積はもはや個人の専売ではなく、検索とAIが担う領域に移った。
本質的に問われているのは、知識をどう構造化し、未知とどう接続できるかという力。
共通テストが測っているのは所詮は、知っているかどうかまで。
考えることができるかどうかまでは踏み込んでいない。
学問とは、知識を再配置し、未知の問いを立てる行為のこと。
だから知識は前提であって目的じゃない。知識量を誇る教育は、情報の時代には早晩限界を迎える。
問題は、知識を超えた思考の訓練が制度として設計されていないことなんだと思います。
共通テストは、麻布中の「ドラえもんは生物か?」という問いにすら至っていません。あの問いは、知識を問うのではなく、「定義とは何か」「生命とは何を意味するか」といった思考の根を掘り下げるものでした。未知の概念を自らの言葉で再構築する力を測ろうとする試みです。
一方、共通テストが求めているのは、与えられた前提の中で正解を見つける能力です。未知に出会ったときに、何を問い直すかを問う設計にはなっていない。
つまり、麻布の問題が「思考を開く」試験だとすれば、共通テストは「思考を整列させる」試験にすぎません。センター試験から共通テストに変わっても、知を構築する方向へは一歩も踏み出していない。名前が変わっても、問いの深さは依然として浅いままです。




































