日本に生まれただけで超ラッキー
どんな庶民に生まれてもあらゆる夢を追える。
貧しくてもそこそこ豊かな生活。
安全で平和で清潔。
こんな国、日本以外にどこにある?
征服王朝という言葉から、あたかも漢族もずっと周辺民族に圧迫されたかのような印象を持つが、これも違う。
満州は清朝建国までは女真族の故地。チベットも然り。始皇帝の秦もチベット族の国と言われている。モンゴル人も内蒙古が故地で、今でも大半がモンゴル人民共和国ではなく、内蒙古に住んでいる。
全部中華人民共和国に併合されてしまい、漢族がどんどん植民している。
この質問に対して、アカデミックな観点から答えてみようか。
「植民地になったか否か」という論点を考える際には、国際法的な定義や歴史学における植民地の概念を明確にする必要がありますよね。
1. 植民地の定義とは?
歴史学や国際法では、「植民地(colony)」とは、ある国家または民族が他の地域や民族を支配し、政治的・経済的・社会的な主権を奪う形で統治する領域を指します。これには以下の要素が含まれます↓
•外部勢力による支配(支配者と被支配者の明確な関係)
•本国とは異なる政治的・法的地位(植民地の住民は本国の市民と異なる権利を持つことが多いです)
•経済的な従属(植民地の資源や労働力が本国の利益のために利用される)
2. イングランドの歴史的な支配の変遷
「イングランドはノルマン人の国だが、これは植民地になったことがあるのか?」という問いに答えるには、ノルマン・コンクエスト(ノルマン征服、1066年)をどう解釈するかが鍵になります。
ノルマン・コンクエストは「征服」で、国際法上の「植民地化」とも異なる性質を持ちます。
•1066年、ノルマンディー公ウィリアム(後のウィリアム1世)がイングランドを征服し、ノルマン朝を開いた。
•これは征服王朝の交代で、イングランドは「外部勢力によって植民地化された」というより、「新たな支配層が上に乗り換わった」という形に近いでしょう。
•イングランドの国家としての継続性は維持され、現地の法制度や文化も一部は存続した。
•その後、ノルマン系の王朝がイングランドの政治体制に溶け込み、英仏間で領土問題をめぐる対立を続けた。
この点から言えば、ノルマン・コンクエストは「支配者層の交代」には該当しますが、近代的な意味での「植民地化」には当てはまらないというのが歴史学の一般的な解釈だと思います。
3. では「植民地になったか否か」は何の論点か?
あなたは「植民地になったことがあるのか?」という点を論じていますが、それ自体は本論の焦点ではありません。
今回の(私の)議論の本質は、「日本は一度も植民地になったことがない」という主張が歴史的事実に照らして、本当の意味で正しいのかどうかという点です。
したがって、↓
•「イングランドが植民地になったことがあるか?」という問い自体は、本論に対する適切な比較対象ではない。
•ノルマン・コンクエストと植民地支配は本質的に異なる現象で、「イングランドの歴史」を持ち出しても、日本の植民地経験の有無を論じる上での妥当なアナロジー(類推)にはならない。
•議論の論点をずらす(いわゆる “Red Herring” 論法)形になっていて、学術的な正確性を持たない反論、要は「コイツ、なんかウザいから、イチャモンつけたろかぁ〜?」の域を出ない。
◆結論
•ノルマン・コンクエストは征服王朝の交代で、イングランドが「植民地になった」とは言えない。
•「植民地になったかどうか」の論点は、日本の歴史的経験の議論であって、イングランドの例を持ち出すことは論理的に適切ではない。
•議論の主題(日本の占領や植民地支配の実態)に対する反論にはなっておらず、論点のすり替え。
アカデミックな観点から冷静に指摘するなら、このような形になりますね。どうですか?
植民地になったか否かを論じて何が言いたいのかというパトスを問うている。
要するに植民地化した国は強く、された国は弱いと言いたいのか?
他方植民地したということはモラル的に褒められないという価値観で、植民地化されなかったということを誇りたいのか?
