「こんな国に産んでごめんね」―教育も経済も衰退する日本の未来
15歳の中学3年生の息子を亡くした母親が、涙ながらに「こんな国に産んでごめんね」と呟いた事件。2015年、長野県佐久市で起きた悲劇。加害者は飲酒運転を隠すために、事故直後コンビニで口臭防止剤を購入するという衝撃の行動。その結果、ひき逃げの疑いで起訴されたが、一審では有罪、二審では「直ちに救護しなかったとは言えない」という判断で逆転無罪となった。
この事件は単なる個々の悲劇ではなく、我々日本人の精神的・社会的な劣化を象徴しているように思える。不景気が続き、国の経済は低迷、そして教育の質も下降線をたどっている。かつては夢と希望に満ちた未来が約束されていたはずのこの国が、いまや生徒たちは何のために学び、何を目指すのか分からなくなっている。社会全体が、道徳心や責任感を失い、自己中心的な行動を許容する風潮に支配されているのではないかという危機感すら覚える。
政府の救護措置や安全対策の甘さ、そして高い社会的コストを伴う現状は、単に個人の問題だけでなく、国家全体の未来を危うくする。最高裁が今、弁論を開き再検証する中で、両親は「絶対に救護義務違反」として厳正な処罰を望んでいる。
この判決がどう転ぶかはさておき、我々はこの事件を通して、不景気、教育の低下、そして夢を持てない社会という現実に目を向ける必要がある。国民一人ひとりが未来に希望を持ち、変革への一歩を踏み出さなければ、今後もこんな取り返しのつかない悲劇が繰り返されるのかもしれない…。
皆さんは、今の日本社会にどんな未来を期待していますか?
#不景気 #教育低下 #日本の未来 #救護義務 #ひき逃げ
この逆転無罪判決を聞いて、正直「司法はどこまで劣化したのか」と呆れるほかない。
飲酒運転で人を轢き、救護よりも証拠隠滅を優先した人間が無罪になるなど、到底納得できるものではない。
事故後の行動がたった1分だろうが10分だろうが、救命措置を取らずに逃げた時点で、その「1分」は被害者の生死を左右する重大な時間だったはず。それを軽視した司法の判断は、人命よりも加害者の「都合」を優先したと言われても仕方がない。
それにしても、この国ではいつから「逃げ得」が当たり前になったのだろう。
飲酒運転の事故でも「帰宅後に飲んだ」と言い張れば罪が軽くなる、逃げれば過失扱いになる——こんな理屈がまかり通るのなら、真面目に法律を守る意味はどこにあるのか。司法は「日本人の民度が高い」とかいう謎の自画自賛に浸る前に、こうした抜け穴を塞ぐ責任を果たすべきではないか?
この手の判決が続くたびに、「昔の日本ならこんなことはなかった」と言い出す人がいるが、それもまた幻想にすぎない。
そもそも司法は昔から、権力者や特定の立場に甘く、被害者側が泣き寝入りする構造だった。その現実に向き合うことなく、「外国よりマシ」だの「日本は民度が高い」だのと謎の精神勝利に走る姿勢こそ、日本社会の劣化の証拠だろう。
被害者遺族は、何年経ってもこの痛みを背負い続ける。しかし加害者は、司法の甘さに守られ、のうのうと社会に戻ってくる。そんな理不尽が許される国で、「法治国家」を名乗るのは、もうやめにしたらどうか?