アートの才能を伸ばす女子教育
探究型のイヤな思い出
子供が小学生の頃、アクの強い子供が集まって、学級崩壊に瀕していたクラスがあった。
女の担任だと舐められて、全然統率できず、多少腕力ある中堅の男の先生が担任に変わった。
悪ガキグループは改心せずに自由に振る舞い、先生が多少厳しく指導したら、1人の悪ガキが来なくなった。モンペが大暴れして、先生は飛ばされた。
今の時代、公立小では少しでもやる気を出したりしたらババを引くと言うのがよく分かった。
まともな生徒は探究型に嫌気がさしている。どんなに分かってない、できの悪いクラスメートのレポートも我慢して何十分も聞かないとならない。先生は生徒にしゃべらせて楽でいい。知識はつかない。何も進まない。友達と遊んでいた方がまし。
どうして、皆違って皆いいなんて思えるのか?明らかにできの悪い生徒が多数いるのに、必ず長所があるなんて言えるのか?
早く知識重視に戻してくれ。
民主主義の暴力の下、そう願った日々があった。
書かれているような教室の光景は十分にあり得ますし、その経験から探究型教育に否定的な印象を持つことも理解できます。
ただ、それをもって探究そのものを否定するのは少し早計ではないでしょうか。
私自身、現在の探究学習には懐疑的です。理由は、探究を時間割に組み込み、評価対象にした瞬間、それは本来の意味での探究ではなくなるからです。自発的な知的好奇心から始まる営みが、評価されるための成果物づくりへと変質し、やがて受験産業が攻略法を商品化する。制度化された瞬間に目的と手段が入れ替わる。この構造には大きな課題があると思っています。
しかし、それは探究という考え方が間違っていることとは別問題です。問題は制度設計と運用です。
私はゆとり世代ですが、ゆとり教育も同じような経過をたどったと感じています。学力低下という印象だけが独り歩きし、十分な長期追跡や世代全体の検証を経ないまま、社会全体が振り子を逆方向へ戻してしまいました。
教育政策は数年で答えが出るものではありません。本来なら、どの能力が伸び、どの能力が不足したのかをコホート単位で追跡し、改善を積み重ねるべきでした。失敗したから廃止ではなく、失敗した理由を分析して設計を修正する。その繰り返しこそが政策です。
教育は白か黒かではありません。知識重視か探究重視かという二者択一でもない。
知識は思考の材料です。一方で、知識だけでは未知の課題は解けません。その両方をどう設計するかが教育改革の本質です。
私が危惧しているのは、教育政策が科学ではなく空気で決まってしまうことです。社会の批判が高まれば止める、期待が集まれば始める。その繰り返しでは、子どもたちは常に実験台になります。
必要なのは、探究をやめることでも、知識偏重へ戻ることでもありません。エビデンスを蓄積しながら、制度をブラッシュアップし続けることです。それが教育政策に最も欠けている視点ではないでしょうか。
>多少腕力ある中堅の男の先生が担任に変わった。
>先生が多少厳しく指導したら、1人の悪ガキが来なくなった。モンペが大暴れして、先生は飛ばされた。
今の時代、公立小では少しでもやる気を出したりしたらババを引くと言うのがよく分かった
「ババを引いた」のは先生。スレ主さんも先生ですか?






