という主張したいパトスを聞いているんだよ。
だから、何?ってこと。
中国は植民地化されたというのは印象論。支配地域を拡大し続けているというのが事実。ロシアやアングロサクソンもまあそうだ。和人は朝鮮半島の支配地域を失った。
また面白いネタだね。キミの主張に対しては、歴史学的な観点から整理して検証してみようか。書き始めの時点で明確に反論を第一義的目的とはしてないからね。
1. 日本は「侵略された側」という主張について
「日本は明らかに侵略された側」とのことだけれど、これは特定の時代だけを切り取って主張することによる誤解だと思う。確かに、歴史を振り返ると、日本が外部勢力から圧力を受けたり、侵略の危機にさらされたことはある。しかし、これはどの国にも共通することであって、「日本=常に侵略された側」と単純化するのは正しくない。
また、「侵略された=弱い」という単純な構図も歴史的には誤り。国家の盛衰は、軍事力だけでなく、外交・経済・地理的条件・同盟関係などの様々な要素が絡むものだからね。
2. 任那の滅亡と朝鮮半島との関係
「任那の滅亡までは日本の支配地域が朝鮮半島南部にあったのは明らか」
この部分は、古代史研究ではいまだに議論の余地があるよね。確かに『日本書紀』などには日本(倭)の影響が及んでいたとする記述があるけれど、これは日本側の記録で、中国や朝鮮の記録とは異なる視点がある。
一方、考古学的には、4~6世紀頃の朝鮮半島南部(特に伽耶地域)で日本と関わりのある出土品(倭系の鉄器や土器etc.)が多く見つかっていて、日本の影響があったことは確か。ただし、「日本の支配地域」だったのか、「貿易・軍事的同盟関係があった」のかについては、歴史学者の間でも解釈がまだ分かれている状態で断言できない。
つまり、「日本が朝鮮半島南部を完全に支配していた」と断言するのは学術的にはまだ不可能でしょう。
3. 新羅・百済の関係:属国か朝貢国か?
「新羅や百済も日本の属国か朝貢国だった」
これも単純化しすぎた主張。確かに、『日本書紀』には新羅や百済が倭に朝貢していた記述がある。しかし、これは外交儀礼の一環で、必ずしも「属国だった」ことを意味するわけではない。
実際、中国を中心とした東アジアの国際秩序では、周辺国が中国に朝貢することで貿易を認めてもらうという制度があった。同じく、倭も朝鮮半島の国々との間で朝貢関係を築いていましたが、それは対等な「外交関係」の一形態だった可能性が高い。
つまり、新羅や百済が「属国」だったのではなく、当時の外交システムにおいて一定の影響関係があったというのが妥当な見方でしょう。
4. 「満州からやって来た朝鮮民族に押し出された」という主張について
これもやや単純化されすぎていると言えるでしょうね。確かに朝鮮半島の民族系譜をたどると、満州方面(ツングース系民族)と関連が深いですが、
•そもそも日本列島にいた人々も、大陸から渡ってきた人々の影響を受けている。
•朝鮮半島の民族変遷は単純な「押し出し」ではなく、文化の融合や王朝交代によるもの。
•日本が「朝鮮半島から完全に追い出された」とするのも誤解で、任那滅亡後も日本は朝鮮半島の国々と政治的・軍事的な関係を続けていた。
結局のところ、「押し出された=弱かった」とする単純な二元論では、歴史を正確に理解することはできないのです。
◆結論
1.「日本は常に侵略された側」という単純な図式は誤り。歴史は侵略と防衛の繰り返しで、日本も外交・軍事的な駆け引きを行っていた。
2.任那や朝鮮半島南部に対する日本の影響はあったが、それを「完全な支配」と言い切るのは学術的にもっと慎重であるべき。
3.新羅・百済は「属国」ではなく、外交・同盟関係の中で朝貢儀礼を行っていただけ。
4.「満州から来た民族に押し出された=日本が弱い」という解釈は単純すぎ、民族・文化の融合や歴史的背景を無視している。
結果、反論になっちゃったね。でも歴史を語るなら、もっと精緻な視点が必要だよね。違う?
キミらの論点は日本が植民地化されなかったから日本は強い国(逆に強い国とは言えない)と言いたいのではないか?
