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【6432293】自慢話が好き

投稿者: 時代錯誤というより存在自体が錯誤無効   (ID:ZcqB7O1jyWE) 投稿日時:2021年 08月 02日 11:49

何でも書き込める掲示板ですが、時々事実を述べているだけなのに「○○を自慢したいだけだろう」式の突っ込みが入り、そこで話がとまるのを見かけることがあります。
これは惜しいと思います。
薄い論評はなくても問題ありませんが、各人固有の経験は貴重です。
論評としてはあり得ない珍論を展開していながら、趣味や個人的に経験したことはなるほどと思うことがしばしばありませんか?
むしろその種のことを寛容に見ていく方が読むに足る話が出てくる気がします。
みなさんはどう思いますか?

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  1. 【6446402】 投稿者: 広松渉の誤謬  (ID:wWmR05FXUsQ) 投稿日時:2021年 08月 16日 01:01

    広松渉はいう。マルクスの『経哲草稿』には近代的な主客図式があり、『ドイツ・イデオロギー※』ではそれを超克して現代的な物象化論の地平に立ち、哲学を展開している、と。しかし、それは『ドイツ・イデオロギー』の解釈の誤りであり、そこでは唯物史観の基本が叙述されているに過ぎず、生きた現実的な諸個人それ自体の論理が唱えられているわけではないと思われる。

    なぜなら、この段階のマルクス・エンゲルスには、後の『資本論』で展開されたような社会的分業と商品生産との弁証法的な姿勢は見受けられないからである。しかも広松においては、そうした『ドイツ・イデオロギー』の限界への無自覚が、後述のように「物象化」に関する誤謬によって隠蔽されていると指摘せざるを得ないのである。

    そうした広松による一連の「物象化」概念の内包的拡大(サルトルへの接近もある)は、およそ私たちに首肯できるものではない。なぜなら、物化とは労働力さえ商品化した資本制経済の固有な疎外現象としてとらえねばならないと考えるからだ。そして、それはマルクス的に言うならば「生産諸関係の物化」をいう。他方、物神性とは、商品・貨幣・資本などがもの(価値)であるにもかかわらず、それらがそれを生み出した労働から切断され自立的に自己運動することをさす。しかしながら、わが広松は「物象化」との概念のもとに、この物化と物神性とを混同する。

    あまつさえ広松は、上述の如く「疎外論の地平は初期マルクスの近代主義のあらわれであるのにたいして、物象化論は近代主義を克服した地平をしめすものだ」などと、疎外論と物象化論とを機械的に切断してしまう。その結果、物化現象の把握=現代哲学の地平とまで飛躍する。

    だが『資本論』における資本制商品経済の物化構造論と『ドイツ・イデオロギー』での社会的分業的な事物化論とは異質なものである。しかも、そこからいかにして物化されている自身を克服し、自身が実存する資本制経済社会を変革すべき主体的な論理が生みだされていくのであろうか。われわれの批判的対象たる資本制社会の政治経済的解明=対象分析たる『マル経』は、その変革自体の実践論=現実変革論とは別個に検討されるべきだ。したがって、残念だが今回は御所論には同意しかねる。

    なお、この問題はマルクス主義哲学の実践=認識主体とは何か、を問うとの重要な本質を包含しているといえる。

    ※実際の草稿のほとんどは、エンゲルスによって執筆されたという。

  2. 【6446573】 投稿者: 要は  (ID:wWmR05FXUsQ) 投稿日時:2021年 08月 16日 09:11

    広松における批判として、読書の客観主義の欠陥が指摘されてきた。すなわち、字句への拘泥とか種々のカテゴリーの単純な文理解釈もどきについてである。その結果、前述のような「疎外」と「物化」とをカテゴリーの平面で区別つけること如きに錯覚、拘泥する。

    そのうえで、例のアドラツキー版『ドイツ・イデオロギー』についての「偽書」問題においても、ただ文献考証的に騒ぎ立てるだけであって、そこで展開されているマルクス・エンゲルスの「新しい世界観」のガイストと核心をつかみそこなっているとの批判も、従来からなされてきた。

    しかしより大切なことは、それが「偽書」如何の判定にあるわけではなく、『ドイツ・イデオロギー』自体の内実を場所的に―現在的に―再把握し、捉え返すことにあると思われるのである。それが発展の論理たる弁証法において、また変革の哲学たるマルクス主義において求められる当然の在り方であると考えられる。

    エンゲルスについても、たとえそれがマルクス主義の解説の形をとる場合であっても、決して彼はマルクスのための第二ヴァイオリンを弾いていたわけでもあるまい。むろん、その中にエンゲルスによるマルクスの変形が見受けられることは事実であり、一定の批判はやむをえまい。

