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【4170914】テロをする人はマルクス主義を信仰する

投稿者: へ?   (ID:A0wkH1IVu92) 投稿日時:2016年 07月 06日 06:50

イスラム教徒は狭いナショナリズムに断片化されていると考え
イスラム世界における政府がイスラム法を取り除く十字軍植民地相続法を採用していることに憤りを感じ自国民を抑圧する世俗的な政府だと非難する。
彼らは(政府または外国人=ブルジョワジー)は、我々の富(プロテリアートの富)を吸引することにより、自分自身、家族、社会集団として豊かにする。

これは私の想像です。
しかし反社会的行動をする人々ってマルクス主義を信仰する人が
昔から多い気がします。
そしてそれらを信仰する人々はオウム真理教徒のように高学歴で豊かな暮らしを
された方が先導することが多い。
貧しい生活をする人々の味方をするようなふりをして自己主張のために
ただただ暴力装置化するのです。

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  1. 【4170923】 投稿者: 人命は地球より重い  (ID:kffCCvy4uzg) 投稿日時:2016年 07月 06日 07:19

    1977(昭和52)年9月28日、日本赤軍が、ポンペイ発の日航機をのっとり、ダッカ国際空港へ強行着陸。乗員乗客156人を人質に同志の釈放を要求。日本政府は「超法規的措置」で、釈放を決め、犯人側が要求した9人のうち出国を希望した奥平純三ら6人の出国と身代金6000万ドルの支払いを認めた。これを、「ダッカ日航機ハイジャック事件」という。
    ダッカ国際空港のあるバングラデシュではこの事件中に、軍部中枢を含む政府首脳がこの事件の対応に追われている隙間を縫って軍事クーデターが発生するなど、現地は緊迫していた。のっとり犯の要求に対して、日本国政府は議論の末、10月1日に当時の福田赳夫首相(長男が、現・福田康夫首相)が「人命は地球より重い」と述べて、身代金の支払い及び、超法規的措置として赤軍派系連合赤軍メンバーなどの引き渡しを決断した。なお、このとき、検事総長と法務大臣はこの様な「違法措置」の施行に対して強硬に反発し、閣内不一致を恐れた福田は福田一法務大臣を更迭している。
    釈放に応じたメンバー6名は、奥平純三(前年ヨルダンから強制送還され公判中。日本赤軍。奥平剛士の弟)、城崎勉(共産同赤軍派。大菩薩峠事件で逮捕)、大道寺あや子(新左翼武装組織・日本赤軍の元メンバー。のっとり犯・佐々木の出身母体である東アジア反日武装戦線)、浴田由紀子(同上)、泉水博(獄中者組合。一般刑事犯)、仁平映(同上) の6名であるが彼等は、10月1日、日本航空特別機でダッカへ輸送した。
    犯人側は、ダッカ、クエート、シリアのダマスカスで次々と人質を解放しながらアルジェリアのダル・エル・ペイダ空港に到着。人質を全員解放し、アルジェリア当局に投降した。
    日本における、初のハイジャック事件としては、よど号ハイジャック事件(よど号乗っ取り事件)が有名である。この事件は、1970(昭和45)年3月31日に共産主義者同盟赤軍派が起こした日本航空機に対するハイジャック事件である。
    赤軍派は、国内での非合法闘争の後方基地(国外亡命基地)としての海外のベースが必要であるとする「国際根拠地論」に基づき、海外にメンバーを送り込む計画を立てそれにのっとって行ったものであり、この事件では、日本の運輸政務次官が人質の身代わりになり、犯人の多くが北朝鮮への亡命や逃亡に成功するなど、解決に際して非常に問題の多い事件であった。さらに、この時点ではハイジャック自体を処罰する法律は存在しておらず、この事件を受けて、「航空機の強取等の処罰に関する法律」、いわゆる「ハイジャック防止法」が成立し施行された。新左翼系日本人による左翼ゲリラ武装テロ組織「日本赤軍」は、冷戦下の1971年、共産主義者同盟赤軍派の「国際根拠地論」に基づき、赤軍派の重信房子や元京都パルチザン(ゲリラ)の奥平剛士らがパレスチナへ赴き、同地で創設された。
    そして、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)などパレスチナの極左過激派と連携し、1972(昭和47)年5月の「テルアビブ空港乱射事件」、1973(昭和48)年7月「ドバイ日航機ハイジャック事件」、1974(昭和49)年9月「ハーグ事件」、1975(昭和50)年8月「クアラルンプール事件」そして、1977(昭和52)年の今日(9月28日)の「ダッカ日航機ハイジャック事件」と一連のハイジャックや空港内での乱射事件などの無差別テロを起こし多数の民間人を殺害し、世界的に注目を浴びると同時にその残虐性が大きな非難を浴びていた。この後も、「ジャカルタ事件」、「三井物産マニラ支店長誘拐事件」、「ローマ事件」、「ナポリ事件」、などを次々と起こしている。
    日本政府が過去にテロリストの要求に屈したのは、1975(昭和50)年の「クアラルンプール事件」に続いて、「ダッカ日航機ハイジャック事件」が2度目であった。
    この「ダッカ日航機ハイジャック事件」における日本政府の対応は、この時すでに「テロリストや過激派と交渉せず」との欧米を中心とした国際的非難を受け、一部諸外国からは「日本はテロまで輸出するのか」などとまで非難された。そして、世界各国では、この様な事件に対処する為、対テロ特殊部隊の創設が進められ、同年、日本政府も、この事件を教訓として、西ドイツの特殊部隊「GSG-9」(後述)を参考に、ハイジャック事件に対処する特殊部隊を創設した。この部隊は近年増設され、特殊急襲部隊(SAT)と呼ばれている。
    2001(平成13)年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件を受け、日本が、米国の対テロ軍事行動を支援するための法律「テロ特措法」(テロ対策特別措置法)は、実際には、アメリカ合衆国などがアフガニスタンなどに対して、対テロ戦争の一環として行う攻撃・侵攻を援助(後方支援)することについて定めた法律であるといわれている。2001年11月、2年間の時限立法として成立したが、2003年、2005年、2006年の3回、期間が延長された。 4回目の延長となる今年2007年11月、夏の参院選で参議院で過半数となった野党の民主党は延長反対を表明しており、延長の改正案が否決される可能性が高いが、何らかの理由をつけて、日本の最大の貢献として、インド洋上での無料のガソリンスタンド役を果たすことになるであろう。
    この改正法案を通すことが彼岸であった自民党の 安倍晋三は、体調不良とか言って首相代行も決めないままに、9月12日突然政権を放り出して内閣総理大臣を辞任してしまった。そのあとの後継争いの自民党総裁選では、昔ながらの派閥政治が復活し、反麻生の派閥領袖が福田康夫を担ぎ、福田赳夫との親子2代にわたる内閣総理大臣に就いた。福田赳夫が、テロリストの要求に屈して、国際的に非難されたこともあり、何よりも非難をおそれる日本の自民党政府は、テロ対策と名がつけば、何にもましてその協力を惜しむことはないのではないか

