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【5938181】ポツダム宣言

投稿者: 戦争終結が遅れた理由   (ID:Vg3nIfAxo8s) 投稿日時:2020年 07月 09日 01:37

天皇の地位を保証する。
ポツダム宣言の草案の第12条
「平和政策を遂行する芽が植え付けられたと確信するならば、これは現在の皇室のもとでの立憲君主制を含むこととする」とある。

天皇の地位を担保することを、指示したのは、知日派の駐日アメリカ大使、ジョゼフ・グルー氏
草案作成は、グルーの腹心ユージン・ドゥーマン氏。

グルーは天皇の地位を保証すれば日本は講和に応じることを知っていた。
知日派のグルーは、原子爆弾を使わなくても日本がソ連に戦争を終わらせるために仲介を依頼しようとしていることを傍受して知っていた。

しかし7/17に、バーンズ国務長官が天皇条項を削除することに賛成であるとのメッセージを送り、トルーマン大統領は草案にあった天皇の地位保全の部分を削除させた。

理由は、二つの種類の原爆投下したかったから。
日本人は実験の対象だったのである。

最終的にポツダム宣言は7/26に発表され、8/6と8/9には広島と長崎に原爆が投下されてしまった。
8/8にはソ連が日ソ中立条約を一方的に侵犯し対日宣戦を布告。
8/14には御前会議でポツダム宣言受諾を決定。
8/15に玉音放送で「戦争終結」が放送されたのだった。

ソ連はヤルタ協定の秘密条項によって8/6に対日参戦し、その後の8/8に、ポツダム宣言の署名国となった。
7/26の発表にソ連の署名は無かったのである。

スウェーデン駐日公使だったウィダー・バッゲは、日本を救おうと1945年4月下旬、帰国した。外務省編『終戦史録』などによると、1944年9月15日、近衛文麿元総理と知己のある朝日新聞専務の鈴木文史郎から、「戦争を終結させる工作を中立国スウェーデンの斡旋で英国に依頼してほしい。占領地域を全部返還し、満州国も放棄してもよい。責任者は近衛文麿」と要請されていたのである。

しかし、この計画は国難時の慌てた総辞職によって潰されてしまった。

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  1. 【5938186】 投稿者: 日本の悲劇の根源  (ID:Vg3nIfAxo8s) 投稿日時:2020年 07月 09日 01:44

    近衛文麿(1891-1945)は第34,38,39代内閣総理大臣。大東亜戦争への突入の最も重要な時期の総理の一人でもある。
    マルクス経済学、社会主義に傾倒し、周囲のブレーン・トラストにはゾルゲ・グループの一人、尾崎秀実を始め、昭和研究会、朝飯会、企画院グループなど、社会主義者、共産主義者が群れ集っていた。戦前の日本は、実は密かに共産主義に乗っ取られていたのである。

  2. 【5938191】 投稿者: メディアの大罪  (ID:Vg3nIfAxo8s) 投稿日時:2020年 07月 09日 01:51

    小磯内閣の総辞職が起こったきっかけ
    1945年(昭和20年)3月に米軍の沖縄上陸を許し、同月には中国国民党政府との和平工作(繆斌工作)に失敗したため、内閣総辞職に至った。

    朝日新聞が大騒ぎして報道し内閣は追い込まれたである。
    スウェーデンの駐日大使の依頼はこの総辞職によって実行されなかたのである。

  3. 【5938231】 投稿者: スパイ  (ID:Vg3nIfAxo8s) 投稿日時:2020年 07月 09日 06:50

    スウェーデン駐日公使だったウィダー・バッゲが母国に帰国したきっかけをつくったのは、スウェーデン王室からの要請があったからだ。
    スウェーデン王室に要請できたのは、小野寺信(まこと)ストックホルム駐在陸軍武官である。諜報活動を行っていた小野寺は、ヤルタ会談の密約を知っていた。
    なぜ王室を通じてなのか?
    そこに日本は既にスパイ軍人が蔓延っていたことを知っていたのだ。
    日本にいた、ウィダー・バッゲは、日本の事情通とまでは、行かなかったようである。