    ただ、どのようにエンゲルスが批判されるにせよ、前述のように科学的に未決定の領域・世界に対して認識者としての彼が堅持した透徹した純潔性(精神)は、観念論の欺瞞性を鋭く暴露するものとして高く評価されるべきと思われるのである。その点が、広松になるエンゲルス観との相違である。

  3. 【6446700】 投稿者: パリ留学  (ID:0xXpPgHFBV2) 投稿日時:2021年 08月 16日 11:42

    >なぜなら、物化とは労働力さえ商品化した資本制経済の固有な疎外現象としてとらえねばならないと考えるからだ。そして、それはマルクス的に言うならば「生産諸関係の物化」をいう。他方、物神性とは、商品・貨幣・資本などがもの(価値)であるにもかかわらず、それらがそれを生み出した労働から切断され自立的に自己運動することをさす。


    世界中の労働力が資本制大工業が紡ぎだす価値形態に組み込まれることによってはじめて異質な労働を共通の基準で比較考量できるようになるのです。
    例えば、あなたの労働が1時間あたり2000円で、地球の裏側のブラジル人の1時間あたりの労働が1000円だとすると、そこに格差が認められるが、現地の物価水準を勘案して購買力平価で計算するとそれほど変わらないという分析が可能になる。
    逆に言えば、価値形態が世界を覆うことによってはじめて、世界中の人々の労働が単位当たりの価値を計量することによって、平等な価値を与える基盤が確立する。
    価値形態が世界を覆うことなくしては労働の平等化も実現できない。
    人は自らの意識が言語体系に組み込まれることなくしては物の認識さえできない。
    例えば、目の前の美しい花を“花”という外在的な言語体系に組み込まれた概念を通じて認識することを意識の外化であり疎外だと言ってしまったら、概念を操作して思考することそれ自体が疎外ということになるでしょう。
    まあ、不立文字という禅の思想では言葉を使って思考することを止めないと仏性は感得できないとしているが、その観点に立てば、言葉を用いる思考は意識の疎外という論理も成り立つだろうが。
    もっとわかりやすく言えば、「世界に一つだけの花」は言葉による一般化はできないから、特別なナンバーワンとして誇らしく咲けばいいというスマップのメッセージということになる。

  4. 【6446726】 投稿者: パリ留学  (ID:0xXpPgHFBV2) 投稿日時:2021年 08月 16日 12:03

    >すなわち、字句への拘泥とか種々のカテゴリーの単純な文理解釈もどきについてである。その結果、前述のような「疎外」と「物化」とをカテゴリーの平面で区別つけること如きに錯覚、拘泥する。

    「疎外」と「物象化」の区別は広松の理論の枢要ですよ。ここを峻別することなしに、彼の思想の全貌を把握することはできない。
    それを単なる字句への拘泥とみなすとは・・・・笑い

    >ただ、どのようにエンゲルスが批判されるにせよ、前述のように科学的に未決定の領域・世界に対して認識者としての彼が堅持した透徹した純潔性(精神)は、観念論の欺瞞性を鋭く暴露するものとして高く評価されるべきと思われるのである。

    精神の純潔性とか倫理的な高邁さとかを問題にしているわけではありません。唯物論と観念論との二項対立を枠組みとした論理基盤から紡ぎだされる理論を、その前提から検討しなければならないと言っているのです。
    つまり、弁証法的理性を依って立つ基盤から再検討しなければならない。

  5. 【6446747】 投稿者: 訂正  (ID:ETYFFZGGo8g) 投稿日時:2021年 08月 16日 12:20

    特別なナンバーワン→特別なオンリーワン

  6. 【6446963】 投稿者: 資本主義下における労働の本質  (ID:wWmR05FXUsQ) 投稿日時:2021年 08月 16日 17:04

    社会的生産の本質は生産と所有との根源的な統一にあり、所有形態としては共有または集団的な所有となる。他方、生産活動が共同協力によって実現されるものである限り、労働関係を取り結ぶ人間間において生産物の従属的な契機としての分配がなされる。しかし、資本制社会においては「生産と所有の分裂」という集団的な社会的所有の対立物としての階級社会における矛盾に因り、生産へ反作用する分配関係はつねに支配階級によって生産手段の所有関係として法制化される※。

    たとえばフランス人権宣言17条や米国憲法修正5条などに象徴的な財産権を絶対視して、これを最大限尊重しようとの精神である。それはたしかに資本制社会発展の基盤となったといえる。そして、わが日本国憲法もまた29条において財産権の不可侵を定めることによって、生産手段の私有を含めた私有財産制を基礎とする資本主義的経済制度を採用したと解される。だがそこにある生産と所有との分裂に決定された社会的生産様式の裏面に、資本制商品経済のもとに編み込まれている直接的生産過程において創造される剰余価値が資本家によって不当に取得される「搾取」が巧妙に仕組まれている。

