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【4177314】亡国の国 満州

投稿者: 無言   (ID:lDBlWwrkdp2) 投稿日時:2016年 07月 11日 14:01

満州国(1932-1945)は、清朝(1644-1912)滅亡後は中華民国の領土となったが、政情は安定せず、1931(昭和6)、柳条湖事件に端を発した満州事変が勃発、関東軍(大日本帝国陸軍)により満洲全土が占領された。
関東軍の主導のもと同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932年(昭和7年)、満洲国の建国に至った。
「満州」とは、地域名であり、もともと中国に清朝をうち建てた満州族(ツングース系民族・女真族)の故郷であり「清朝」は満州族がつくった最後の統一王朝であって、漢族は被支配民族だった。
異民族である満洲族の支配を漢民族が比較的容易に受け入れた背景には、清が武力によって漢族の前王朝「明」を制圧したのではなく、あくまで「明」の後を継いだことを前面に出していた事が考えられる。
1689年以降は国際的にも満州全域が正式に清朝の国土と定められ、1740年以降は漢民族が移入することを禁じた。
伝統的に、中国(当時の清朝)は東アジアにおいて覇権を握っており、「中華思想」に基づいて、歴代王朝の皇帝が天下を支配し、冊封体制の下で東アジアの国際秩序を維持するものと考えていた。
しかし、18世紀後半になると、西欧列強が次々とアジア諸国に手を伸ばし「植民地化」を進めた。「主人は白人で、黄色人種は召使いとなる」という「白人至上主義」がアジアを覆っていた。
キリスト教宣教師たちは、宗教的信念と戦勝国に属しているという傲岸さが入り交じった姿勢で中国社会に臨み、現地を支配して行った。 1839年には、英国が大量のアヘンを清国に売りつけようとしたことが発端となり、それを清国が拒むと圧倒的な軍事力をもって清国を叩いた(阿片戦争 1840-1842)。 

1899年、反西洋・反キリスト教を掲げる「義和団」が蜂起し、西欧勢力を攻撃しつつ北京に進撃すると、翌1900年、皇母西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、「八カ国連合軍」に北京を占領され、外国軍隊の北京駐留を認める「北京議定書」を結ばされた。 一方、ロシアもアジアに対し膨張主義をとっていた。
共産主義革命を経たロシアは、さらに「世界革命」を目指し、全世界を「赤化」(共産主義化)しようと、「南下政策」すなわち侵略を続けていた。
ロシアはそのどさくさにまぎれて満州を不法に占領し、そこに居座った。満州にロシアが居座ることは日本にとっても脅威だったので、日本はロシアを追い出すために、日露戦争(1904-1905)を戦う。

日本は日露戦争に勝利し、満州からロシアを追放すると共に、満州を清朝に返還する。日本はこのとき、満州における鉄道の権利と、遼東半島の租借権を獲得する。それは清朝からのお礼の意味もあった。

革命家の「孫文(そんぶん)」は、「日本と連携して近代的な独立国家の中国をつくろう」と意図し、1911年、「辛亥革命」を起こし、翌12年、中華民国(現在の台湾)を樹立、清朝が打倒された。

中華民国は、そのまま清朝領土の継承を宣言するが、実態は「各地域の軍閥による群雄割拠の状態」であり、新政府の弱体さに悩んでいた孫文は、やむなく「袁世凱(えんせいがい)」に大総統の地位を譲ってしまった。 満州には、「張作霖(ちょうさくりん)」の一家が統治者として支配していたが、そこには、国際条約のもと、権益を守るために日本の「関東軍」が駐留していた。

関東軍は当初、この統治者と共同路線を歩もうとするが、張親子は、条約を無視して満州の経済権益を日本から奪い取ろうとするなど、露骨な背信行為に出てきた。

それを目の当たりにした関東軍は、軍事行動を起こし、張の軍隊を満州から駆逐する。これが「満州事変」である。



孫文
張の軍閥政権は、まさに現在の北朝鮮のように「軍費を捻出するために広大肥沃な満州の土地を荒らし、民衆の膏血の7、8割は軍費に充てられ、商民の3割はついに破産した」と言われたほど酷い搾取を行なっていたので、日本軍による張の軍隊の駆逐をみた満州全土の民衆は歓喜した。
 
