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【4211051】日本の古(いにしえ)

投稿者: 善人   (ID:iY3zXBxtWIE) 投稿日時:2016年 08月 12日 18:36

日本の古きいにしえをつぶやき語り合いませんか?

悪人、悪口不可
総合的な理由を勘案して問いかけに答えないことがあります
ご容赦下さい。

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  1. 【4328529】 投稿者: イワサキ  (ID:uNjokJq98Es) 投稿日時:2016年 11月 19日 12:45

    ことっち。。 さん
    日本の歴史さん

    誤字脱字が多い文章ですが、過分の誉め言葉ありがとうございます。
    従来の定説、通説と言われていたものが、現代科学(遺跡の発掘)により、
    これは違うんじゃないかとの、時空を超えたメッセージが増えてきたのではと考えてます。少しでも興味を抱く人間が増えたらと思ってます。日本の古に興味を持ち理解していくことが、我々日本で生まれた者の務めだと思ってます。

    それでは、直近で書き込んだ近江彦根の稲部遺跡(23の鉄工房跡、2世紀から5世紀)
    松帆銅鐸(淡路島で出土、出雲の銅鐸と同じ工房で制作された)
    銅鐸は紀元前2世紀から2世紀まで制作され出雲から三河、美濃、北陸までが銅鐸文化圏である。松帆銅鐸は初期の銅鐸であり、銅鐸は2世紀まで制作され、ある時期(3世紀)になるとパタッと制作されなくなる。

    近江琵琶湖の最南端、野洲周辺にある伊勢遺跡、あまり有名ではないが、ここがすごい、直径220Mの円の中に中心に向かって30もの大型建物が建ち、真ん中に一番大きな建物がそびえ建っていた。この建物の特質が伊勢神宮のものとそっくりだそうだ。住居跡は出てないので、祭祀専用の空間のようだ。
    近隣の王たちが集まり(30の国、魏志倭人伝の倭国大乱、30余国が想像されるが)
    中心部に連合国の盟主が祭祀をしたと推察できる。ここからの出土土器は、尾張、美濃、東海地区、近江、北陸、山陰、丹後など。
    この遺跡は突如として姿を消す。そして何度も書いている、大和に纏向遺跡が突如として出現している。

    伊勢遺跡のすぐそば、野洲から日本最大の銅鐸(130CM)、合わせて20余りの銅鐸が出土(出雲加茂岩倉遺跡から39の銅鐸が出土するまで、国内一)
    伊勢遺跡と銅鐸が跡形もなく姿を消したのは、全く同年代となる。
    伊勢遺跡は銅鐸連合国の盟主がいた場所、この遺跡に銅鐸が集められ、支配国に権威づけで銅鐸をあたえて祭祀をやらせていた。日本で一番でかい銅鐸は盟主が祭祀を行った証であろう。

    三世紀中ごろに、纏向遺跡が突如出現した。連合体の盟主が新たに誕生した、
    そして以前の盟主が権威として下賜していた銅鐸は生産停止になり、地中深く埋められた、新たな纏向遺跡の盟主(連合体)より、与えられたものは、箸墓古墳の前方後円墳の設計図、見取り図であった。ここから前方後円墳が日本津々浦々まで伝播していく。

    上記に記載した、内容を記紀から抜粋すれば、これこそが出雲国譲りだったのではないか、父祖伝来の地は出雲であるが、大和、近江のそれぞれの一宮には、
    出雲神(大国主命)が祀られているのが、この事実を物語る。
    前方後円墳の原型は吉備地方に見られる、〇に二つの方墳がくっついている、一つの方墳を取り除けば前方後円墳となる。纏向遺跡では祭祀に使われた特殊な土器は吉備製である。出雲が盟主から滑り落ち、吉備が中心となり連合体が作り直されたと推察する。
    これこそが、神武東征以前に天の磐舟伝説で、先に大和入りした饒速日命(物部租)ではないだろうか?
    物部氏が拠点を構えた、大阪八尾、交野近辺から出土する土器は吉備系の土器ばかりである。

    藤原氏の意図した記紀には、近江、尾張、北陸、丹後などの活躍は黙殺されているのである。

  2. 【4329719】 投稿者: ことっち。。  (ID:4ZbGMUND5gI) 投稿日時:2016年 11月 20日 11:02

    今回自分で分水界について書き込んでおきながら、邪馬台国時代あたりになり忘れていたこと1つ思い出しました。以前の歴史はロマンスレッドの時、図書館から古代史数冊借りたり、ネット検索で知識を得ていました。どこでそれを得たのか時間が相当経過していますのでそれ以上は記憶が定かではないのですが,,

    邪馬台国時代、丹波分水界のその地域には人がいなかったと確認されています。
       確か、 丹波教育○○より ← ○○については思い出せないです。
            と,,書かれていました。

