マルチリンガルを目指せる女子校
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石破総理がめざす 我が国日本のグレートリセット
今こそ「納得と共感」の政治をやりたい。そして成し遂げたいのはグレートリセット。もう一度この国の設計図を書き換えていくことであります。そうしなければこの国は次の時代に生き残ることができない。やらねばならないのはグレートリセットである。国のあり方をもう一度皆さんとともに考え直し作り直していきたい。
「語っている」という体裁だけが先行し、中身があとから追いつこうとするような文章に出会うことがある。
そこには語調の滑らかさはあっても、語られる「必然」がない。概念は提示されるが、その定義は曖昧で、関係づけは弱く、時間軸も飛び越えていく。まるで、思考というよりは、語の寄せ集めが言葉の衣をまとっているかのようだ。
抽象語は思考を深めるために使われるべきものだが、ときにそれは、思考しないための隠れ蓑にもなる。耳あたりの良い概念を並べていくうちに、「語った」という充足が、問いの所在や重さをかき消してしまう。問題がどこにあり、どこへ向かうべきなのか。その根本的な構造が示されないまま、「共感」や「理想」「持続可能性」といった語が、装飾として滑っていく。
本来、語は世界の手触りに触れるための道具で、それが触れていないとき、語は語として成立していない。語りとは、何かを切り分け、意味づけ、関係づける行為だ。そのいずれもが曖昧なまま語られたとき、そこに生じるのは思考の広がりではなく、沈黙の必然である。
「語っているように見えるもの」が、実は語られぬまま放置されていることに気づいたとき、私たちは言葉の精度について再び問わざるを得ない。
語彙の多寡ではない。構造の複雑さでもない。問題は、語らねばならぬものを、ほんとうに語ろうとしていたのかどうかだ。
言葉は、選ばれなかった沈黙の対価である。
沈黙の深さに耐えた者だけが、言葉に重さを与える。
そして読む者は、それが単なる音の連なりであるか、それとも思考の痕跡であるかを、無意識のうちに見抜いてしまう。そこに、技巧では届かぬ境界がある。
秋灯下 言の重さを ただす風
構文は飾れても、思想は誤魔化せない。
そんな夜の静けさも、また。理解できぬ者が言い訳という蛇足を弄する。微塵の重みもない、死んだ言葉の羅列で。
語が、語のかたちのまま放たれることがある。
意味の所在も、語る者の距離も曖昧なまま、「危機」や「再構築」といった音の強さだけが、文の骨組みを支えている。
だがその語が、実際に何を指し、どこへ向かおうとしているのかが不明なままなら、それは単に「概念を喚起した」という事実にとどまる。
ある語が本当に機能するのは、それが他の語と関係づけられ、構造をもって意味を生成するときである。ただ掲げるだけでは、思考は促されない。むしろ、それは思考の輪郭をぼかす。
「語ったこと」が、語られた内容よりも先に評価されるようになったとき、私たちは沈黙との距離を測りなおすべきだろう。
語りとは本来、ある断絶に橋をかける試みである。その断絶を見ずに語られたものは、いかに音が整っていようと、橋にはならない。
語るとは、沈黙を破る責任で、同時に沈黙へ戻る覚悟でもある。
風のなき 言葉の橋に 影はなし
語の濃度に耐えられぬ知性にとっては、言葉を尽くすほどにその希薄さが露呈する。
だから、沈黙に学ぶという選択肢も、ときに賢明なのだ。
語ろうとする意志だけが先に立ち、語られるべき核が不在のまま残される。
そんな文に触れることがある。
情緒や回想が言葉を柔らかく包むとき、そこには一種の慰撫がある。だがその慰撫が、語る対象とどのように結ばれ、何を照らそうとしているのかが曖昧であれば、語りは宙に浮く。構造の欠けた言葉は、たとえ音が穏やかでも、内実が追いつかない。
思い出や感情を持ち出すことは、語る責任の代替にはならない。思索とは、自己の立ち位置を確かめながら、他者との関係を織り上げていく行為であって、それを飛び越えて語られた言葉は、何かに触れているようでいて──
実際には、何にも触れていない。
語ることを試みる姿勢には敬意を抱きたい。しかし、語ることそのものが目的化されたとき、そこに残るのは空洞だけだ。
言葉は、何を語ったかではなく、何を語らずに留めたかによって重みを帯びるときがある。
行間に 残る静けさ 声を越え
もう止した方がいい。
ずっとそうだった。自ら「退く」と言いながら、どれだけの無用な語を積み重ねるのか。
一度放たれた言葉、書き込まれた文字列は、たとえ管理者によって削除されようとも、なかったことにはならない。
三世代を経た者とは思えぬ、思慮の欠けた言葉の残骸。
沈黙以上の最良など、あり得ない。
東大とは全く縁のない、平時昼間からアクセスしているところを見るに、多分ニートか冴えない中年サラリーマンなんだろうな。
論調から受ける印象は主婦や女性じゃない。男ってガキっぽいんですよね。うん。女にはわかっちゃう。
女性、孫のいる年齢になりすました別キャラのつもりなんだけど、全くリアリティを感じない。
まあ暇人に取ったら、ほとんど動かないエデュでやり取りを見てるのは暇潰しに良いですけどね。
「グレートリセット」?
