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【4211051】日本の古(いにしえ)

投稿者: 善人   (ID:iY3zXBxtWIE) 投稿日時:2016年 08月 12日 18:36

日本の古きいにしえをつぶやき語り合いませんか?

悪人、悪口不可
総合的な理由を勘案して問いかけに答えないことがあります
ご容赦下さい。

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  1. 【5137708】 投稿者: ちはやふる  (ID:r4H8IzAT2hA) 投稿日時:2018年 10月 06日 07:13

    京都人さま

    二通りあったというのは、高御座の形状ではなくて、お着座の態様かも知れませんね。
    冷静にかんがえると様が指摘されていた通り、即位儀と大嘗祭を連続して執り行う明治からの一定期間、即位儀では本来は畳、茵敷きの高御座が使用されていたけども、以下のお話です。

    >御倚子が常設されているのは大嘗祭の際、悠紀・主基帳の座と並んだ釣り合い的な意味合いがあったかも知れず、即位儀と大嘗祭を連続して実施した明治以降の様相が、現代の高御座のかたちに反映されているのかもしれませんね(冷静にかんがえると様)。

    悠紀と主基という、地方の田からの新穀を中央におわします、新天皇の両側に配して、座としての釣り合いをもたせるということではないでしょうか?
    それは天皇と国民の関係を、支配➡披支配と捉えるのではなくて、何と申しますか、天皇、国民の一体観がこの国のかたちだという、国民の中の天皇という思想に基いて、釣り合わせたということで、椅子は常設ではなくて、大嘗祭にだけ用いられるのが、本来の儀式の態様かもと思います。

  2. 【5140910】 投稿者: 京都人  (ID:j0uluxZVFHY) 投稿日時:2018年 10月 08日 15:09

    ちはやふるさん
    有難うございます。
    図書館で勉強する娘に付いて行き、私も色々探してみました。
    京都大学の吉江崇さんと云う方が、2003年の史学雑誌に寄稿されてます。
    「律令天皇制儀礼の基礎的構造」。

    大嘗祭の高御座はゴイシでしたが、即位義の高御座は畳だったようで、ふたつの場合があったようです。
    冷静に考えるとさんのご指摘通りでした。
    大嘗祭に地方の田の新穀を供えるのは、昔からのことだとしても、その悠紀、主基張との釣り合いがあったとしたら、明治時代以降、「天皇の国民」から「国民の天皇」へ転機したと言えるのではないでしょうか?
    大嘗祭には何か深い思想があったと思います。

  3. 【5143407】 投稿者: ちはやふる  (ID:7bi1Noma4do) 投稿日時:2018年 10月 10日 13:57

    京都人様、有難うございます。
    私もお教え頂いた寄稿文を探してみます。
    「国民の天皇」とは、古代史の津田左右吉の言葉ですね。
    天皇と国民が対立するような施政は、今までなかったのですから、国民が国家を主宰して、天皇がその内側にあって、精神的象徴として存在する、という意味かしら。津田左右吉は「われらの天皇」と言ってるようです。
    大嘗祭の思想的な背景は、前にこのスレで、かなり詳しく書かれていたと思います。確か、式年遷宮と関連して(間違っていたらすみません)。
    京都人様も、そういったことに興味がおありで、嬉しく思いました。
    私もこちらでだいぶ勉強させて頂きました。でも、しばらく学業に戻ることにします。

    あれこれとお話が着きませんが、お付き合いを頂いて、有難うございました。

  4. 【5147867】 投稿者: 恐れ入りやの鬼子母神  (ID:6wOcXL60ZDY) 投稿日時:2018年 10月 13日 21:04

    「天皇の国民」と言えば、天皇制浸透に対して、明治天皇の御真影がはたした役割も大きかった(「国体論ー菊と星条旗」白井聡 著、集英社新書)。
    明治6年の写真と明治21年の肖像画を比較すると、肖像画の方が明らかに堂々たる帝王のイメージを印象付けてる。
    西郷隆盛の写真嫌いの話があったが、明治天皇もまた、写真嫌いであったという。だが、一方で立憲政体の体制を維持し、他方で国民の内面的規範を統制するものとして、明治政府がこの肖像画に期待したのは、ごく自然なことであったと言えるのではなかろうか?

    冷静に考えるとさん、皆さん、ご無沙汰しておった。と申しても、たまにロムだけはしていたが、話の内容を理解するだけで精一杯ゆえ、参加は能わず。
    最近、中学受験板の方で少し書き込んだ(以前のようにお誘いを意図するものではない)きっかけもあって、歴史の話がしてみたくなった。

    冷静に考えると氏をはじめ、皆さん御忙しいだろうが、お付き合い頂けると幸甚。まずは、ご挨拶まで。
    お目汚し失礼つかまつった。

  5. 【5148283】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:O0X05Of2MUY) 投稿日時:2018年 10月 14日 10:11

    恐れ入りやの鬼子母神 さん
    ご無沙汰しておりますが、お元気そうで何より。

    明治天皇のお写真と肖像画ですか、、なるほど、興味深いですね。
    昨今、所謂「歴史写真」から三つの視点、つまり撮影者、被写体、写真の閲覧者の視点から、歴史情報を解読しようという試みも為されていると聞きます。とりわけ明治時代は、もっとも肖像がもてはやされた時代で、天皇だけではなく著名な政治家、軍人あるいは財界人の多くは肖像画を作成して、これを配した記念碑も数多く建立されておりますね。