  2. 【4170932】 投稿者: 奥平  (ID:4C.we98AnHw) 投稿日時:2016年 07月 06日 07:29

    奥平 純三(おくだいら じゅんぞう、1949年2月9日 - )は日本の新左翼活動家、テロリスト。奥平剛士は次兄。
    山口県下関市生まれ。1969年京都大学工学部に入学し、パルチザングループに所属。1973年卒業後に建設会社に勤務するが、1974年5月に偽造旅券で出国して日本赤軍に参加。1974年9月に和光晴生らとともにハーグ事件に参加し、警察官2人に発砲。1975年にクアラルンプール事件に関わる。
    1976年にヨルダン入国の際に偽造旅券の容疑で日高敏彦とともに逮捕され、10月13日に日本に移送される。1977年にダッカ日航機ハイジャック事件で超法規的措置で釈放され出国。
    1987年6月9日、ベネチア・サミット開催中、ローマのアメリカ大使館とイギリス大使館にロケット弾が発射された他、カナダ大使館で車が爆破されたローマ事件ではレンタカーから奥平の指紋が検出され、イタリア公安当局から奥平の犯行と断定されている。
    1988年4月14日、ナポリにあるアメリカ軍関連施設(USOクラブ)前における自動車爆弾テロによってアメリカ軍兵士1人を含む5人を死亡させ、4人の米軍兵士を含む15人を負傷させた容疑でアメリカ政府の(最大500万ドルの懸賞と安全な転居を保障される)「リワード・フォー・ジャスティス・プログラム」により手配されている。 1998年、佐々木規夫とともに他人名義の旅券を不正に取得するため東京を訪れていたことがこれまでの捜査で明らかになっている。
    現在も生死不明で、国際指名手配されている。2010年4月以降の手配写真は1998年に撮影されたものに差し替えられた。