    という文章を見た時、ある、いる,,ではなく,,いないが確認で、えっ!
    っとその当時思ったので、忘れていたことが思い出されたのだろうと,,
    イワサキさんの由良川水系より加古川水系の当時の動脈重要性の説明より邪馬台国時代に限ってその地域には人がいない、つまり日本海側と諸国と瀬戸内海側の諸国が遮断されていた、お互い敵視していたのか、想像以上に警戒していたのか
    伊勢遺跡の銅鐸連合国、非常に強固なものだったのか、それを上回ってしまった吉備を中心とする連合体と,,想像してしまいます。

  3. 【4329727】 投稿者: イワサキ  (ID:uNjokJq98Es) 投稿日時:2016年 11月 20日 11:12

    以前にも書き込んだが、纏向遺跡からは、籠に入ったままの桃の種2765個見つかっている。祭祀に使われ竹製の籠に入ったまま打ち捨てられていた。果肉もついたままだった。魏志倭人伝に記載された、卑弥呼が鬼道を用い政を行っていた。
    まさにこれではないかと畿内邪馬台国説を支持する人々は色めき立ったわけだ。
    魏志倭人伝では、倭国大乱で、環濠があった(堀)そうなので、纏向遺跡はこれには該当しない。環濠もなく、突然出現した。(平城京、藤原京の政庁の大きさに匹敵)発掘現場から、焼けて炭素化したものなど全く出てこない。
    近江伊勢遺跡(記載済み)が突然姿がなくなり、纏向遺跡が突如姿を現した。
    伊勢遺跡は綺麗に解体され跡地は整理されていたらしい。戦乱ではなく平和の中での移譲だったようだ。

    桃は古来、不老長寿、魔除けの呪力があると信じられ桃源郷伝説の由来でもある。桃の原産地は中国北西部、毛が実を覆っているので毛毛(もも)になったらしい。日本最古の桃は縄文晩期となる。
    纏向遺跡だけが大きく取り上げられているが、桃の種は各地で出土。

    奈良布留遺跡1546個、南滋賀遺跡520個、島根前田遺跡408個
    纏向遺跡だけが突出したわけではない。
    1997年には岡山倉敷上東遺跡から9608個の大量な桃の種が出土
    これで纏向遺跡から大量に桃の種が出土したから卑弥呼の邪馬台国であるというわけにはいかなくなった。

    纏向遺跡の祭祀用の土器、前方後円墳(箸墓古墳)、桃の種(祭祀用)すべて吉備からもたらされた可能性が強いことがお分かりいただけたと思う。
    桃太郎伝説に相応しい、吉備団子、桃の種まさに吉備の面目躍如といったところである。

  4. 【4329742】 投稿者: ことっち。。  (ID:4ZbGMUND5gI) 投稿日時:2016年 11月 20日 11:26

    日本海側の諸国へ,,   訂正

  5. 【4330152】 投稿者: イワサキ  (ID:uNjokJq98Es) 投稿日時:2016年 11月 20日 17:13

    丹波には海はないが、丹後、但馬には海がある。
    これが答えだと思います。
    由良川河口は、丹後半島、半島の裏側には但馬出石、有岡があります。
    天然の良港がある場所に舟が出入りし、交易が発生した。
    丹後半島から敦賀にかけては、古来より天然の良港が多い
    (敦賀、小浜、宮津、舞鶴など)敦賀などは、古来より日本を代表する湊(港)になるでしょう。
    丹後半島の京丹後から発掘した土器には、16隻の舟が船団を組む姿が描かれていました。大陸より楽器も出土してます。
    丹波に国はなくても、丹後、但馬には明らかに最先端の交易をする集団(国)が存在したと思います。
    魏志倭人伝によれば邪馬台国の年代は240年ごろなので、山の中、丹波は流通の通過点であり、交易場所は存在しなかったのでしょう。

    但馬有岡から丹後半島にかけては元伊勢籠神社や出石神社など由緒正しい神社や、天の羽衣伝説、浦島伝説など古くからの伝承もあり、
    古来の鉄製鉄所(たたら製鉄)、勾玉製作所もあり材料となるものは近辺からは
    とれないので、交易で材料を集め製作し売却していた。古来の最先端のシリコンバレーだったと思われます。(鉄、出雲や朝鮮半島から、ヒスイは糸魚川)

  6. 【4330245】 投稿者: イワサキ  (ID:uNjokJq98Es) 投稿日時:2016年 11月 20日 18:05

    仕事で数か月に一度、新潟に行くんですが、県庁、地銀、農業団体の上層部との
    表敬面談になります、彼らの自慢は終戦後間もないころ、新潟県が一番人口が多かったこと、もう一つは日本最長の信濃川かな。
    日本最大の川が上流より運んでくる、土砂、砂はびっくりするほど多く何もしないと河口が埋まってしまうらしい。
    大型の砂利掘削船が、信濃川河口で常時稼働して砂を掘り出し運搬しているそうである。(2隻)実際、江戸時代に港町だった港は砂で埋まり機能しなくなり、
    中州に港を移し、今の繁華街は元は信濃川の中州であったそうだ。

