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【6432293】自慢話が好き

投稿者: 時代錯誤というより存在自体が錯誤無効   (ID:ZcqB7O1jyWE) 投稿日時:2021年 08月 02日 11:49

何でも書き込める掲示板ですが、時々事実を述べているだけなのに「○○を自慢したいだけだろう」式の突っ込みが入り、そこで話がとまるのを見かけることがあります。
これは惜しいと思います。
薄い論評はなくても問題ありませんが、各人固有の経験は貴重です。
論評としてはあり得ない珍論を展開していながら、趣味や個人的に経験したことはなるほどと思うことがしばしばありませんか?
むしろその種のことを寛容に見ていく方が読むに足る話が出てくる気がします。
みなさんはどう思いますか?

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  1. 【6445155】 投稿者: パリ留学  (ID:8dMwmSklhPc) 投稿日時:2021年 08月 14日 23:20

    すごいですねえ。
    私は法学についてはまったく門外漢なので何のコメントもありませんが、
    Fさんがシルビィ・バルタンのことを語っていたのはちょっと意外で親近感を持ちました。
    実は私がシルビィの歌で一番好きなのは「je vivrais pour deux」という歌です。
    これは失った恋人を内面化して、ほとんどイデアのような本質として純化して、いつまでもそれと共に生きる、と言っている歌で、ある種のプラトニズムを感じさせる歌です。
    イエス・キリストが死してのち、弟子たちの心に本質として蘇るというのもこれと似た思想といえます。こんな何気ない流行歌にもカトリシズムの真髄が現れるというところがいかにもフランス文化です。
    シルビィが私の十代二十代のアイドルだとしたら、三十代のアイドルは周慧敏です。
    周慧敏の「看不清哪一个是真正的自己」という歌はいいです。どれが本当の自分かわからない、くらいの意味です。いずれも、検索すれば聴くことができます。三十代にはこのアイドルに励まされ中国語を勉強しました。
    中国の「打鬼子」ドラマについては一家言を持っています。

    ところで、いつも披歴されているFさんの「科学で解明できないことに関しては謙虚にならなければならない」という御所論はウィトゲンシュタインの「語られないことについては沈黙しなければならない」から来ているのではないかといつも思っています。
    いかかですか?   

  2. 【6445181】 投稿者: ダイヤモンド地下街  (ID:KoINpDxXHu2) 投稿日時:2021年 08月 14日 23:52

    父は旧制の最後の方の入学だったみたいです。
    立派な先生に習ったんだよと誇らしげに言っておりました。
    いずれの先生も斯界の重鎮だったのですね。
    私に「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」という司法の独立を理由に、裁判官という道もあるのではないか、と勧めてくれたこともありました。
    今日は二俣川先生の紹介文を読みながら父の青春時代に思いを馳せ、父の思い出に浸ろうと思います。
    こんなことを教えてくださる方はこの掲示板で貴殿だけです。胸がいっぱいです。本当にありがとうございました。

  3. 【6445234】 投稿者: 恐縮至極  (ID:wWmR05FXUsQ) 投稿日時:2021年 08月 15日 01:31

    シルビィ・バルタンは、単に若く飛び切りの金髪美人であったことに尽きる。ゆえに後年再来日したときには、―語弊あるが―幻滅した。ただ、彼女の歌はすべて好きである。また、そこにカトリシズムの存在をご指摘されたことは興味深くうかがった。

    ところで、私が以前論文で、ある先達の共産主義者からの転向につき、彼のドイツ留学中におけるカトリシズムからの影響を指摘した。それに対し、東大出身のある研究者から当地での宗教事情の点で疑問を呈されたことがあった。だが、それは一面的な見方であり、庶民生活でのカトリシズムの存在感を軽視したものだと反論した。もっとも私自身は後述のように科学の限界の先につき、観念論が勝手な主観的妄想を展開することを批判する。しかし他方で、人間が宗教や占い等の世界に救いを求めるとの心情も決して否定しない。

    それは、スターリニストらの単に対象的世界の反映という客観主義化した唯物論に対し、外的世界の反映や意識を基礎としつつ人間主体の意識という内部世界を創り出すとした梅本克己の主体性論にも通じるものがあると考えている。そして、その梅本が新入生の私に対し著書を通じて教えてくれた哲学が、自然(物質)を本源的なものとし、「精神」の如き非物質的なものからの宇宙創造という虚構を拒否することであったのである。それにつき、エンゲルスも次のように述べている。

