アートの才能を伸ばす女子教育
どうして出禁にできないの?
エデュで昔からいたコテハンの方々 いつの間にかだいぶいなくなりましたが、今はコテハンにしてないけど(というより同じスレで何度もHN変える)昔からいる偏った強気の思想の方
本当にムカつく それが正当ならまだしも受験生にとって何の役に立たない。
賛同する人もいないだろうし、みんな気分を害してるだろうし、なによりも考えが偏りすぎていて有意義な情報にならないのに何故出禁にならないのだろう?
今コテハンにしてないからエデュの運営で把握することができないから?
本当に毎度毎度イライラして、登場した途端そのスレを読む気がなくなる。
確かに誰でも参加できる掲示板かもしれないけど何とかできないものなのかしら?
お考えであるからであろう。前述のように、宇野教授も19世紀中葉の英国資本主義が10年サイクルで恐慌を繰り返しつつオートマティックに高度化した展開に注目した。その根底には、この純粋資本主義が永遠に続くとの仮定(想定)が存したことに間違いあるまい。そこが、『資本論』から歴史法則(史的唯物論)を読み取る私たちとの相違点である。
観念論者でありながらも、あの大ヘーゲルの偉大な点は、あらゆる現象が与えられたどの瞬間においても静止してはいないとの現実をとらえたことである。「昼はすでに夜を含み、夜はすでに昼を含む」のである。ただ、そうした歴史発展の原動力を精神の自己展開ー個人の主観的意図如何ーに見出したところに過ちがあったといえる。なぜなら、各時代で人がいかなる思想を有するのかは、彼が産みおとされた社会が、「何をいかに生産するか」によって決定せられるからである。
>理想と現実は違うけれど、為になりました。
だが、むしろ逆である(失礼ながら)。唯物論こそ、素朴実在論であるからだ。「あるがままなる現実」を真摯に見つめる。それは自然科学と土台を同じくし、物質を根源的な実体と認め、感覚・意識・思惟等を二次的なものとする。しかも、それらの認識批判を実践と切り離さない。科学同様に「未決定な世界」にいかなる妄想も持ち込まず、一つひとつ実践でもって解決する。
他方で、むしろ、そうしてあるがままなる現実のほかに何らかの「真の存在=理想」を設定しようとするものこそ、プラトン以来の観念論の伝統ともいえる。しかも、一部はそうした「現実や現象の背後」に好き放題な妄想の巣さえ構築する。そして、悲惨な現実=実在から目を逸らし、実践での解決を怠り、逃亡する。死後の「天国」や「極楽」の存在を声高に唱えることによって。人々の不満を懸念する為政者・支配層らにとって、これほどありがたい応援団はあるまい。
したがって、あなた様ご自身の主観的意図はさておき、「理想と現実は違う」との巷間でいわれる言辞には、苦しむ人々に対し、そうした不当な「現実」の甘受・容認を迫る欺瞞性さえ含む虞れあるのである。