米国の新聞記者、ウォルター・リップマンも、「日本は激しい挑発に直面しながら、通常の国際的基準からすればきわめて忍耐強かった」と記述している。

当時のイギリス陸軍の元師も、「彼ら(日本)はひどい挑発を受けてきた。……彼らが満州で地歩を固めれば、それは共産主義の侵略に対する真の防壁となる」と述べた。

満州国では、皇帝が満州人であるだけでなく、大臣もひとり残らず満州人か清朝の遺臣だった。満州国はまだひとり立ちできる状態ではなかったので、日本はその建国をバックアップした。 

しかし、当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。

このことが、1933(昭和8)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となる。


日本の願いは、自立した近代的民主国家となった中国と共同して、この東アジアに、共存共栄の経済圏をつくり出すことだった。

また共に、西欧やロシアによるアジア侵略に対する防波堤となることだった。

満州国は、わずか13年間の王国だったが、世界史上、奇跡の国だった。

満州の総面積は、現在の日本の領土の約3倍。

かつて盗賊的な軍閥に支配され、搾取にあえいでいたこの地に、日本人は、鉄道、道路、港湾、空港のほか、上下水道、治山治水、電力供給など、様々な国土開発計画を実施した。

首都・新京は、じつに先進的な100万人都市として建設された。路面はすべて舗装され、東京にもなかった「下水道」が敷かれ、「水洗便所」が使用された。

また、以前は鍋・釜しか製造できなかった満州は、やがて自動車や飛行機まで製造する一大産業国家に変身した。 

治安がみごとに確立され、つぎには近代的な司法制度、法律が完備され、賄賂の悪習も追放された。
貨幣の統一もわずか2年間で達成された。日本人以外は字も読めない人々がほとんどであり、教育もなく、国家の理念すら理解されていなかったが、日本はそこに学校を建て、教育を普及させるとともに、病院を建て、風土病、伝染病を駆逐していった。

満州国では「五族協和」を掲げていた。

いろいろな民族の人々が、満州国の平和と繁栄にあこがれ、自分もそれにあやかりたいと競ってやって来た。そして彼らにより、この何もない原始的だった地が、きわめて短期間のうちに近代的な法治国家として成長した。 

建国以降、年間100万人を超える人々がなだれ込んだ。

1932年の建国時に約3000万人だった満州の人口は、終戦時の1945年には、4500万人以上にも増えていた。現在の日本の人口の約半分もの人々が、そこに暮らしていた。

もし今日の中国人が言うように、「当時の満州が略奪と虐殺の地獄だったなら」このような現象はみられなかったはずである。 

ヨーロッパの大思想家カントやモンテスキューは、哲学や法学の大著の中で、「中国人は嘘つき」と説く。

中国共産党は現在も、たとえば「日本軍による南京大虐殺」という「かつて自分たちが中国民間人に対して行なった殺戮」を、すべて日本軍のしわざと、厚顔無恥に叫び続けている。

なぜなら、去勢され、日本人としての気概を失ってしまった大和民族は、何を言っても謝らせ、搾り取ることが出来るからである。
(中帰連)


満州国の新京・日本橋町。満州国は、周囲からみると別天地であり、
様々な民族が年間100万人以上なだれ込み、共に国造りに励んだ。


もし日本が敗戦することなく満州国が存続していたら、満州国は間違いなくその後のアジアにおいて巨大な発展を遂げ、アジアの平和と繁栄に寄与する重要な国家となっていただろう。

1945(昭和20)、赤軍(ソビエト連邦軍)による侵攻を受け、日本降伏により満州国は崩壊。

ソ連の支配下となり、次いで中華民国に返還された。

その後の国共内戦における国民政府の敗北により、現在は中華人民共和国の領土となっている。 

黄文雄氏はこう述べている。

「大日本帝国は、80年にして人類史に計り知れない貢献を行ない、遺産をもたらした。負の遺産はほとんどない。『過去の一時期』に問題があるとすれば、それはただ、日米戦争に負けたことだ」 そして日本がそこに残した遺産は、その後の中国の重工業の90%を支え、中国の経済的基礎となった。

戦後の中国は、この満州国の遺産で食い繋いだ。豊満ダム完成後見学に来たフィリピン外相は「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカ支配下で40年が経過、住民の生活向上に役立つものは一つも造っていない。満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と語った。

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