    「存在は一般にわれわれの視野の果てる境界から先は未決定の問題である。世界の現実的統一性は世界の物質性にある。そしてこのことは、二・三の手品師的言い草によってではなく、哲学および自然科学の、長いそして遅々たる発展によって立証されるのである」(『反デュ―リング論』Herrn Eugen Dührings Umwälzung der Wissenschaft)

    なお、中国の歌では台湾映画の『最後一夜』が思い出深い。抒情的な調べに乗せて蔡琴が歌うあの名曲を聴くたびに、私だけが知る中国留学時代の切ない思い出が蘇る。

  4. 【6445242】 投稿者: お役に立てて光栄  (ID:wWmR05FXUsQ) 投稿日時:2021年 08月 15日 01:53

    今日は終戦76周年。
    2000万人にもおよぶというアジア太平洋戦争の犠牲者の無念にも思い致したい。
    二度と同じ過ちを繰り返さぬとの決意とともに。

  5. 【6445974】 投稿者: パリ留学  (ID:uUo1HS5T6Ic) 投稿日時:2021年 08月 15日 18:18

    >そして、その梅本が新入生の私に対し著書を通じて教えてくれた哲学が、自然(物質)を本源的なものとし、「精神」の如き非物質的なものからの宇宙創造という虚構を拒否することであったのである。それにつき、エンゲルスも次のように述べている。
    「存在は一般にわれわれの視野の果てる境界から先は未決定の問題である。世界の現実的統一性は世界の物質性にある。そしてこのことは、二・三の手品師的言い草によってではなく、哲学および自然科学の、長いそして遅々たる発展によって立証されるのである」(『反デュ―リング論』Herrn Eugen Dührings Umwälzung der Wissenschaft)

    世界は「精神(ガイスト)」の自己展開により生成発展していくというのがヘーゲルの観念論であって、これは決して物質と精神の二項対立を意味していない。
    むしろ、「理性的なるものは現実的であり、現実的なものは理性的である」との所論の如く、理性的なるもの(精神)は現実的なもの(物質)に絶えざる転化を遂げて進化していくというのがヘーゲルの観念論だ。その生成変化の過程が弁証法的発展ということになる。
    軍馬にまたがってイエナの丘を進軍するナポレオンを遠目に見て、ヘーゲルが「見よ!世界精神が行く」と呟いたというのは有名な話だが、ここでは、ナポレオンという身体的な物質を精神とみなしており、世界が発展進化していく先を啓示する理性の体現者である物質としてのナポレオンを見ている態度が認識できる。
    「社会的存在が人間の意識を規定する」というのは、マルクスが『経済学批判』で示したテーゼだが、『反デューリング論』や『空想と科学』や『ドイツイデオロギー』(この書はマルクスの遺稿を元に実質的にエンゲルスが編纂した)で、このテーゼを広範な領域に敷衍したのはエンゲルスです。いわゆる、物質性が精神を規定するという、ヘーゲルのテーゼをさかさまにしたテーゼだが、物質と精神のどちらに主導性があるかという議論にすぎず、いずれも弁証法的に生成発展するという点では、論理的基盤を同じくする理論だ。

    だが、マルクス主義を弁証法そのものから解き放って、まったく異なる論理的基盤の上に展開していこうとする試みがある。それがサルトルの『弁証法的理性批判』だ。
    サルトルの哲学はもともとフッサールの現象学の論理的基盤の上に展開されているが、彼の試みはマルクス主義を弁証法の論理基盤から現象学の論理基盤へと転換していくことにある。
    これを対概念で表現すると、弁証法の場合は物質と精神が対概念だが、現象学の場合は、形式論理(世界定立)と超越論的認識(現象学的還元)が対概念となる。
    つまり、歴史の進展による変化に伴って機能不全になった世界定立を、超越論的認識に立って俯瞰し、その問題点を修正し、再定義し、再構築することによって現象学的還元を行うことが社会変革であり革命だということになる。

    まあ、論理学の観点からは、こういう解釈が成り立つということです。

  6. 【6446116】 投稿者: お答えしよう  (ID:wWmR05FXUsQ) 投稿日時:2021年 08月 15日 20:32

    むろんマルクスはヘーゲルの弁証法の偉大さをよく理解していた。ただその弁証法が正しく生かされるためには、神学の合理化としてのヘーゲル体系の秘密を暴き出さねばならなかったのである。発展の論理弁証法は歴史の論理学である。そしてヘーゲルは、たしかに自然と歴史の中から弁証法の諸法則に対する適切な例証を付与している。