    明治天皇の肖像写真はオーストリア人写真家のB.スティルフリードの隠し撮り事件に始まり、岩倉使節団が要請した(当時)外交交渉の慣例上必要であった肖像写真、第一期御真影、第二期御真影、遠望写真、そして高木背水作の肖像画という歴史を辿りますが(「歴史読本」2009年3月号)、別けても第二期御真影の正装軍服を召されたキヨッソーネ画の肖像写真、彼自身が正装軍服を着て、筆写した明治天皇のお顔部分をコンテ画に差し替えたと言われています。
    我々がよく目にする明治21年の天皇像は、実は今でいう「合成」ということになります。宮内省(当時)によって下賜されていくキヨッソーネ制作の新しい明治天皇像には、欧米を意識し、西洋列強に比肩し得る存在としての天皇イメージが表出さており、当時の明治人の気概すら感じ得ます。

    明治天皇崩御の後、昭憲皇太后を慰めようと作成された高木背水作の肖像画ですが、こちらは堂々とされたもので、清、露の大国に勝利し、近代国家としての威厳・尊厳を満身に蓄えたイメージ。
    時代の節目で変わっていく肖像写真の背景にある歴史的エポックを関連付け、当時の人々の想いを忖度する。
    これもまた、現代に生きる我々に課せられた責務のひとつ、と言えるのではないでしょうか。

  6. 【5148657】 投稿者: 恐れ入りやの鬼子母神  (ID:oEIma/JcNLE) 投稿日時:2018年 10月 14日 16:12

    冷静にかんがえるとさん、
    詳しい解説を頂き、お礼申し上げる。
    歴史の話がしてみたいなどと言って、実は私自身が応じきれぬことを忘れておった。
    明治21年の肖像画が合成なのは、初めて知った。これには天皇のイメージを殊更、誇示するような明治政府の思惑があったと理解してよいのだろうか?
    新撰組の事件で気を失ったなどという話もあるが、明治天皇のイメージを欧米列強に対して、比肩し得るものとするのと同時に、国民に対しても教育勅語発布も相まって、質実剛健のイメージを意図したのであろうか?

  7. 【5153915】 投稿者: 冷静にかんがえると  (ID:iyw5VSTBKko) 投稿日時:2018年 10月 18日 23:50

    恐れ入りやの鬼子母神  さん

    >明治21年の肖像画が合成なのは、初めて知った。これには天皇のイメージを殊更、誇示するような明治政府の思惑があったと理解してよいのだろうか?
    新撰組の事件で気を失ったなどという話もあるが、明治天皇のイメージを欧米列強に対して、比肩し得るものとするのと同時に、国民に対しても教育勅語発布も相まって、質実剛健のイメージを意図したのであろうか?

    明治19年の軍装制定に伴い、従来の御真影(略服)では各国の王侯貴族、あるいは外交官に贈与するには適さなくなってきたといえましょう。ただ明治天皇は写真嫌い故、当時の宮内大臣、土方久元はキヨッソーネに筆写を命じ、彼は行幸の折に顔貌のみ筆写に成功したと云われています。明治21年御真影はキヨッソーネ自身が軍服を身に着け、お顔部分のコンテ画を差し替えたというのが真相のようです。キヨッソーネ自身が正装軍服を着用したコンテ画は、北区王子にある「お札と切手の博物館」に所蔵されています。

    新選組の池田屋事件に端を発した禁門の変の折、当時13歳の睦人親王(後の明治天皇)は砲弾の音や女官らの泣き叫ぶ様子を見て失神した、とされていますね。当然ながらこのような「逸話」が登場し始めたのは戦後であって、ことの真相は不明です。例の南北朝の正統性に絡む「噂話」の類とたいして変わらず、と云うのが正直な感想です。この点については、ケンブリッジ大のドナルド・キーン名誉博士が中山忠能の「正心誠意」を詳細に検討し、「失神」ではなくパニックに陥っただけだとしていたような、、
    それより明治天皇の外祖父、中山忠能という人物の政治的思惑がどうであったか、そちらの方が興味深い。一例を挙げれば、「討幕の密勅」の偽勅説。時に親王満14歳で、摂政は親徳川の二条斉敬。この「討幕の密勅」には三名の署名が為されていました。正親町三条実愛、中御門経之、そして前権大納言の中山忠能、其の人です。討幕の大義名分を打ち消すために大政奉還という「先手」に幕府が及んだかは不明なれど、所詮朝廷に外交も含む政権担当能力がないことは自明で、何よりそのことを理解していたのは中山忠能ではなかったか。
    睦人親王に対する「余分な」記述。
    さて、どのような思惑が彼にはあったのでしょうね?

  8. 【5154073】 投稿者: 恐れ入りやの鬼子母神  (ID:vVsBPPFDwlU) 投稿日時:2018年 10月 19日 07:50

    冷静にかんがえるとさん
    ご教示感謝申し上げる。
    そう、禁門の変であった。
    明治天皇の失神とかいう話は、戦後になって、大宅壮一が唱え出したらしい。山中忠能の日記には、「ご逆上、水を飲ませ正気に戻る」と書いてあるそうな。
    「失神」ではなくパニックになり、水を飲ませたら落ち着いた、というのが真相なんだろう。
    例のすり替え云々もそうだが、戦後になって、いわゆる「知識人」と言われる者らが、天皇制に思うところあって、先人らの遺したものに、得手勝手な解釈を付け加えるよい例だと言える。
    貴殿ご指摘のように、歴史写真から情報を読み取る大切さはその通りだと思う。
    なんとなれば、明治5年の束帯姿の明治天皇の華奢なお姿と、軍服を召した翌年のお姿は、同一人物だし、キヨッソーネの21年肖像写真の顔貌も変わらない。
    思い込みの怖さを自戒せねばと、勉強させていただいた。

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