  4. 【5939863】 投稿者: ゾルゲ  (ID:WxPkVVKPm5Y) 投稿日時:2020年 07月 10日 12:29

    ゾルゲ事件は、リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとして、1941年9月から1942年4月にかけてその構成員が逮捕された事件。この組織の中には、近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実もいた。


    尾崎一人だけ?
    スパイを一掃できなかった。

  5. 【5940816】 投稿者: ヤオヨロズの嫌悪  (ID:iH1ghI1RhGY) 投稿日時:2020年 07月 11日 07:44

    最高の軍事機密「二号研究」
    戦時中の日本には、現在も知られていない秘密があった。
    日本独自の原爆開発計画である。
    日本にはその技術もあり、また可能性もあった。
    米国の核開発研究・開発は、昭和14年(1939年)開始している。
    その年の10月に「ウラン諮問委員会」が発足。
    アインシュタインはじめ、多くの科学者がルーズベルトに進言した。
    「ドイツでは相当開発が進んでいます!」
    ユダヤ人アインシュタインの科学学者の警告の手紙がきっかけとなり、研究が始まった。(ユダヤ人迫害にドイツ人を憎んでいたアインシュタイン)
    日本では、一年遅れ、ウラン開発に着手する。
    昭和15年(1940年)4月「二号研究」開始する。


    (「昭和天皇」 読売新聞社編より)
    陸軍航空本部付きの『鈴木辰郎中佐』は、陸軍航空技術研究所に着任するや、所長の『安田武雄中将』からこう指示された。
    「原子爆弾の可能性について調査してみろ」彼は調査後、軍に報告書を提出した。「原子爆弾は、出現する可能性がある。原爆の材料になるウラニウム鉱石は、わが国にも埋蔵されている可能性がある」
    当時は、まだまだ軍事利用など考えられない段階だった。学術論文も国際的にやっと公開された段階だったのである。

    昭和16年(1941年)4月
    所長の『安田中将』は、理化学研究所の『大河内正敏所長』に正式要請。
    「原爆製造に関する研究を願う・・・」
    『大河内』は、仁科研究室の『仁科芳雄博士』に一任した。
    昭和18年(1943年)
    『仁科博士』は報告書を作成。
    「原爆は可能である」
    航空総監兼航空本部長に就任していた『安田中将』は、その報告を受けて動いた。航空本部総務課長『川島虎之助大佐』に、こう命じた。
    「この研究を『強力に』推進せよ」
    昭和18年(1943年)
    陸軍省の大臣室に呼ばれた川島は、東条英機からこんな指示を受けた。
    「アメリカとドイツで原爆製造計画が進んでいる。もし我々が遅れたら戦争に負ける。一つお前が中心になって製造を進めろ」
    このようにして陸軍の原爆製造計画は、「最高機密」として開始されたのだった。

    もう一つの計画が海軍でも行われた。海軍の計画は「F計画」と呼ばれた。
    昭和18年(1943年)5月 陸軍に2年遅れで始まった。
    計画を委託されたのは、京都大学の『荒勝文策教授』である。
    京大の原子物理学は、世界の十指に入る実力を持っていた。
    スタッフの中には、あの『湯川秀樹博士』も参加していた。
    昭和19年(1944年)初め
    ウラニウム235から「6フッ化ウラン」結晶を抽出成功。(米粒大)
    7月から分離テスト。(失敗)
    昭和20年(1945年)
    空襲により作業中断、研究室の機器壊滅。
    同年5月
    陸軍の「二号研究」も中止となる。