  3. 【4170938】 投稿者: 奥平の兄  (ID:4C.we98AnHw) 投稿日時:2016年 07月 06日 07:36

    奥平 剛士(おくだいら つよし、1945年7月 - 1972年5月30日)は日本の新左翼活動家。日本赤軍創設メンバーで最高幹部。同じく日本赤軍メンバーの奥平純三は弟。
    山口県下関市生まれ。1960年に山口県立下関西高等学校に入学したが、6月に岡山県立岡山朝日高等学校に転校。
    1964年、京都大学工学部に入学。在学中の奥平はセツルメント活動をしており、日本共産党系の青年団体である日本民主青年同盟(民青同盟)の同盟員にもなっていた。約半年で民青をやめた後、全共闘運動に参加。京大助手だった滝田修のパルチザンの構想に影響を受けている。

    1971年2月2日、赤軍派の重信房子と偽装結婚。そのあとレバノンのベイルートへ出国。1972年5月30日に岡本公三・安田安之らとテルアビブ空港乱射事件を起こし、安田と共に死亡する。死因については空港警備隊との銃撃戦で射殺されたとも、安田と共に自殺したとも言われ詳しくは分かっていない。
    没後1978年、田畑書店より遺文集『天よ、我に仕事を与えよ』が出版された(タイトルは彼自身の言葉による)。

  4. 【4170950】 投稿者: 奥平の師匠、滝田修  (ID:4C.we98AnHw) 投稿日時:2016年 07月 06日 08:01

    竹本 信弘(たけもと のぶひろ、1940年2月24日 - )は日本の新左翼の元活動家。かつては滝田修(たきたおさむ)というペンネームを使用していた。
    昭和44年京大パルチザンを結成。
    46年の埼玉県朝霞(あさか)駐屯地での自衛官殺害事件の共謀共同正犯として指名手配され,10年近く逃亡の後、逮捕された。

    京都府京都市で京都教育大学名誉教授竹本正信の次男、三人兄弟の末っ子として生まれる

    1958年、京都府立洛北高等学校卒業。
    1960年、京都大学経済学部入学。
    1964年に京都大学大学院修士課程に進み、ドイツ社会思想史(特にローザ・ルクセンブルク)を専攻する。

    大学院時代、『ガロ』1965年11月号に、白土三平の作品をマルクス研究者としての「私の問題意識に極めて鋭く迫る」ものとして礼賛する投稿をおこなっている。


    過激派の教組へ
    1967年助手試験に合格。博士課程を中退し、京都大学経済学部助手になる。
    同年、「ローザ・ルクセンブルクの社会主義運動論」を雑誌『思想』(岩波書店)に発表して、学会の注目を集める。
    1968年、若手研究者として将来を嘱望される一方、京大闘争が始まると、助手の立場から参加。1968年からアルバイトとして灘波予備校講師を兼任(~1972年)。この頃から「滝田修」のペンネームで積極的に論文を執筆するようになる。

    1969年、土本典昭のドキュメンタリー映画『パルチザン前史』に出演し、過激派の教組と目され、「日本のゲバラ」と呼ばれるに至る。1970年の三島由紀夫自決(三島事件)に際しては「われわれ左翼の思想的敗退だ。あそこまでからだをはる人間をわれわれは一人も持っていなかった。動転した」