そこについて答えなよ。
私の評価としては、
①大陸から引いたということは、大陸に割拠した漢族やモンゴル族に比べて、アグレッシブさはなく、弱いという見方はできる。
②しかし、日本列島という天険を得たことで大陸に割拠するインセンティブ、必要性が弱かったということではある。
③安全な日本列島で安定的に培養された豊かさは強さではあるが、競争淘汰圧は弱かったのも確か。
ちょっとちょっと 笑
早過ぎて追いつけない。既に次の書き込みも目に入ってしまったけれど順番にいくね。私、ディベート甲子園出場経験アリ人間で、かなり喋るのも書くのも早い方だけど追いつかないよ。
今回の主張には、一読して直ぐに中国の歴史と民族の動態に関する誤解があるので、整理して反論。
1. 「漢族もずっと周辺民族に圧迫されたわけではない」について
これは半分正しく、半分誤解がある。確かに漢族(華夏)は単なる「被征服民族」ではなく、時には侵略し、時には侵略されながら拡大・縮小を繰り返してきた。
例えば、
•前漢(紀元前202年~紀元後8年)は匈奴と対立し、張騫を西域へ派遣して対抗。
•唐(618~907年)はモンゴル高原や中央アジアに影響を広げたが、逆に安史の乱(755年~763年)ではソグド系や突厥の影響を受けた。
•明(1368~1644年)はモンゴルと対立しながら万里の長城を再整備した。
つまり、「漢族がずっと圧迫されたわけではない」ことは歴史的事実だけれど、逆に言えば「常に強勢だった」と言い切るのは誤解。事実の歴史はもっと流動的で、民族・王朝の交替は征服と統治の繰り返しの中で進んでいっていました。
2. 「満州は清朝建国までは女真族の故地」について
これは事実。ただし「満州がずっと女真族だけの土地だった」というのは誤解。
•秦漢時代には夫余(ふよ)、高句麗、烏桓(うがん)、鮮卑(せんぴ)などの民族がいた。
•遼(916~1125年)は契丹(キタイ)族の国家で、満州を支配した。
•金(1115~1234年)は女真族が建国し、北宋を滅ぼした。
•元(1271~1368年)はモンゴル帝国の一部。
つまり、満州は歴史的に多民族が支配した地域であって、清が成立するまで「女真族だけの土地だった」わけではない。
3. 「チベットも然り」について
チベットもまた、独立と征服の歴史を繰り返してきた地域でしょ。
•吐蕃(7世紀~9世紀):チベット民族が建てた国家で、一時は唐と対抗。
•元(1271~1368年):モンゴル帝国がチベットを支配。
•明(1368~1644年):チベットに対する直接統治は限定的。
•清(1644~1912年):ダライ・ラマ体制を認めつつ、藩部(属領)として管理。
つまり、チベットも一貫して中国の一部だったわけではなく、時期によって独立・服属の状態が変わっているというのが事実。
4. 「始皇帝の秦もチベット族の国と言われている」について
この主張についてはかなり議論の余地がある。
•確かに秦は西方(現在の陝西省・甘粛省)に起源を持ち、西戎(せいじゅう、古代の西方民族)との関係が深かったのは事実。
•しかし、始皇帝の出自がチベット系だったという証拠は乏しい。
秦はむしろ「漢族(華夏)」の中に組み込まれた異民族系国家と見るのが一般的で「秦=チベット族の国」というのは学説としても主流ではないでしょう。
5. 「モンゴル人も内蒙古が故地で、今でも大半がモンゴル人民共和国ではなく、内蒙古に住んでいる」について
これは事実。ただし、以下に注意すべき。
•モンゴル人の発祥地は確かに内蒙古(現中国・内モンゴル自治区)。
•しかしモンゴル帝国(1206~1368年)が拡大した結果、現代のモンゴル国と内モンゴルに分かれた。
•清朝(1644~1912年)はモンゴルを八旗制度に組み込み、内蒙古を統治。
つまり、現代のモンゴル人の居住地が中国に多いのは、モンゴル帝国の分裂と清朝の統治の結果であって「最初からモンゴルは中国の一部だった」という話にはならない。