    古来、川の河口に港があったが使えなくなったと場所も多いのではないか?
    頭に浮かぶのは、津軽の十三湊(とさみなと)津波による影響だが砂に埋まり使えなくなったはず。出雲もそうらしい。(出雲大社の巨大建物は舟の目印)

    古来の大阪湾には、船が入れる良港が無かった。神武東征や神功皇后はいずれも
    和歌の浦(和歌山)に上陸している。神戸近辺(生田神社)では神功皇后の船が座礁した伝承もある。遠浅で船が浅瀬に乗り上げてしまうんだろう。
    現在の大阪市内は河内湖であり生駒山麓の麓まで湖であった。
    現在の大阪城がある谷町台地、住吉大社まで続く海外線が湖を仕切る丘陵だった
    わずかな先から大阪湾に水が流れ込んでいた。浜名湖や中海のような感じ
    汐の満ち引きが強烈に入れ替わり、難しい波から難波津と命名された。なみはや
    も同じ意味だろう。
    時代とともに、河内湖が淀川、大和川その他の川の運搬する土砂によりどんどん浅瀬になっていったはず。

    出口が一つしかない河内湖から水を逃がすため、谷町台地に運河をつくり、(記紀に出ている、墨江の運河)河内湖が埋まらないように、砂を掻き出していたのではないか?
    河内湖沿岸の枚方などには馬の牧が集中している。
    船を人が曳いたことは記載したが、古来の馬は当初、人の代わりに舟を曳いた可能性があるのではないか。
    船に土砂を入れ馬が曳いた、あるいは遠浅になっていく川、湖で馬が働いた

    当初、馬は軍事に使われたより運搬動力として使われた可能性が高い
    騎馬民族渡来説などあったが、馬が我国に入る数百年前には、大和纏向遺跡が出来上がり(日本初の中央集権体制)、今ではこの説を唱える学者はいなくなった。

    馬の渡来より、敦賀から山を越え琵琶湖北岸の塩津まで、淀川を下り河内湖まで
    馬が活躍した事であろう。
    継体天皇は近江より越、尾張勢力に推されて宮を置いた先は大和ではなく
    牧が多くあった、枚方に宮を作った。
    琵琶湖から、淀川にかけての交易を一手に握ったのは間違いない。
    この枚方地域、交野には饒速日命が降りたった、磐舟神社があることも付言しておこう。

    継体天皇の御代に磐井の乱が九州で発生、物部氏に鎮圧させているが(527年ごろ)この際、瀬戸内海に大量の屯倉を設けている、瀬戸内航路をしかっりしたものにしたのは、物流をよく知った継体天皇だったかもしれない。
    屯倉の設定により、湊が整備され、船への物資の供給が制度化されたと思う。

    遣唐使船が難波津で浅瀬に乗り上げ座礁、平清盛が大輪田泊を築くまでは瀬戸内航路は安定しなかったようである。

  7. 【4332868】 投稿者: イワサキ  (ID:uNjokJq98Es) 投稿日時:2016年 11月 22日 20:34

    明日11月23日は国民の祝日(勤労感謝の日)である。
    飛鳥時代、皇極天皇時代から続く、新嘗祭
    天皇陛下が五穀豊穣を願い、国民、国の安寧を願う。自ら五穀を食し、収穫を感謝する日となる。皇極天皇(女帝)は、天智、天武の母親なので、約1400年は続く宮中祭祀となる。

    そして、新嘗祭の前日の本日11月22日には、新嘗祭に臨む天皇陛下の魂の活力を高めるために、鎮魂祭が行われる。
    宇気槽(うきふね)の儀
    宇気槽(うきふね)と呼ばれる箱を置きそのうえに女官がのり宇気槽(うきふね)の底を10回突く。
    天の岩戸に隠れた天照大御神をおびき出すためにアマノウズメが槽の上で踊った伝承に基づく。その後
    魂振の儀が行われる、天皇の衣服(衣)を左右に10回降る。
    これは衣服に霊力を宿らせ、この衣服を翌日の新嘗祭で着用して臨むことになる。衣服に霊力を込める話は、難波津で女官が必ずおこなった、八十島祭りに通じる。そして、伝承にもなっている天の羽衣伝説にも通じることになる。
    古来は、ヒメミコ制で、女性が祭祀を行っていた所以であろう。(卑弥呼と弟など)