    天皇の猛反対
    天皇の「原爆に対する態度」を著した資料がある。
    1. 『昭和天皇』  出雲井晶(いずもいあき)著  日本教文社
    2. 『日本・原爆開発の真実--究極の終戦秘史』  五島勉(ごとうべん)著  祥伝社
    3. 『天皇の真実』  河内正臣(こうちまさおみ)著  たま出版
    これらの情報源は、昭和20年(1945年)2月当時、海軍航空本部の嘱託、諜報担当でもありウラン情報担当だった『岩田幸雄』氏である。
    彼は、陸軍大臣『杉山元』(すぎやまはじめ)宅で聞いた極秘の話を故あって公表した。(文末資料:p193)資料「1」の中に、こんなエピソードがある。
    昭和20年2月
    『杉山元』元帥が、私邸に来ていた岩田氏にこう言った。
    「岩田君、君は軍籍のない一民間人であるにもかかわらず、この戦争では日本軍のため挺身して偉大な貢献をしてくれ心から感謝している。
    その労苦に報いるためにも、一日も早く新兵器を開発し、劣勢を挽回すべく懸命の努力をしていたが、事情があって残念ながら『新兵器』製造は中止した。
    実は『御上』から強いおしかりを受けたのだ。」
    ・・・ここで、『新兵器』とはもちろん『原爆』である。
    そして『御上』とは、もちろん『昭和天皇』であった。
    岩田氏は、ソ連の「記録映画」を使って、杉山元帥に各国の原爆開発事情を伝えていた。(この映像は秘密の記録だった)
    岩田は機密記録映画を手に入れたということで元帥が表彰されている。
    それを見た元帥は、こう語ったという。
    「自分としては猶予は赦されず、製造を急がせていた。そして完成すれば、最初『ハワイ』に落とし、その威力を示し、戦況を日本軍有利に導く計画であった」
    ところが、「横やり」が入ったというのだ。
    日本の原爆開発が本格化した頃、当時の首相、『東条英機』がその旨を昭和天皇に上奏した。彼は、「起死回生の決定打として、天皇に喜んでいただける」・・・と思っていたようだ。しかし、昭和天皇は『意外に強い口調』で反対されたという。「数カ国が新兵器開発を競っているとのことだが、日本が最初に完成し使用すれば、他国も全力を傾注して完成させ使用するだろうから、全人類を滅亡させることになる。それでは、人類滅亡の悪の宗家に日本がなるではないか。またハワイに投下する計画とのことだが、ハワイには日本の同胞が多数移住し、現地アメリカ人民と共に苦労し、今日を築きあげたところだ。そのような場所に新兵器を使用することには賛成できない。」・・・叱責を受けた東条は、杉山にこう言った。「天皇陛下のご意志に反することはできない」

    しかし、杉山元帥はこう主張した。
    「敗戦となれば日本が滅びてしまい、全てを無くしてしまう」
    その論理はこうである。
    「参謀総長の立場にある者として、日本を敗戦に導くことはできない。
    戦争とは結果において勝利を得ることが肝要であり、今の日本は手段を云々できるときではない。勝てば天皇にお喜び頂けるに違いない。そして天皇が希求される世界平和を実現できるではないか」(上記資料1)
    しかし、東条とは平行線だった。
    杉山は、参謀総長を東條に譲って退いた。
    ところが、彼がカムバックする機会が訪れる。
    同年7月
    東条内閣総辞職後、『小磯国昭』内閣が誕生する。
    杉山元帥は再び入閣し、陸軍大臣となった。彼は秘密裏に、再度原爆開発を急がせた。ところが新兵器を積むロケットの燃料製造過程で誤爆事故が突発。
    それは天皇陛下の耳に入った。
    杉山元帥は、こう述懐する。
    「天皇陛下から呼ばれた私は、『まだやっていたのか!』と強く叱責され、まことに面目なく、これ以上開発を進めることはできなくなった。
    私は、日本が勝っても負けてもこの責任は取る覚悟だ。例え勝てたとしても天皇陛下の大御心(おおみごころ)を煩わせた罪は万死に価いする。
    さらに多くの部下を死に至らしめた責任から逃れることはできない。
    ここで話したことは誰にも話さないでくれ給え。この事を知っている者は、天皇陛下と東条と自分だ。」・・・杉山元帥は、敗戦直後自決した。

    昭和天皇は『未来』を見据えていた
    大祭司天皇は、日本の神『ヤオヨロズ』の霊を受けて話す。
    日本の運命は、悪魔に誘われ大陸に進出した時、すでに決していた。
    それを予感していた昭和天皇は、御前会議でもこう言って抵抗していたのだ。
    「大陸には出るな」
    しかし、軍部の勇み足がそれを無視して暴走した。

