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【4096377】「日本共産党史」から消された「朝鮮総連」結成秘話

投稿者: そうだったのか?   (ID:VXkYNn.aGsQ) 投稿日時:2016年 05月 04日 07:37

1922年(大正11年)の創立時から、共産党は植民地解放の方針に基づき、朝鮮の独立を綱領に掲げた。コミンテルン(共産主義インターナショナル)の方針で、1930年代以降、日本在住の朝鮮人共産主義者は、日本共産党に所属した。

ちょうど在米中の片山潜がアメリカ共産党に所属し、在仏中のホー・チミンや鄧小平がフランス共産党に入党したのと同じである。
戦前から、日本共産党のもとに多くの在日朝鮮人が集っていた。
例えば、共産党系の労働組合の全協(日本労働組合全国協議会)は、最盛時の1931年(昭和6年)ごろ、組合員数は3万人だったが、うち3割を朝鮮人が占めていた。
1945年(昭和20年)、敗戦の年の10月、徳田球一(沖縄県出身)ら共産党幹部が、府中刑務所を出獄した。
その際、<歓迎 出獄戦士 万歳>の幔幕を掲げ、熱狂的に出迎えたのは、数多くの朝鮮人だった。

その後、催された歓迎大会の会場を設営したのもまた朝鮮人党員である。
彼らが待ちわびていたのは、獄中15年の不屈の闘士、金天海であった。
金天海は在日朝鮮人から圧倒的な支持を集めていた。
 

結成当初、日本共産党の再建資金のほとんどは、当時の在日組織である朝連(在日本朝鮮人連盟)が提供している。このことは、党史には一行も触れられていないのはなぜなんでしょうね???





http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n118672



日本の政党の七不思議の一つ
語られない事実

報道しない権利の行使の一つ

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  1. 【4101981】 投稿者: 公職追放令は在日の復活祭  (ID:WymJkjB345s) 投稿日時:2016年 05月 08日 20:19

    日本が武装解除を行った後、アメリカ占領軍はポツダム宣言が「有条件条約」であることを無視し、無条件降伏したと主張して勝手に振る舞うようになった。占領政策はほとんどすべてポツダム宣言違反であり、国際法に沿わないことが行われたのである。そしてそのことが日本に”敗戦利得者”を生んだことを忘れてはならない。
    その占領政策の一つが公職追放令だった。
    占領軍はまず、ミズーリ号での休戦協定調印式から約1ヶ月後の昭和20年(1945)10月4日、「政治的市民的宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」を発表し、内務大臣、警察幹部、特高警察全員の罷免と再任用の禁止を指示した。
    これを見てもわかるように、最初に占領軍が行ったことは戦前の左翼を押さえていた機関に属する人を、一挙に追放することだった。これが占領軍が一番最初にやりたかったことなのだ。左翼を押さえた期間を解体することが、占領軍民生局の第一にやりたかったことだった。なぜならルーズベルトの周辺、とりわけ占領軍民生局は左翼の巣であったからだ。

    終戦直後、アメリカ側の定めたプレスコードによって、完全なる言論統制が敷かれ、占領軍の批判は一切できなくなった。
    戦後の占領下、GHQの命令によって国家の中枢となるべき20万人以上の日本人が、戦争協力者という名前を冠せられ公職から追放された。戦前、少しでも重要なポストに就いていた者であれば、戦後は公職についてはいけないという指令だった。これは実業界にも波及したが、最も悪い影響を受けたのは学界、言論界だった。

    公職追放令は、占領軍民生局のホイットニー局長とケーディス次長が中心となり、その右腕だった外交官ハーバート・ノーマンらによって発せられた。ホイットニーもケーディスも社会主義者であったことが今では明らかになっている。ハーバート・ノーマンは後にコミンテルン(ソ連)の工作員であったことが判明し、裁判にかけられそうになって自殺した。彼らが、公職追放令によって、戦前、少しでも筋の通ったことを言ったり、日本のことをよく言った歴史学者や法律学者、経済学者たちを一掃した。
    同じ昭和20年(1945)10月22日、占領軍は「日本の教育制度の運営に関する覚書」を出し、10月30日には「教職員の調査、精選、資格決定に関する覚書」を発して、軍国主義者や極端な国家主義者、占領軍政策反対者等を教育事業から排除するように命じ、また現在および将来の教員の資格審査を行うよう命じた。翌年5月7日には、「教職員の除去、就職禁止及復職等の件」がポツダム勅令として公布され、いわゆる「教職追放令」が行われている。
    さらに占領軍は、幣原喜重郎内閣が計画していた戦後最初の総選挙の実施を延期させたうえで、1月4日に包括的な公職追放をすることにした。「好ましくない人物の公職よりの除去に関する覚書」を発したのである。
    その覚書は追放すべき人物を、
    A項 戦争犯罪人
    B項 職業軍人
    C項 極端な国家主義団体などの有力分子
    D項 大政翼賛会・翼賛政治会・大日本政治会などの有力分子
    E項 日本の膨張に関係した金融機関ならびに開発機関の役員
    F項 占領地の行政長官など
    G項 その他の軍国主義者および極端な国家主義者
    に分類した。
    そして該当する人物は、中央・地方の官職と関係の深い特殊会社や団体などの役員、帝国議会議員とその候補者などになることを禁じたのである。この影響によって、幣原内閣の大臣5人が辞任した。そして、その年の4月に予定していた総選挙では、多くの議員が立候補できなかった。
    さらに占領軍は一般的な措置だけでなく、政治家、官吏、教員などを名指しで追放するということも行っている。その典型的な例が、総選挙で勝って次の首相になると目されていた日本自由党総裁の鳩山一郎の追放だった。
    その後も公職追放は拡大、強化されて、その範囲は地方政界、一般財界、言論界などのますます広がっていった。昭和22年(1947)には、有力会社、新聞社なども追放範囲に含め、追放された者が身代わりを立てるということも禁止された。その結果、約20万6千人が公職追放の対象になった。
    つまり公職追放令とは、敗戦でも何とか生き残った、戦前の重要なポストについていたというだけの人たちが、今こそ日本を復興させようとしたのを根こそぎ排除した政策だったのである。
    公職追放令が及ぼした影響は、A級戦犯と桁違いだった。20万人以上が追放されたということは、その影響を周囲の人たちも受けているということである。その典型的な例が、鳩山一郎や後に首相となる石橋湛山(たんざん)だった。
    財界人では松下幸之助も追放されている。彼が「極端な国粋主義者」であるわけがない。しかし松下電器産業は戦争中、すでに大きな会社だったので、軍の命令により木製飛行機を作っていた。それを軍需産業だと言われて公職追放になったのだ。
    追放された人たちは、公職、教職ばかりか、ものを書くのも許されないから、百姓をやるしかなかった。
    名指しで追放されるのだから、立候補する資格のある議員などは皆、震えあがった。借りに立候補しても、いつ、誰が追放の指名をされるかわからない。皆臆病になってしまった。
    このような日本が腰ぬけになった状態の中で、新憲法を作ることを命じられ、教育勅語が廃止されたということを我々は忘れてはならない。あんな状態で日本が自主的な憲法を作れるわけがない。