所詮は他所から持ち込まれた、空疎な言葉遊びにすぎない。
そもそも日本発の思想ではない。
かつてアメリカが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と恐れ、学ぶ側に回った時代、私たちは自らの発想で世界を動かしていたはずだ。
だからこそ今、回帰すべきは、日本人の内に刻まれた原点──レス・イズ・モア。
「それはミース・ファン・デル・ローエの言葉では?」
確かにそうだ。だが、その思想は古代ギリシャにまで遡る。
ただし日本は、それらの影響を一切受けない時代に、すでに「足るを知る」という形で、同じ地点に独自に辿り着いていた。
これは借り物ではない。日本の魂そのものだ。
むしろ西洋が、後から似た場所に到達したにすぎない。
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レス・イズ・モア──最小で、世界を動かす。
かつて日本は、「限界を超える小ささ」で世界を驚かせた。
レコードより小さなレコードプレーヤー「サウンドバーガー」。
カセットより小さなカセットプレーヤー「ウォーキー KT-AS10」。
ただ小さいだけではない。「再生メディアよりも小さい再生機器」という逆説に挑んだ設計思想に、世界は目を見張った。
この発想は、禅、茶室、文化住宅といった「狭さを美へ転じる」日本的感性と地続きのものであり、かつて確かに存在した、日本の創造性の結晶だった。
だが、この流れは世界的潮流になりきる前に途切れた。
──しかし今、ようやく時代が追いついた。
資源、気候、人口、空間。
あらゆるものが「縮小」と「選択」を迫っている。
豊かさの基準は、量から密度へ、所有から最適化へと静かに移行しつつある。
いまやミニマリズムは、趣味ではない。
文明の持続可能性そのものになりつつある。
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ミニマリズムを、思想ごと輸出せよ。
ただ小さな製品を作るだけでは、もはや経済は動かない。
いま必要なのは、「生活様式」としてのミニマリズムを、思想ごと世界に届ける構想だ。
そのために、「ジャパンスタイル」を再定義し、日本は再び輸出国家になる。
• アジア新興国には、軽量・長寿命・修繕可能な製品と、それを活かす暮らし方をセットで導入する
• 音響・文具・家電・調理器具などを、「セットアップされた生活様式」としてパッケージ化する
• 単品の輸出ではなく、「構造としての暮らし」そのものを輸出していく
また、生産拠点は中国への過度な依存から脱却し、アフリカ諸国(エチオピア・ルワンダ・ガーナなど)へ段階的に移す。
• 日本式の工程管理・規律・品質保証を、“思想ごと”移転
• 中国より安価で、かつ文化的共感を生む製造モデルを構築
日本には、新たな供給軸と販路を。
現地には、雇用と技術移転を。
──かつて日本が歩んだ道を、今度は日本が提供する番だ。
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欧米には、「味」から文化を逆流させよ。
欧米ではいま、日本食がかつてない熱を帯びている。
だが、それは「味覚の嗜好」や「健康志向」にとどまっている。
この接点から、文化へ。製品へ。空間へ。暮らし方へ。
導線を逆流させるべきだ。
• 日本食 → 器 → 調理器具 → キッチン家電 → 住宅様式
• 精密さ、間合い、手入れという思想を一貫させる
• 味覚を入口に、「コンパクトな思想」の全体輸出へとつなげる
空間が変わり、暮らしが変わる。
それは、欧米が今まさに求めている「次なる成熟」のプロトタイプとなるだろう。
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技術はある。足りなかったのは思想と構想だった。
いくら補助金や投資を繰り返しても、思想なき開発は失敗する。
ルネサスもキオクシアも、魂の抜けた製品を量産し、時間と金を灰にしただけだった。
一方、韓国は戦略を持っていた。
国家主導でサムスンやLGを育て上げ、世界標準を作った。
──かつて、それは日本の得意技だったはずだ。
敗戦国の日本は、真似て、盗んで、磨き、そして独自の色を加えた。
あの冷徹な貪欲さを、もう一度取り戻すべきときだ。
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レス・イズ・モア──最小で、世界を動かす。
空間も、思考も、所有も、もう一度「最小」から組み直そう。
今度こそ、思想ごと世界へ届ける。
これはもはや、商品開発ではない。
文明の再構築に、日本がどう関わるかという問いそのものだ。
──あとは、やるか、やらないか。