    実はこの鎮魂祭は宮中だけでなく、物部系の石上神宮、物部神社、弥彦神社だけが許され今でも行っている。
    物部氏租、饒速日命、宇摩志麻遅命が神武天皇の前で、十種神宝で踊り神武の安寧を祈ったとの伝承在り。
    神武が実在したかどうかわからないので、鎮魂祭、新嘗祭は物部系、饒速日命の祭祀であったことは間違いないだろう。いつしか皇統が饒速日命(物部系)から天皇家へ引き継がれたことになる。

    物部氏だけは、天皇即位、大嘗祭に特別に参加が許されていた。藤原時代になり、大嘗祭から締め出され、元正天皇、元明天皇の即位では、女帝の天皇自身が
    (石上)物部が宮中の周りで、弓の弦を鳴らしていると恐れおののいている伝承もある。
    琴を鳴らす、弓の弦を鳴らすのは呪術であり、藤原氏によって捏造された歴史ではなく、真実を知っていた女帝は物部(石上)を怒らせたと思っていたらしい。

    勤労感謝の日ではなく新嘗祭、我々日本人が知らなければならない伝統、文化であろう。

  8. 【4333514】 投稿者: イワサキ  (ID:uNjokJq98Es) 投稿日時:2016年 11月 23日 10:37

    敦賀~琵琶湖北岸~琵琶湖北東部~琵琶湖南岸~淀川~難波津~瀬戸内海
    この物流の大動脈に注目してみたい。

    近江北で生まれ、幼少期を越(越前)ですごした継体天皇、この大動脈を握った、流通王でもあり、商業王でもあったことは記載した。
    記紀には、瀬戸内海を西から上ってきた話は記載されている。神武東征、神功皇后など、だが瀬戸内海を通り、九州に向かった話は一つも出ていない。
    神功皇后も九州征伐の際には、敦賀から出航している。瀬戸内航路が整備されてなかった所以であろう。
    継体天皇は敦賀、琵琶湖勢力(近江、尾張、越)におされ即位し、淀川のほとり枚方に宮を構えたそひて、磐井の乱で物部氏に討伐を命じ瀬戸内海沿岸に多くの屯倉を設定し、湊を整備した。敦賀から琵琶湖、淀川を通り瀬戸内海の大動脈を握った初めての権力者だと推察する。

    この大動脈を完全に掌握した人物が時代が降っても天下を掌握してる。
    次には、大輪田泊を整備し瀬戸内海を上ってくる物資を完全に掌握した平清盛
    親子三代で大宰府長官や安芸守に就任し現地豪族と深く結びついた。
    京都に入る前にに神戸(大輪田泊)で積み荷を全部集め、朝廷に与える最低物資以外はピンハネし懐に入れた。そしてその財力を蓄え太政大臣に上り詰めた。
    越前敦賀は近江には平家一門を任命し大動脈を握った。敦賀は日宋貿易の船、渤海使の船が入っている。

    また大動脈に気が付いた織田信長、1568年に上洛したが、敦賀(朝倉氏)
    琵琶湖北岸(浅井氏)淀川河口難波津の石山本願寺(のちの大坂城)、瀬戸内海を毛利氏に掌握され苦戦続きであった。朝倉氏討伐で敦賀に入るが、妹、お市の方より、小豆を布の袋い入れ両端を縛ったものを贈られ、朝倉と浅井の挟み撃ちになるとの暗示に気付き即撤退した話が有名(よく謎かけに気付いたもんだ)
    大動脈の重要性を痛感したに違いない。
    後に朝倉討伐後、柴田勝家に越前をあたえ、敦賀掌握、浅井を滅ぼし、北近江長浜を羽柴秀吉に与え、自らは彦根(稲部遺跡)のすぐそばに安土城を築き、
    琵琶湖南岸の坂本を明智光秀に与え、京都までの物流は確保したが、大坂石山本願寺は瀬戸内海を毛利氏が掌握していたので兵糧が運びこまれ晩年になり和睦でやっと引き渡された。信長は石山本願寺跡に城をつくる予定だった。

    これを実践したのが秀吉である。敦賀を大谷吉継、安土城そばの佐和山を石田三成、大坂城を築城、京都と大阪の間に淀城(茶々が淀殿とよばれるようになった)、淀川水系の京都への物資搬入口、伏見(宇治川、木津川、桂川の合流地点の巨椋池)に城を築城し、琵琶湖、淀川水系、瀬戸内海を毛利の服属で完全に掌握した。一代限りの天下であったが、徳川時代にも彦根には譜代重鎮の井伊氏がはいり、重要ポイントを押さえたことになる。

    近江彦根の稲部遺跡(鉄工房、2世紀から5世紀)
    織田信長の安土城、石田三成、佐和山城、井伊氏彦根城
    琵琶湖の北東部は関ケ原にも通じ、重要ポインとであったのは間違いないところである。

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