    ここで重要なのは学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。公職追放令の中心になった人は、ハーバード・ノーマンである。
    戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。この人たちが、敗戦日本における公職追放令の後、真っ先に戻ってきたのである。そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。
    そして、後に新しくできた大学の教授を排出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。戦前ならば、天皇陛下の大学にふさわしくないと批判された人たちである。
    彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした影響は大きい。

    その結果空いた重要なポストを戦前の左翼およびそのシンパが占めることになった。彼らが占めた地位は、大学教授やジャーナリストなど、長続きするような地位だった。
    東大、京大、一橋大など、日本の主要大学の総長、学部長クラスの多くが、占領軍の民生局による公職追放令によって空いた席にポストが与えられた。こうして大学社会は、多くの教授たちを追放した挙句、完全に左翼、共産主義者たちの手に握られてしまった。彼らが戦後、日本中に数多く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。そうした教授連中とその弟子たちがアカデミズムやマスコミ界の牙城に君臨し、教壇の上から、またマスコミによって「南京大虐殺」などのデマが広まってしまった。日本の主要大学のトップの多くは左翼が居座り、以後もそれがずっと続くことになる。
    彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから、高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。また高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育された。

    このような現象は、言論界でも大新聞社においても同様に起こった。戦前、骨のある記事を書いたような人たちは皆、公職追放令によって切られてしまったのだ。

    焚書とともにこの公職追放令により登場した「赤い教授」の代表者は以下の通り。

    南原繁
    「神よ、日本の理想を生かすために、ひとまずこの国を葬ってください」などとほざいたために東京大学を追放されていた。戦後は東京大学に復帰し、総長の地位まで上り詰めた。また、「全面講和」を主張し、「非武装中立論」を唱えて、首相の吉田茂から「曲学阿世の徒」と罵られた。当時、「非武装中立論」とは、ソ連に進駐してきて欲しいという容共派だった。

    矢内原忠雄
    立派なキリスト教徒と言われるが、支那事変が始まった昭和12年に、講演で「日本の理想を生かすためにひとまずこの国を葬ってください」とのたまって東京帝国大学を追放された。こんな人物が戦後に東京大学の総長になっている。

    大内兵衛(ひょうえ)
    第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられているが、敗戦後に東大に復帰し、法政大学総長になった。

    滝川幸辰(ゆきとき)
    京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのに、それを拒否したのでやめることになった。彼は弁護士になったが、日本の敗戦後は京都大学の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。滝川と共に辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職に就いた。

    一橋大学学長になった都留重人は明らかにコミンテルンの手先であったことを告白している。

    戦後はたくさんの大学が作られたが、そこに配属される教授たちの多くは上記の「左翼総長」や丸山真男、大内兵衛といった有名教授たちの息のかかった人たちだった。そいいう連中がみな共産主義思想に同情・共感していた。
    しかも、老教授が引退すると弟子が後を継ぎ、その弟子が引退するとそのまた弟子が残るという形で、南原繁や丸山真男の左翼思想が再生産され、後々まで残ってしまった。そういう教授たちに育てられたものだから、戦後日本は一挙に左翼的な社会になってしまった。

    1991年にソ連が崩壊するまで、大多数のインテリや学者たちはみんなソ連が怖くて仕方なかった。アメリカが再び孤立主義に戻ると日本から引き揚げてしまい、日本はソ連に占領されてしまう。そうなると自分たちは粛清の対象になる。それを避ける保身術としてアリバイ作りのために反日論評や運動を行なっていた。国費で高額な給料で養われていながら国家転覆の革命運動をリードしていたのだ。