    「70年代の闘争をやり抜くためには、新左翼の側にも何人もの"三島"をつくらねばならん」と発言し、パルチザンを組織して闘争を行うことを主張。

    当時、『週刊朝日』誌上で大橋巨泉と対談したこともある。

    その暴力革命論は全国の全共闘系学生に心情的影響を与えた。

  5. 【4170971】 投稿者: 奥平の師匠、滝田修が起こした事件  (ID:4C.we98AnHw) 投稿日時:2016年 07月 06日 08:15

    朝霞自衛官殺害事件
    場所 陸上自衛隊朝霞駐屯地
    日付 1971年(昭和46年)8月21日
    概要 自衛隊の武器を強奪するために幹部自衛官に変装し駐屯地内に侵入した新左翼によって警衛勤務中の自衛官が刺殺された。
    武器 包丁
    死亡者 一場哲雄陸士長

    1971年(昭和46年)に、東京都練馬区・埼玉県朝霞市・和光市・新座市にまたがる陸上自衛隊朝霞駐屯地で警衛勤務中の自衛官が、新左翼によって殺害されたテロ事件。

    犯人グループが「赤衛軍」を自称したことから「赤衛軍事件」ともいう。

    朝日ジャーナルの記者川本三郎と週刊プレイボーイの記者がそれぞれ犯人を手助けしており、日本のマスメディアの信頼失墜にも繋がった。


    10月5日発売の『朝日ジャーナル』に「謎の超過激派赤衛軍幹部と単独会見」という記事が掲載された。
    この記事には、まだ一般に公表していなかった「警衛腕章」の強奪を示唆していたことから、犯人しか知りえない事実であることが判明し、取材源は限りなく「クロ」であることが分かった。

    警察はその取材源を徹底的に捜査したところ、日本大学と駒澤大学の学生3人が捜査線上に浮上し、11月16日と25日に相次いで逮捕された。
    3人の学生は警察の取調べに対し、
    自衛隊の武器を強奪するために、幹部自衛官の制服を準備し、幹部自衛官に変装して駐屯地内に侵入した。
    歩哨の自衛官をいきなり包丁で刺し、所持のライフル銃を奪おうとしたが、ライフル銃が側溝に落ちてしまい、暗かったので見失ってしまった。
    自党派の存在をアピールするため、わざと遺留品を残した。
    と供述した。

    また、『朝日ジャーナル』の記者川本三郎(当時27歳)は1971年2月から犯人と親交を結び、犯人に金を渡すなどの便宜を図り、その見返りにスクープ報道の材料となる情報の提供を受けていた。

    川本はさらに犯人から犯行の唯一の物証である「警衛腕章」を受け取り、同僚記者の妻にこれを託し、1971年9月上旬に朝日新聞社高井戸寮の焼却炉で灰にさせていた。

    このほか、『週刊プレイボーイ』の記者(当時26歳)が犯人への取材に際して「警察の逮捕は近い」と教えるとともに逃走資金1万円を渡していたことも判明した。このため、両人は1972年1月9日に犯人蔵匿及び証拠隠滅の罪で逮捕された。

    首謀者とされた滝田修(当時京都大学助手)は無実を訴え、新左翼活動家の支援を受けて地下に潜行したが、約10年後の1982年(昭和57年)8月8日に逮捕された。

  6. 【4171031】 投稿者: へ?  (ID:A0wkH1IVu92) 投稿日時:2016年 07月 06日 09:06

    あら征夷大将軍さんの狂乱ぶり書き込み
    自ら削除申請なさったの?


    パレスチナ解放に日本赤軍が関与したことで
    イスラエルを敵視していたアラブ人は
    日本人に一目置いていた人間もいたことでしょう。

    しかし所詮、暴力は暴力でしか解決しかできないことを
    自ら証明していることに気が付いていない左翼連中は
    テロを弾圧するブルジョアジーが腹が立って仕方ないのでしょう。

    自分も高学歴のボンボンなのに・・・

  7. 【4171589】 投稿者: へ?  (ID:A0wkH1IVu92) 投稿日時:2016年 07月 06日 16:58

    ザ・ボイス そこまで言うか! 飯田泰之 2016.7.5


    バングラデシュ事件について日本赤軍みたいだって
    話しておられます。

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