    しかし、惜しむらくはあらゆる存在の根源に「思惟」を置くヘーゲルにあっては、現実の発展は思惟の発展の中に解消されてしまう。そしてひとたび論理が形成されるや否や、その形成の過程が忘却され、論理(思惟過程)が現実の創造主に逆転してしまうのである。それでは、過ぎ去った過去の歴史は解釈しえても、現在を生きる我々にとって重要な老廃したこの現実を批判し、変革する指針たるものとは考えにくい。

    たしかに、すべての存在を生成と消滅との運動のなかにとらえ、あらゆる存在は自己の生長そのもののために自己に対立するものを求めることを見抜いたヘーゲルの慧眼は称賛に値する。だが、その対立はそれ自身思惟が生みだしたものに過ぎず、その矛盾を通して新しい何かが生まれでるものではない。換言すれば、彼はただすべて現実は対立の統一として成り立っている、ということを証明して見せただけに過ぎないともいえる。

    続く

  7. 【6446123】 投稿者: 同②  (ID:wWmR05FXUsQ) 投稿日時:2021年 08月 15日 20:37

    続き

    そこで、等しく対立の統一の論理といわれても、そうしたヘーゲルと自己の弁証法を区別してマルクスは、次のように記したのであった。

    「その神秘化された形態においては、弁証法はドイツの流行になった、というわけは、かかる弁証法は現存するものを神々しくするように見えたからである。その合理的な姿態においては、弁証法は、ブルジョア階級およびその理論的代弁者たちにとり、一つの痛恨事であり、一つの恐怖物である、というわけは、かかる弁証法は、『現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、それの否定の、それの必然的な崩壊の、理解をも包含し、_引用者』との生成せる形態をも運動の流れにおいて、従ってまたそれの経過的側面から、理解し、何ものによっても畏伏せしめられず、その本質上、批判的かつ革命的であるからである」(『資本論』第二版への後書)

    マルクスの偉大な点は「現実的なものは合理的であり、合理的なものは現実的である」とのヘーゲルのみた世界史から、その自ら育てた矛盾に因って非合理になったものは崩壊せねばならぬとの真理の発見であった。そして哲学の任務とは、そうした現に滅びつつあるものの中から何が起こりつつあるのか、を見極めることにあると思われる。そして唯物史観は、生産諸力と生産諸関係の弁証法(上記では割愛したが)と人間社会の歴史的発展の特殊的法則を明らかにしたのであった。

  8. 【6446250】 投稿者: パリ留学  (ID:mnGT7DkbWTc) 投稿日時:2021年 08月 15日 22:21

    >そして、その梅本が新入生の私に対し著書を通じて教えてくれた哲学が、自然(物質)を本源的なものとし、「精神」の如き非物質的なものからの宇宙創造という虚構を拒否することであったのである・・・・存在は一般にわれわれの視野の果てる境界から先は未決定の問題である。世界の現実的統一性は世界の物質性にある。

    私が問題にしているのは、「社会的な存在が人間の意識を規定している」というテーゼにおける社会的な存在を物質性(物質)とみなし、このテーゼを意識(精神)に対する物質(性)の優位と理解する視点なのです。あるいは、意識は物質的諸条件の反映に過ぎないとする解釈なのです。
    エンゲルスは『反デューリング論』において、このような観点に立って論を展開していますが、広松渉大先生も言っているように、エンゲルスはマルクスの思想を浅薄な理解によって歪めています。
    日本では「人と人との関係が物としての関係になる」という文言を、人間精神の物象化あるいは物神化を意味するものとして理解している者が多いですが、reification,fetishismが物象化、物神化と訳されているのでこのような誤解が生じていると思われます。(ドイツがわからないので英語で勘弁してください)
    これは貨幣や商品の価値形態が人間精神に浸透し、価値形態の論理が人間関係や社会関係を規定していくようになるという現象を表しているだけで、即物的な意味での物とは関係ないのです。

    >そして唯物史観は、生産諸力と生産諸関係の弁証法(上記では割愛したが)と人間社会の歴史的発展の特殊的法則を明らかにしたのであった。

    ここで言う生産諸力と生産諸関係も社会的な事象を表しているものでこれを物質的諸条件とだけ理解するのは誤りです。正確には、人間関係や社会関係を背景にした物質的諸条件と理解すべきで、広松が言うように、事(事象)と捉えるのが適切です。
    ルカーチや広松の物象化論もそのように理解すべきであって、人は言語の意味形態や文法体系を通じて世界を認識するように、貨幣や商品の価値形態を通じて事物の優劣を比較しながら認識する、というのに過ぎないのです。
    物理学の研究対象としての物とは全く関係がないのです。

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