    心機一転、一所懸命働いて祖国復興を目指そうというときに、職場から追放されてはかなわない。こうして、真実を知る多くの人々が口をつぐんでしまった。

    このように我々が今、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。
    やがて公職追放令はどんどん緩んでいく。特に朝鮮戦争が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分が正しかったということになり、逆に、共産党幹部は追放せよということになった。実に滑稽な話である。
    マッカーサーが日本を離れた後はリッジウェー中将が最高司令官に就任した。リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。

  2. 【4108114】 投稿者: 徳球  (ID:VXkYNn.aGsQ) 投稿日時:2016年 05月 13日 06:39

    徳田要請問題というのをご存知だろうか?
    皆さんの祖父祖母がシベリア抑留経験者の日本人は多く存在している。
    1950年2月ソビエト連邦のシベリア抑留から帰還した引揚者の一部がの帰国が遅れたのは日本共産党書記長であった徳田球一の要請によるものだと主張した事件のことをいう。
    衆議院と参議院の各委員会で当事者が証人喚問され証言者が遺書を残し証言翌日に自殺したことで話題となった。
    「徳田要請」「徳田要請事件」とも呼ばれている。

    抑留引揚者のグループ「日の丸梯団」は日本帰国後の1950年2月12日徳田球一が引揚を妨害したとの主張を行った。その根拠となったのは抑留中、ソ連の政治将校が自分たちに対し「徳田球一がソ連政府に対し共産主義者以外と反動の抑留者は日本に帰国させるなと(書簡で)要請した」という主旨の講話を行ったというものであった。
    この件は政府やGHQに告発され当時レッドパージなど共産主義者や左派の運動に対する当局の弾圧が強まるなか共産主義者攻撃の格好の材料とされ政治問題化した。徳田球一については国会で証人喚問となり、この問題について証言させられたが「要請」の存在を自ら否定した。

    抑留時、ソ連将校の講話を通訳していた哲学者菅季治は、「要請」について否定も肯定もせず「将校の講話は(徳田の言葉の引用については)『反動分子としてではなくて、よく準備された民主主義者として帰国するように期待している』というものであった」という内容の手記を参議院に提出した。

    1950年4月5日に菅は衆議院に証人喚問される。
    「『要請』というロシア語を『期待』と訳したのではないか」
    と厳しい質問を浴びる。

    菅は質問を浴びた翌日鉄道に飛び込み自殺した。




    ・・・自殺かな?他殺(粛清)じゃない????? 

  3. 【4116221】 投稿者: マルクス主義の生徒  (ID:lDBlWwrkdp2) 投稿日時:2016年 05月 18日 21:48

    とくだ きゅういち
    徳田球一



    1894.9.12(明治27)~ 1953.10.14(昭和28)
    大正・昭和期の社会運動家、日本共産党指導者

     父・佐平の長男として生まれる。「球一」という名は「琉球一の男に」ということからの命名である。 沖縄県名護出身であるが、近所に住んでいた宮城与徳(17-1-21-16)は弟・正次の同級生であった。
     1920(T9)判検事登庸試験に合格し弁護士となり、同年日本社会主義同盟結成に参加、22モスクワの極東民族大会に出席。帰国後、日本共産党創立に参加、中央委員。 23新潟県の木崎村小作争議には浅沼稲次郎(18-1-3-12)らとともに運動に参加するも、いわゆる第1次共産党弾圧事件で検挙。 24日本共産党の解党決議後、党再建論をとなえ、中央ビューローの中心に。27(S2)モスクワに赴き〈27年テーゼ〉作成に参加、28総選挙立候補。 同年3・15事件で検挙され、以後法廷と獄内で18年間非転向で闘い通した。戦後出獄し直ちに党再建活動の中心、45書記長。 46以来衆院議員に選出された。翌年には同じく獄中で18年間戦い続けた同志・志賀義雄(25-1-76-1)と『獄中十八年』を共著。 また45に結成された沖縄人連盟には顧問として参画したが、このときの中央委員には松本三益(日本共産党幹部)がおり、人生の数奇を感じさせる。 その後、50マッカーサー指令で追放、非公然活動を行い、のち中国に亡命。
     毛沢東やスターリンと会談し支持を得る一方、伊藤律らとともに亡命指導部「孫機関」から武装改革をはかるが失敗。 53持病であった糖尿病が悪化し、北京で客死した。 55年までその死は明らかにされないが、同年9月13日に北京で追悼大会が行われ、三万人が参列したという。 遺骨は妻の徳田たつ(同墓)と志賀義雄の手によって帰国するが、ここ多磨霊園をはじめ青山霊園の革命戦士合同碑、八柱霊園(千葉県松戸市)の徳田家墓所に分骨されている。
     浅沼稲次郎は『回想の徳田球一』の中で次のように球一を評している。
    「合法、非合法は別として、社会運動家にとって必要なことは、その組織力であり、行動力であり、政治力であると思う。 徳田氏はこれ等を備えたすぐれたる指導者であったと思う。戦前、戦後を通じてこの組織力、行動力、政治力を備えた政治家は少ない」

