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品薄&高騰なのに米の輸出量『約8倍』の目標
石破総理が語る農林水産物等輸出促進の意義
令和6年12月20日、農林水産物等輸出促進全国協議会の総会が開催され、その場で石破総理がビデオメッセージを通じて挨拶を行いました。
石破総理は、過去最高の1兆4,500億円を超えた農林水産物・食品の輸出額を誇り、日本の食文化を海外に広めるために尽力された方々に深い敬意を表しました。
輸出拡大に向けた取り組み
日本の農林水産物や食品の魅力をさらに引き出し、海外で更なるファンを増やすことが重要だと総理は強調しました。
日本国民は安い輸入米を食べなさい!と
総理大臣は言ってますか?ね(悲)
アメリカは鳥インフルエンザの影響で卵が1個150円で高すぎて買えない状態になっているとか
需要と供給のバランスを考えるのは農水省の役目
世界にお金をばら撒き今度は主食をばら撒き出した日本政府
ダボス会議の常連であるビル・ゲイツ氏が提唱したものですが、大豆などを加工した人工肉や家畜と比べCO2の排出量が少ない昆虫食を普及させる絶好のチャンス
石破総理の次は河野太郎だとすると打開策はコオロギ食
日本でコオロギの養殖に取り組んでいたベンチャーが二社、倒産しました。orz.
魚やエビ・タコなどの陸上養殖が盛んになりつつあるので、それのエサとして昆虫は有望だと思います。養殖魚の餌として従来よく使われてきた魚粉の値段が上がっていますので。
コメが不作になっても、カリフォルニア米(日本で人気のあるコシヒカリなどよりは大粒ですこし食味がおちる)やタイ米(フライドライスにすればおいしい)でも輸入すれば、飢えることはないでしょう。
日本の米の輸出量
2024年1~10月で93億円対前年同期比で24%増加
1~7月の輸出量は、前年同期比23%増の2万4469トン(過去最高)
重要⇒政府の補助金にひも付けられた輸出用は国内向けに転用できない!!
国・地域別では、香港向けが7163トンで最も多い。
米国の4638トン、シンガポールの3554トン
2023年の輸出量は3万7186トンで、10年前の約12倍である。
農水省は18年産から減反政策をやめた後も、生産量を抑えてきたが、輸出用には10アールあたり最大4万円の補助金を支払って、作付け転換を促している。
補助金を交付したコメは用途が決められている。
国内向けに出荷した場合は、補助金の返還が求められている。
【日本のコメの輸出量】
2015年:7,640トン
2019年:17,381トン(対前年比26%増)
2020年1~5月:8,493トン(対前年同期比33%増)
2024年1~10月:93億円(対前年同期比24%増)
【日本のコメの輸出先の例】アメリカ、香港、シンガポール、 台湾。
【日本のコメの輸出量目標】
農林水産省は、2030年までにコメの輸出量を35万トンに増やす目標を掲げています。これは2024年の輸出量の約8倍に相当します。
岸田政権下の農林水産省は、昨年の6月21日、堂島取引所(大阪市)が申請していたコメの指数先物の本上場を認可しています。
商品先物取引法によって「十分な取引量が見こまれる」という基準をクリアできると農水省が判断したとのこと。
安倍政権下では、コメの先物取引に慎重な態度をとってきたのが自民党である。
現在は、農協が価格を提示するという慣例は崩壊している。先物取引が活発になり、価格決定権が奪われた状態にあることである。
農協を支持基盤とする自民党、岸田政権下は、日本人利益よりも、外国勢力の言いなり(LGBT理解増進法も決定)になったことで、少数与党への道を今に舵を切ったのである。
堂島取引所(当時は関西商品取引所)は、民主党政権下の2011年から、コメの先物取引を「試験上場」として続けてきたという歴史がある。
新潟コシヒカリなどを対象にし、21年7月には「本上場」を申請したが、農水省は認可しなかったのである。
米価は低迷したままだったが、日本人の主食である米価の安定価格は日本人の体力を保全するという要だ。
銘柄の多くを含む指数取引という手法を使うことできて新規参加者が使いやすくなったのである。
この新規参加者(参入者)の裏事情として、中国・大連でコメの先物取引が活発になっている背景も知っておく必要があるだろう。
これから、カリフォルニア米やタイ米の美味しい食べ方を
地上波や動画であげる人が増えるだろう。
食に貪欲な日本国民は如何に輸入米の美味しい調理方法を研究してくれるだろう。
ちなみに噂であるが、外国産は輸入米と自国消費米とでは、農薬散布の量を変えているらしい。
これが嘘であると思いたいが、日本はお注射同様、実験国である。これは原爆投下から実験国として、いいように使われている気がする。
日本の強い指導者は暗殺された。
この代償は大きいことをリベラル左翼陣営は、よく理解していないのだということである。