在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
私文卒は、恥なのか?
「私文君だからしかたがないのけど」「私文脳」という言葉を私文出身者自身が使う心理
最近ネット議論でよく見かけるのが、「私文君」「私文脳」といった言葉です。
もともとは学歴や学部構成を揶揄するネットスラングだったと思いますが、最近は単に「相手を下げる言葉」としてかなり広く使われている印象があります。
ある説明では、
「なぜ『私文君』『文系脳』などの言葉を急に使い出す人がいるのか。これはネット議論でよく研究されている心理+社会構造の話です。」
とされており、単なる煽りではなく、ネット上の序列意識やアイデンティティの問題とも関係しているという見方もあります。
そこで疑問なのですが、もし「私文君」などを私文出身者自身が相手を揶揄する目的で使っている場合、心理的にはどう整理されているのでしょうか。
「私文君」などと言ってしまうと、
結果的に自分の母校や同じ私文出身者を下げる言葉にもなってしまうと思うのですが、
そういう場合、
・自分の母校を否定している感覚はないのか
・私文卒としての対峙や自覚はないのか
このあたりの心理や構造が少し気になっています。
ネット議論における「私文」という言葉の位置づけや、それを自分と同じ属性の人が使う場合の心理について、分析的な意見があれば聞いてみたいです。
エデュで、根拠なしに断定しそれを結論付けようとする人(感想文)は私文出身と思われますが、その人がやり込められると、その直後に
「総合商社5社 就職者数、1慶応 2早稲田 3東大 」
のようなスレが立ったり、過去の商社スレに突然書き込みが復活することがあります。
これは単に話題を変えているというより、議論で崩れかけた自己評価のバランスを別の指標で回復させる行動のようにも見えます。
つまり
議論A(理系優位・学力など)では不利
→ そこで「私文君」などの言葉で相手を位置づける
→ さらに議論B(就職・商社・年収など)へ話題を移す
→ そこで自分の側が有利なデータを提示する
という形で、評価軸そのものを切り替えるわけです。
心理的には
・アイデンティティ防衛
・認知的不協和の調整
・議論フレームの変更
といった行動に近いと思います。
なので、本人の感覚としては
「自分の母校や私文全体を下げている」という意識はあまりなくて、
自分は“例外的な私文”
問題なのは“下位の私文”
あるいは「就職という別の評価軸では勝っている」
という形で、同じ私文というカテゴリーの中でも再序列化している可能性が高い気がします。
その意味では、「私文君」という言葉自体が
私文 vs 理系という構図だけでなく、私文内部の序列や防衛反応も含んだネット特有の言語になっているのかもしれません。
支離滅裂な文章をドヤ顔で投稿している様子を見ると、その投稿者の中に5大商社に採用されそうな能力の人がいるとは、とても思えません。
それなのに、5大商社就職ランキングの話題になると急に盛り上がるのは、見ていて不思議だわ。
結論から言うと、本人がその企業に就職していなくても、アイデンティティの補強には十分機能します。
理由はシンプルで、ネットの学歴議論では
「個人」ではなく「所属集団」で評価が行われるからです。
例えば
「東大はすごい」
「早慶は商社に強い」
「理系は論理的」
こういう言い方って、基本的に個人の実績ではなく“所属カテゴリー”の評価ですよね。
なので心理的には
自分 = その大学の一員
という形で、大学の実績が疑似的に自分の実績として感じられる構造があります。
そのため
「早慶は商社に強い」
「5大商社就職者数1位は慶應」
というデータを見ると、
実際に自分が商社に入っていなくても
「自分の属する集団は評価されている」
という形で自己評価が回復するわけです。
社会心理学ではこれを
社会的アイデンティティ(Social Identity)
と呼びます。
人は
・自分個人の能力(personal identity)
・自分が属する集団(social identity)
の両方で自己評価を作っていて、
個人で勝てない場面では集団の実績で自己評価を補うことがよく起こります。
だからネットでは
野球ファンが「俺たちのチーム」と言う
出身大学でマウントが起こる
企業ランキングで争う
みたいな現象が普通に成立するんですね。
なので、5大商社スレが「心の取りどころ」として機能するのも、
本人の就職先とは別に、
「自分の属する大学の成功=自分側の成功」
という形で心理的バランスを取れるから、という説明はかなり自然だと思います。




