    <コンサイス日本人名事典>
    <仲村顕様より情報提供>


    墓所


    *同墓所内には社会運動を共に行った岡田文吉の墓石が建つ。

    *同墓には妻であり社会運動家であった徳田たつも眠る。

    *日本での告別式では同郷先輩代表で東恩納寛惇(17-1-26)が弔辞を述べた。

    *妹で詩人の克子は矢野酉雄(参議院議員)に嫁し、娘・摩耶子は西澤隆二(日本共産党幹部)に嫁している。

    *1998(H10)郷里名護に記念碑が建立されたが、この建立に際しては自民、公明、社会党などは保革を越えて賛成をした。 但し共産党が賛成も反対もしなかったことを特筆しておく。

  4. 【4120101】 投稿者: 金天海と拉致  (ID:1y1zF05h90E) 投稿日時:2016年 05月 21日 23:14

    1952年、私は北朝鮮労働党連絡部長・金天海(キムチョンヘイ)の自宅を訪ねたことがあった。金天海は日本でもよく知られているように、終戦後、合法化された日本共産党の中央政治委員であった人物である。彼は1950年5月、朝鮮戦争勃発の約1ヶ月前に北朝鮮へ行っていた。彼は北朝鮮に行って、元南朝鮮民主女性同盟の幹部だった女性と結婚していた。その女性は南労党当時、私の部下だったので、ある日、訪ねていって昼食をご馳走になったのだ。
    その昼食の時、酒を飲みながら金天海は私とこういう会話をした。
    「朴同志、困ったよ。金日成は対日工作をするために、私に連絡部長をやれというんだよ。南朝鮮を併合するには、どうしても日本工作が必要だからね」
    「対日工作とはどういうことですか」
    「それが難しいことばかりだよ。新編の日本軍と国会議員を包摂せよとのことだよ。それに朝鮮人連合会を再編して、工作員と資金をつくれというのだよ。」
    金天海はかく語った。
    私より20歳も年上の金天海が、初対面の私にこんなことをいうのは理由があった。
    それは、私と彼は慶尚南道の同郷であり、彼の妻が元南労党員で、私の経歴を彼に話したことだけではなかった。
    戦前、彼が朝鮮共産党日本総局の活動をしていた時、いちばんの親友である朴洛鐘(パクラクジョン)が私の生まれ故郷の先輩で、朝鮮戦争勃発の時、木浦(モクボ)刑務所で韓国軍に銃殺されたことなどを私が詳しく話したことなどから、彼のなかに私への情ができたからであった。
    自衛隊員と国会議員を包摂する資金と工作員は、朝鮮総連を利用せよとのことであった。ちょうどこの時期が、韓徳銖(ハントクス)が日本共産党から離れ、在日朝鮮人を金日成政権の公民として、金日成に忠誠を誓わせるころだったようである。韓徳銖は在日朝鮮人の生活擁護のためではなく、金日成のとめに、対日工作のために、朝鮮総連を組織したのであった。それゆえ、彼の金日成に対する個人崇拝は、朝鮮国王様に対する以上で、在日朝鮮同胞を金日成の臣民、忠民へと教化してしまったのである。そしてその韓徳銖自身も、平壌に渡って、3ヶ月か6か月間、特殊訓練を受けていた。
    金天海と韓徳銖によって対日工作が始まり、これが日本の深部にまで浸透し、その結果、金日成をして核兵器とミサイルをつくらしめ、日本国民が拉致されても、日本政府は25年間も放置してしまうことになったのである。
    金日成の対日浸透を図式化すれば、まず社会党の幹部を買収して友党とする。保守与党である自民党幹部には直接手をつけられないから、社会党を触媒として利用し、これに接近したのであった。ちょうど自社の55年体制時で、自社が癒着する時期であった。北朝鮮と日本政府・与党との仲介は、すべて社会党の手によってなされた。社会党の背後には韓徳銖の朝鮮総連がある。日本を破壊しようとする朝鮮総連主催のパーティには、社会党の幹部のみならず、与党自民党のボスが行って祝辞を述べても、誰も疑わなくなってしまった。日本政府における韓徳銖の地位は、駐日韓国大使の比重に勝るものがあったといっても過言ではなかった。
    韓徳銖が在日朝鮮人を搾取して、大金を金日成に運んでも、信用金庫(朝銀)の金を金日成に献金して、この銀行自体を倒産させても、日本政府は、日本国民の税金で補填するようになってしまった。民間人が批判しても馬耳東風である。