    外国には、天皇をヒトラーと同一視するような勘違いがあった。
    しかし、天皇が政治に介入できたのはわずか三回だけである。
    (1) 2.26事件  (「近衛軍を率いて鎮圧する」と言って激怒)
    (2) 「張作霖爆殺事件」(天皇は激怒し、内閣が倒れるに至る)
    (3) 終戦の決断 (原爆後も「本土決戦」を唱える軍部を押さえた)
    それ以外はほとんど、陸軍を中心とする勢力によって押し切られていたのが実態である。軍部が力を握った日本の政治システムで、昭和天皇個人の意向は生かされなかった。これこそが「日本暴走の図式」である。(天皇の口を封じれば、危機が訪れる)
    結局、天皇の原爆製造に抵抗する言葉は、遠い未来・・・日本が苦難を乗り切った後の世に向けた言葉だった。そしてその姿勢は、ずっと一貫して変わらない。

    昭和天皇の「核拡散防止条約」(核防条約)への強い関心は、この精神が産み出したものだ。それは、日本が「核を使う国」として汚名をはせ、日本の神ヤオヨロズの嫌悪を引き起こさないための措置だった。

    「核を使う者、核に滅ぶ」
    やがて、その因果が世界に知られる日が来るだろう。
    その時、日本になぜ「核開発阻止」の力が働いたかが理解される。
    それは、民族を護る神ヤオヨロズの先見の明であり、救いだったに違いない。
    (資料・昭和天皇の極秘指令:6章  講談社)

    政治家二階、福田康夫、鳩山由紀夫、財界人
    中国大陸の野望
    捨てきれていますか?

  6. 【5940822】 投稿者: 人形峠  (ID:iH1ghI1RhGY) 投稿日時:2020年 07月 11日 07:55

    1950年代、原子力発電の燃料となるウラン鉱床が国内(人形峠)で初めて発見された。
    当時、原発燃料の国産化を目指し、発足したばかりの原子燃料公社(現・独立行政法人日本原子力研究開発機構)が採掘を開始。峠から北へ16キロの方面地区では58年に作業が始まった。  多くが二十世紀ナシの栽培で生計を立てていた25戸の小集落は「これで未来が開ける」と沸いた。周辺の土産物店では、ウランの粉末をうわぐすりに使った焼き物「ウラン焼き」や「ウランまんじゅう」も売り出された。  「宝の山」発掘に集落総出で協力し、多くの村民が、坑内で働いた。ダイナマイトの爆煙が漂う中、泥だらけになってウラン鉱石を運び出した。人体への影響については「天然の放射能だから大丈夫」という公社の責任者の言葉を信じた。防じんマスクも配られなかった。
    坑道で働いていた村民の話では、しばらく働いたあと、鼻血が出やすくなったことに気付いた。髪を指ですくと大量に抜ける。数年後、重症の胃潰瘍にかかり、坑内で働くことを断念した。
    労働者にはマスクさえ配られることはなかったが。。。当時を知る人の話では。。。「振り返れば、公社の連中は立派な防じんマスクをつけいた。健康被害の恐れを知っていたのだと思う」との。。。  結局、ウラン含有率が低く、採算が合わないと判明した「宝の山」は63年に閉山した。
    ウラン残土が積まれた土地のそばでは、国内平均値(1立方メートル当たり5ベクレル)の数千倍の濃度の放射線量を記録し続けている。

  7. 【5940910】 投稿者: 理研  (ID:iH1ghI1RhGY) 投稿日時:2020年 07月 11日 09:35

    第2次世界大戦中、旧日本軍が原爆開発を目指してウラン採取を試みた福島県石川町を訪ねた。

     同県南部の郡山市からJR水郡線で約50分。石川町では1945年4月ごろから、陸軍とその要請を受けた理化学研究所が地元の石川中学3年生らを動員し、微量のウランを含むペグマタイトという岩石の採掘を急いだ。岩石からウランを抽出しようとした選鉱場の跡が町内には今も残る。

     原爆開発計画と石川町の関係を研究する同町文化財保護審議会会員の橋本悦雄さん(70)によると、陸軍が原爆の調査に着手したのは40年春。理研への研究要請は41年5月。日本もドイツや米国などとの原爆開発競争に乗り出した。

    https://www.nishinippon.co.jp/item/n/534436/

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