    しかし、それは他方で生産された生産物が当該生産者自身によって直接に所有されなくなる―生産者に直接復帰しなくなる―との事実を惹起する。これが、階級社会における生産物や生産力の事物化(Versachlichung)であり、この生産と所有が分裂した階級社会における一般的な性格を指す。それは労働力の商品化を基礎とした資本制商品経済に特有な性格たる物化(Verdinglichung)と区別されねばならない。そして経済の商品経済的物化構造において、商品や貨幣等の物神性があらわれるのである。

    続く

  7. 【6446966】 投稿者: 同②  (ID:wWmR05FXUsQ) 投稿日時:2021年 08月 16日 17:07

    続き

    たしかに、こうした資本制社会においては契約自由の原則は形式的には承認されている。だが実質的には、労働者は不利益な立場で労働契約を結ばざるを得ない事情に立たされる。なぜなら、上述の如く資本制社会において生産手段を所有しない労働者はその所有者である使用者=資本家に労働力を売り渡し、その対価である賃金でのみ生活する者であるからである。

    すなわち、生活を守り、生きていくために労働者は、使用者に労働力を販売せざるを得ない立場に立たされる。そして、労働力という特殊な商品はその性質上売り止めや売りおしみができず、今日の労働力は今日売らなければその対価である賃金が得られず、生活を営み生命を維持できないとの弱点を有するのである。

    このような事情のもと、使用者=資本家は優位な立場に立ち、賃金や労働条件を一方的に決定し、他方労働者はそれをうのみにして労働契約を締結せざるを得ない立場に追い込まれる。これが中世の封建的支配関係を打破し、人格の平等を実現するため意思の自由を確保し、私的自治の原則―「自己の意思?」に基づく行為の自由―を定めた「近代法」の本音なのである。こうして、使用者による搾取は巧妙に正当化されていく。

    ※「『政治』とは『経済』であり、『法』とは『政治』である」。そこでは支配層の体制的意思が議会で法として化体される。この国での富裕層や大企業への各種優遇税制、事実上搾取し放題の労働者派遣法、残業代ゼロ、労働者働かせ放題の「高度プロフェッショナル制」等々をみよ。

  8. 【6447174】 投稿者: パリ留学  (ID:d.Y.XfRxnws) 投稿日時:2021年 08月 16日 20:37

    >資本制商品経済のもとに編み込まれている直接的生産過程において創造される剰余価値が資本家によって不当に取得される「搾取」が巧妙に仕組まれている。

    絶対的剰余価値=搾取、の問題は以前にあなたと詳細に議論しましたよね。
    今回は2度目なので簡略に示しますと、
    工場制手工業の労働者が1時間あたりに生産する生産物を1とし、機械制大工業の労働者の1時間当たりの生産物を5とします。
    1時間当たりの賃金は慣習的に決まっていて同じだとすると、機械制大工業の経営者は工場制手工業の場合に比べて5倍の利益を上げることができる。これを労働者に還元しないのは搾取だ、ということですね。
    でも、これは「減価償却」を考えていない粗雑な議論です。(マルクスの時代には近代的な会計システムが確立されておらず減価償却の概念がなかった)
    手工業の時に比べて生産物が5倍に増えたのは、機械を導入して生産過程が効率化したからです。機械は資本家が投資して導入したものであり、その支払いに向けた引当金を売り上げから計上する必要があります。また、機械は耐用年数が過ぎたら更新しなければならないのでそれに向けた積立金も必要になります。これが減価償却です。
    減価償却を引くと絶対的剰余価値はほとんど残らない。だから、搾取は実質的にほとんど0となる。

    >すなわち、生活を守り、生きていくために労働者は、使用者に労働力を販売せざるを得ない立場に立たされる。そして、労働力という特殊な商品はその性質上売り止めや売りおしみができず、今日の労働力は今日売らなければその対価である賃金が得られず、生活を営み生命を維持できないとの弱点を有するのである。

    確かに労働者は資本家に労働力を商品として売って生きる者たちだから、弱い立場にある。
    だからこそ、教育によって自らの商品に「希少性」や「差別化」を持たせることが必要になってきます。それは技術であったり学歴というブランド力であったりします。そのことについて議論する場がエデュであるわけでしょう。
    希少性を持たず差別化もされていない単純労働みたいな商品は代替が容易なので安く買いたたかれます。
    というよりも、こういう商品はどんどん外国に受注するようになっていて、日本人からの需要はほとんどありません。
    だから、単純労働の労働者が組合を作って経営側と団体交渉を行っても、資本家はさっさと国内の工場を畳んで海外で生産するようになります。
    文在寅の政策を見ればわかるでしょう。

    まあ、派遣労働の問題は深刻だとは思いますけどね。
    でも、IT革命が進行して社内に固有の経験知の必要性が減少してintegrate型の労働からmodular型の労働へと変化していけば、正社員と派遣社員の垣根もなくなって、この問題も解決していくでしょう。

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