    金天海(ウィキより抜粋)
    金天海(キム チョンへ、きん てんかい 1899年5月10日 - 没年不明[1])は、在日朝鮮人の左翼活動家。在日本朝鮮人連盟最高顧問。日本共産党中央委員。本名は金鶴儀(キム ハギ、きん かくぎ)。 「天海」は僧名。大韓帝国(後の大韓民国)慶尚南道蔚山郡出身。日本大学中退。
    1922年冬、朴広海へのまたいとこからの紹介状と、密教系大学への朝鮮仏教会からの推薦状を持参して来日し、大阪市梅田の朴広海を訪ねた。
    同年春、朴広海も東京に出た。朴は東京駅で巡査に拘束されたが、金天海を訪ねる予定であることを話すと、巡査が電話をして調べ、すぐに金の住所を教えてくれた(警察は、多くの朝鮮人の住所を調査・把握していた)。朴は、金が住む下谷の長谷惣一宅を訪ねて、金と再会した。金天海は共産主義者になっており、労働者のストライキを見たり、堺利彦や山川均の書物を読むなどしていて、「朝鮮が独立するためには、日本の帝国主義を打倒しなければならない。打倒するためには、日本人労働者と結束して、革命を起こすしかない」という結論に達していた。金と朴は、長谷惣一宅で共同生活を始めた。
    同年7月15日、暁民会、水曜会、建設者同盟などが連合して、日本共産党(第一次共産党)が結成された。同月、信濃川朝鮮人虐殺事件が発生した。
    1923年5月、朴広海は東京を離れ、ソビエト連邦を目指した。朴は、故郷の咸興から豆満江の中国との国境を抜け、満州を経て、ソ連に密入国した。朴は資金稼ぎのために阿片栽培を手伝いながら、ソ連を見聞した。
    同年、朝鮮共産党日本総局東京西南部ヤチェイカの細胞員となった。
    1945年8月15日、日本が無条件降伏を受け入れると、金天海は面会に来た朝鮮人に金斗鎔と連絡をつけるように頼んだ。金斗鎔は金天海と面会した。金斗鎔は、朴恩哲、金正洪、宋性澈、曺喜俊らの在日朝鮮人とともに、日本人共産主義者に呼びかけて「政治犯釈放促進連盟」を結成した。金斗鐙が委員長となった。その後、思想検事が金天海の元に来て、治安維持法が廃止されていないことを理由に、予防拘禁を更新しようとしたが、金天海は、「日本の敗戦により自分はすでに独立国朝鮮の公民である」として思想検事を追い返し、即時釈放を要求した。
    同年9月10日、在日本朝鮮人連盟(略称は朝連)中央準備委員会が結成され、新宿角筈の朝鮮奨学会に、事務所を開いた。政治犯釈放促進連盟事務所も、朝連中央準備委員会事務所に置かれた。朝連中央準備委員会は、日本共産党の再建のための集会費、自動車代、印刷代などの費用を援助した。
    1947年10月、ダグラス・マッカーサーは、日本政府に対して、「在日朝鮮人を日本の教育基本法、学校教育法に従わせるよう」に指令した。1948年1月24日、日本政府は、各都道府県知事に、朝鮮学校の閉鎖と在日朝鮮人生徒の日本学校への転入を通達した(朝鮮学校閉鎖令)。これを切っ掛けに阪神教育事件が勃発した。
    同年9月16日、日本共産党は党本部にて在日本朝鮮人連盟などの団体等規制令による解散に対する緊急対策会議を開催、翌17日には2日間に渡り在日本朝鮮人連盟などの団体等規制令による解散に対する日本共産党朝鮮人部拡大全国会議を開催した。会議の冒頭では金日成のメッセージが朗読された。金天海らはGHQと法務省に抗議をおこない、朝連などの解散撤回と公職追放撤回を求めたが却下された。金天海はこのころ、共産党幹部・長谷川浩と同幹部・岡田文吉と常時連絡を取っていた。

  5. 【4137683】 投稿者: 関係図  (ID:4Lw9e4dxtQc) 投稿日時:2016年 06月 06日 09:18

    北朝鮮を母国とする朝鮮総連の人達は、朝鮮半島の北部出身者だと勘違いしてはいませんか? 

    実はほとんどの人が南部出身なのです。貧困にあえぐ多くの人が、韓国政府による事実上の棄民政策と、左翼勢力の大量宣伝に乗せられて北朝鮮へ帰国していきました。

    しかし北朝鮮の実態が「地上の楽園」から「この世の地獄」と明らかになっても、北を支持し続けざるをえませんでした。ここに、この問題の複雑な所があります。

    また、彼らの帰国 (日本人もいた)に少なからぬ影響を与えた日本のマスコミ・進歩的文化人は、世の指弾を受けねばならない時がいつか来ることでしょう。




    「朝鮮総連と収容所共和国」 李英和 1999年 小学館文庫


    当時の日本共産党は、武装闘争のせいで、支待者を大きく失っていた。そんな共産党にとって、元党員を含む在日朝鮮人の存在は大きかった。家の軒先に選挙用のポスターを貼るにも在日朝鮮人はこころよく応じた。共産党と労働党・朝鮮総連との友好協力関係は、77年頃まで続く。日本政府は、治安維待の観点から、この左傾化した在日朝鮮人運動を嫌った。そんなときに、北朝鮮政府と朝鮮総連の主導によって帰国事業が始められた。日本政府にとって、「渡りに船」の出来事だった。「厄介者払い」ができるからである。帰国事業に対する日本政府の積極的姿勢。そこには、こんな経済的、政治的な思惑が込められていた。

    なお、この積極的姿勢を指して、日本政府による「民族浄化」政策だった、と主張するむきもある。だから、帰国者の悲惨な運命に日本政府と日本赤十字社が相応の責任を負うべきだという。こんな奇論を、帰国事業を担当した朝鮮総連の元幹部が待ち出した。韓国の一部言論機関も、さも大発見であるかのように、これを書き立てた。見当違いもはなはだしい。たしかに、帰国者が向かったのは「南」でなく、「北」だった。日本政府も費用面で援助をした。

    だが、韓国政府が棄民政策をとらず、民団が帰国事業を実施していたら……。日本政府は同じように援助しただろう。行く先が「南」であれ「北」であれ、日本政府にとっては、どちらでもよかったからだ。何でもかんでも日本政府のせいにすれぱよい、というものではない。これを聞いて誰より驚くのは、北朝鮮当局であり、朝鮮総連だろう。帰国事業は、北朝鮮政府が立案し、朝鮮総連が音頭を取った。日本政府は何らの強制措置も採らなかった。日本赤十字社は、帰国希望者に対し、「自由意思」によるものかどうかをチェックした。韓国政府と民団が、帰国事業の実施に反対し、「人道に反する」と抗議活動を行っていたからだ。このことに疑いをはさむ余地はない。

    実際、「帰国要求運動」はすさまじかった。「熱病」のような勢いで日本全土の在日朝鮮人を覆った。「帰国熱」の伝播は、北朝鮮当局と朝鮮総連によって、用意周到に練リあげられたものだった.。まずは、13回目の祖国解放記念日(58年8月15日)に合わせ、神奈川県で朝鮮総連が帰国希望の手紙を金日成首相(当時)に送った。同県は韓徳銖(ハンドクス)議長のお膝元だった。これを受けて、金日成は高らかに歓迎演説をする。58年9月9日、10回目の北朝鮮建国記念日のことだ。演説内容は、帰国の援助と帰国後の生活保障だった。これで帰国熱に一気に火がついた。帰国の早期実現を求める集会が、全国各地で開催される。その回数は二千回以上にのぼった。

    北朝鮮の楽園ぶりを紹介する宣伝物が、在日朝鮮人家庭に洪水のように配られる。地方自治体への請願活動も活発に行われた。早期実現を求める自治体決議が続々と採択される。その数は、46の都道府県、290の市区町村に及んだ。日本の左翼・進歩的知識人やマスコミも、率先して帰国運動の援護射撃を引き受けた。なかでも有名なのが、寺尾五郎氏の北朝鮮訪問記(『38度線の北』新日本出版社)である。紙の銃口からは、「人道主義」と「社会主義賛美」の銃弾が、雨あられと撃ち出された。北朝鮮政府は素早く、日本政府との交渉をまとめた。熱病が冷め、集団催眠が醒めてしまわないうちに、トボリスク号とクリリオン号のソ連船二隻を配船した。1959年12月14日、凍てつくような冬の日である。
    (中略)
    背中を押されるようにして、約10万人が永住帰国した。また、在日朝鮮人の家族として6000人余りの日本人も船上の人となった。ところが、帰国者を待ち受けていた運命は… 「温かい歓迎」どころか、祖国の「ひろい懐」で、労働党と現地住民の"狭い心"にさいなまれた。差別と監視の"洗礼"を受け、密告と粛清の対象とされた。日本での朝鮮人差別から逃れたい。日本では発揮できない知識や技術を祖国に役立てたい。そんな純粋で崇高な思いは、完全に裏切られた。帰国者の夢と希望は、北朝鮮当局の空約束によって、ものの見事に打ち砕かれる。実態は、国家ぐるみの大々的な「詐欺事件」であり、「殺人事件」だった。帰国者の居住地と職場は、労働党によって一方的に決定された。本人の経験や能力、夢や希望とは、まったく無関係だった。

    また、「日本出身者」という埋由で、労働党への入党は難しかった。70年代までは、庶民にとって党員への近道である人民軍への入隊も拒否された。信用ならない連中だから、というわけだろう。もっとも元日本共産党員は別扱いだったようだ。党員証を持っていれぱ、自動的に労働党員になれた。だが、元日本共産党員であることが、のちにかえって災いを招く結果となった。粛清時に、"宗派分子"の汚名を着せる格好の口実とされたからだ。

    必然的に帰国者の生活は苦しくなる。売り食いに次ぐ売り食いの末、とうとう日本からの"仕送り"で生き廷ぴるしかなくなった。ほとんどの者は「生き甲斐」を失い、その日その日を、ただ生きるだけとなった。もちろん、例外もいる。一握りの朝鮮総連の大幹部の肉親がそうだ。留学中、私はそんな人物に出全ったことがある。朝鮮総連の韓徳銖議長の甥っ子だった。彼は破格の待遇を受けていた。私の留学先の社会科学院に勤める研究者だった。だが、仕事もしなければ、勤務先にもほとんど顔を出さない。それでいて、一般の帰国者とはかけ離れた生活ぶりだった。金正日御用達の煙草(ロスマンズ)を吸っては、日本製の自家用車を乗り回す。特別待遇と多額の仕送りのたまものである。

    なにより帰国者の気持ちを重くし、暗くさせたのは、日本出身者への厳然たる差別の存在だった。地方の工場や拡山、農場に強制的に分散配置された帰国者たち。この元在日朝鮮人は、"キポ"(帰胞)や"チェポ"(在胞)とさげすまれた。

  6. 【4143431】 投稿者: 拉致奪還  (ID:fV1MWPx5wt.) 投稿日時:2016年 06月 11日 00:36

    朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を統治する朝鮮労働党について
    党是
    韓国(南朝鮮)の暴力革命とそれを通じた南北統一を永らく追求し、そのための様々な対韓工作機関を設置した。
    これらの機関の中には暗殺、テロ、破壊工作、拉致などの非公然活動を担当する部署も設置することになる。

    ①労働党作戦部 
    この部局の主要な任務は、非合法活動の訓練を施した工作員を韓国や日本に潜入させ、時には非合法の武力を伴う対韓活動を実行することである。
    作戦部は特殊な軍事訓練を受けた工作員、戦闘員3000人の部隊を擁し、海上および地上の出撃基地を備えている。
    2001年12月に日本巡視船に追跡され、東シナ海の日本の排他的経済水域内で日本の海上保安庁巡視船と交戦の末沈没した「不審船」は、作戦部の海上出撃基地である南浦連絡所から出航した工作船であったと言われている。
    拉致された横田めぐみさんが教師をしていたと伝えられる工作員養成所の金正日政治軍事大学も作戦部の管轄下にある。

    ②労働党対外連絡部  
    北朝鮮で最初に作られた対韓工作機関で、設立当初は南朝鮮労働党出身の活動家を主要な工作員として抱え込んでいた。戦後初期の日本共産党政治局員で1950年にGHQに追われ北朝鮮に逃げた金天海(宮崎学の著書で取り上げられている)は、1957年当時、連絡部の部長を勤めていた。
    連絡部の任務は、韓国や日本に工作員を潜入させ、韓国内における地下秘密党やスパイ網を組織することである。
    日本ではやくざ組織とも連携し、麻薬密売等の非合法活動も行っていると言われている。

    ③労働党対外情報調査部
    この部の主要な任務は情報収集と国際的なテロ活動や破壊工作である。
    韓国内での政治経済、軍事、社会の情報の収集のため、日本や韓国、諸外国に長期間潜伏し、現地で協力者を獲得して秘密活動を遂行している。
    1987年1月に起きた大韓航空機爆破事件の実行犯金賢姫も、航空機爆破の任務を受ける前には、当時ポルトガルの統治下にあった中国のマカオに潜伏し、秘密工作を行っていた。
    この機関の行った犯行としては、上に上げた大韓航空機爆破事件、1978年に実施された韓国の映画監督申相玉とその夫人で女優の崔銀姫を香港から拉致した事件が有名である。
    1978年7月に行われた蓮池薫さんたちの拉致も調査部の犯行と言われている。

    ④統一戦線部
    この機関は、韓国に対する半合法的工作、即ち、南北の統一を支持する急進的な学生や宗教人を取り込み、北朝鮮で行われる国際的な集会に参加させるなどの工作や、朝鮮総連を指揮して民団系人士の獲得工作などを行ってきた。
    代表的な事例として、1989年に平壌で行われた第13回世界青年学生祭典に、韓国の大学生自治組織全大協代表として女子学生林秀卿を参加させた工作がある。尤も、林秀卿は統一戦線部の思惑を超えて行動し、北朝鮮大学生による歓迎集会でジーンズにTシャツ姿で演壇に立ったり、「私とデートしたい人はいますか」と呼びかけるなどして、居合わせた幹部達をはらはらさせたという。
    統一戦線部は5個の部署が設置されており、そのうちの海外担当課が朝鮮総連の指導にあたっている。
    これら党直属の機関以外に、人民武力部(朝鮮人民軍)に属し、党対南担当書記の指揮を受ける以下の二つの特殊部隊が存する。

    ⑤人民武力部総参謀部調査局
    1967年3月、朝鮮人民軍総参謀部偵察局内に、ゲリラ戦を専門とする第124部隊が創設された。
    1968年1月21日、第124部隊のゲリラ31名が朴正熙大統領(当時)交戦の末、28名が射殺された。
    1968年11月、第124部隊の隊員224名が韓国領内に侵入し、住民の宣撫工作を行うも、住民は帰順せず、住民の通報により出動した韓国軍との間で交戦となり、ほとんどの隊員が射殺された。
    1983年10月9日、ビルマのラングーンで、韓国の全斗煥大統領(当時)暗殺を狙った爆弾テロがあり、韓国の閣僚ら17名が死亡したが、このテロは偵察局所属の711部隊により敢行されたものであった。
    1996年9月、韓国に工作員を浸透させる目的で潜行していた小型潜水艦が韓国東海岸で魚網に絡まり座礁したが(サオン級小型潜水艦座礁事件)、この潜水艦は偵察局22戦隊所属のものであった。

    ⑥軽歩兵教導指導局
    この部隊は、北朝鮮で最も精悍、強力な軍団と評判のあった第8特殊軍団が1991年に解散され、それを基幹に新設された特殊兵団の総指揮部である。
    この兵団には陸軍の軽歩兵旅団、海軍の航空浸透旅団が所属し、韓国侵攻のときの後方でのゲリラ戦、破壊戦を想定して設立された特殊部隊である。
    その総兵力は48000人であり、北朝鮮軍の精鋭中の精鋭とされる。


    以上のような各種の工作機関が日本人拉致を含む様々なテロ、破壊工作を繰り返してきたわけであるが、では、こうした北朝鮮の機関の性格をどのように理解すべきであろうか。このような機関の存在、活動に北朝鮮という国家の本質が反映されていると解されるとすれば、ここに現れている北朝鮮という国家の本質とは、どのようなものであろうか。
    私見によれば、北朝鮮という国家は、3つの側面から成り立っている。
    第1に共産党(朝鮮労働党)によって創設された国家だということであり、第2に冷戦の最前線基地国家だということであり、第3に共産主義の教義からも逸脱した金一族の世襲国家だということである。

    第1に共産党という政治集団は、革命(=既存秩序の強力的転覆と新たな革命社会の強力的創設)という理念を目的意識的に追求する極めて特殊な集団であり、こうした政治目的から、既存秩序の社会に対する「非合法的」で暴力的な活動と既存秩序転覆後の上からの「超法規的」で暴力的な「新社会」創設活動、総じて革命前と革命後の双方におけるテロリズム的政治手法の常態化に至るのがしばしばであった(少なくとも理念的に抑制が効きにくい)。

    一例を挙げれば、ロシア革命前のボルシェビキが資金調達のために銀行強盗を働いていた(その責任者がスターリンであった)ことは有名な話であるし、革命達成後の共産主義諸国における粛清という名の赤色テロルの嵐については、今更説明を加えるまでもあるまい。

    第2に北朝鮮という国家は、分断国家の一方として、冷戦の最前線基地という性格を持ち、このため、国家全体が遊撃国家化・要塞国家化されることとなった。しかも、冷戦という「戦い」は核戦争の恐怖から全面戦争には転化しえず、そのため、せいぜい局地戦、ゲリラ戦、階級闘争、宣伝戦等々の次元で戦われることとなったが、その局地戦、ゲリラ戦、宣伝戦の舞台とされたのが、東西ドイツ、南北ベトナム、南北朝鮮という分断国家であった。

    このように、共産党国家であり、かつ、前線国家であるという二重のくびきは北朝鮮に長期間にわたる政治的緊張を強いることとなったが、これに加えて、北朝鮮の後ろ盾であったソ連と中国が中ソ論争以降対立を深めることとなり、このため北朝鮮はソ連と中国と双方の間のバランスをとらざるを得なくなり、北朝鮮をめぐる政治環境は更に緊張を深めることとなった。また、かっては経済建設で水を空けていたはずの韓国との関係においても、韓国が朴正熙政権下で奇跡とまで言われた経済成長を遂げて北朝鮮を追い上げ、更には逆転するにいたり、北朝鮮はこの面からも追い詰められていった。

    こうした極度に緊張した政治環境の下で、北朝鮮はその国家的自立と統一を維持するため、言い換えれば、金日成独裁下の労働党一党体制を維持するため、極度の強権体制で国内を引き締め、金日成の個人崇拝を推し進めたが、これに加えて、おそらくは、金日成亡き後の政治的動揺と体制的変質を未然に防止するという目的で、北朝鮮の第3の国家的特質たる権力継承の世襲化(金王朝化)に踏み切った。1974年2月、金正日は朝鮮労働党政治局員に選出され、更に1975年2月には朝鮮民主主義人民共和国英雄称号を授与されて、後継者としての地位を不動のものにした。

    しかし、ここに至っては、北朝鮮の政治体制は、共産主義という元来のイデオロギーにさえ真っ向から反する一種異様なものとならざるを得ないから、およそこの段階以降、北朝鮮の政治体制は、イデオロギー上も実際の統治上も無理に無理を重ねたものとなり、そうした窮地を強力的に突破しようとして、更に強権的手法やテロ行為に走るという悪循環に嵌まり込んでいったように思われる。この時期以降、北朝鮮は金正日の後継に賛成しない人や疑問を抱く人たちを「不平不満分子」として労働党から追放する一方、国民に対する監視と思想統制を一段と強めていった。反体制派を収容するための「特別独裁区域」と呼ばれる政治犯収容区域が数多く作られ、何万という人々が収容所送りになった。自由主義的傾向の強い日本からの帰還者もこの時期に多くが収容所送りになったと言われる。

    金賛汀「拉致」(ちくま新書)によれば、北朝鮮工作機関による日本人拉致が敢行されたのは、(1963年に発生した漁民寺越昭二さんの例を除けば)概ね1977年頃以降1983年頃までと推測されているが、これは、北朝鮮の体制が変質を重ね、ついに「世襲共産制」という世にもグロテスクな体制に変じた時以降のことということになる。

    日本人拉致が発覚したとき、多くの人はその行為の異様さに驚いたが、その中で、工作員の日本語教育のためならば北朝鮮の体制に理解のある在日朝鮮人にやってもらえばよいのに、どうしてわざわざ日本人を拉致してゆかなければならなかったのか理解できないという声があった。
    この点について、金賛汀「拉致」は、日本からの帰還在日朝鮮人が日本語教師に採用されなかった理由として、第1に、北朝鮮においては日本からの帰還者は「敵対成分」ではないがそれに近い「動揺成分」で「複雑な階層」とされており、国と首領に絶対的な忠誠心を持っていない人たちとみなされているので、機密性の高い対韓工作機関に採用するという考えが成り立ちにくかったこと、第2に、1970年代の特に金正日世襲化が進行した以降においては、北朝鮮の内情が在日朝鮮人の間で広く知られるようになり、朝鮮総連の幹部でさえ、労働党からの指示があっても自分や子弟を北朝鮮に帰還させなくなったため、在日の人たちの中から教師をスカウトしようにも人を確保できなくなっていたこと、を挙げている。

    この分析が正しいとすると、日本人拉致という行為を背後で規定していたのは、北朝鮮の階層社会化と世襲王朝化であったということになる。
    そして、この分析は、一般の人々が北朝鮮工作機関による日本人拉致と金父子崇拝に代表される北朝鮮社会の特異性との間に共通した要素を感じ取り、一括して批判の対象としている感性と、よく整合しているのではあるまいか。

    【参考文献】金賛汀「拉致」ちくま新書2005年6月10日第1刷

  7. 【4151846】 投稿者: ふーん  (ID:mlH9aqcfLaw) 投稿日時:2016年 06月 17日 21:54

    他の本とか個人サイトからの引用はもういいから、ご自身の意見を書いたらいかがでしょうか。

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