6. 「全部中華人民共和国に併合され、漢族がどんどん植民している」について
これは近現代の問題で、確かに一部事実を含むが、整理が必要ですね。
•清朝(1644~1912年)は満州、チベット、モンゴルを支配していたが、漢族の移住は制限していた。
•中華民国(1912~1949年)になってから、徐々に「国民統合」の名のもとに漢族の移住が進んだ。
•中華人民共和国(1949年~Now)では、大規模な漢族移住政策がとられた。特に1950年代以降、新疆ウイグル自治区やチベット自治区などで顕著。
この流れは「植民」とも言えるし、「同化政策」とも言える。ただし、歴史的に見れば、これらの地域は常に「中国の領土」だったわけではなく、近代の国家形成の中で組み込まれたものです。
◆結論
1.漢族が「圧迫され続けた」わけでも、「常に強勢だった」わけでもない。歴史の流れの中で、征服と被征服を繰り返してきた。
2.満州・チベット・モンゴルは、歴史的に多民族が支配した地域で、「元々中国の一部だった」というのは後付けの解釈に過ぎない。
3.中華人民共和国の拡張は、歴史的支配と近代の民族政策が組み合わさった結果で、「ずっと中国の領土だった」とは言えない。
つまり、「中国がずっと拡大してきた」というのは、清朝以降の話であって、それ以前の中国(華夏)はむしろ拡大と縮小を繰り返していたと言うのが正解。単純に「中国=膨張し続けた国」と言うのは、歴史の見方として一面的過ぎるよ。
浅い 笑
圧倒的に浅い。まとめていくよ。
あまりに単純すぎてツッコミどころ満載なんだって。
そもそも「植民地にした国は強く、された国は弱い」なんて発想が単純すぎる。歴史はそんな単純な強弱の話じゃない。むしろ、植民地化された国のほうが、後に経済発展したケースも多い(ex:シンガポール、香港)
逆に、植民地支配をした国がその後没落した例もある(ex:ポルトガル、オランダ)
さらに、「中国は支配地域を拡大し続けている」っていうけれど、それは近現代の話であって、歴史を見れば中国王朝は拡大と縮小を繰り返してきた(上述)。元に征服され、清に征服され、20世紀には列強に分割されかけた。それを「ずっと強かった」と言い張るのは歴史を都合よく見過ぎ。
で、日本が「植民地にならなかったから強い」とか言いたいんだろ?って言ってるけど、そんな単純な話誰もしてないって。
違う違う、そうじゃ、そうじゃない〜♪
歴史分かってな〜い♪笑
「日本は偶然、植民地化を免れたに過ぎない」というのが歴史的事実だって言ってんの。
ケント・ギルバードさんの主張は否定しないし、寧ろギレン・ザビよろしく「立てよ!国民!」って日本人を鼓舞していただいている事に感謝の念は堪えません。
が、その独立維持は、地理的要因、外交の巧妙さ、技術力、タイミング、そして大きな時の運。
それら、さまざまな要素が絡んだ結果であって、強い弱いの二元論で片付けるのはバカげてるって。
◆結論
「植民地=強い/弱い」という単純な二元論は、歴史を理解していない証拠。歴史のダイナミズムを知らない人ほど、こういう雑な議論をしたがるんだ。もっと俯瞰で現実見ようよ?
下半分にも触れておこうか。
こっちもツッコミどころ満載だけど 笑
①「大陸から引いた=アグレッシブさがなく、弱い」
→ そもそも「大陸にいる=強い」「引いた=弱い」という前提がナンセンスだって。
地政学的な条件が違えば、戦略も変わる。モンゴルや満洲の遊牧民と、日本のような海洋国家を同じ基準で比べること自体が無理筋。むしろ、日本は海を活かした独自の戦略で生き残ってきたと言えるる。
②「日本列島という天険を得たことで、大陸に割拠するインセンティブが弱かった」
→ これだけはある程度同意。ただし、「割拠しなかった=弱い」ではなく、「割拠する必要がなかった」と言うべき。
寧ろ、日本は海洋貿易や軍事行動を通じて独自の影響圏を築いてきた(倭寇や朱印船貿易、江戸時代の鎖国政策など)と言うのが正しい。
③「安全な日本列島で培養された豊かさは強さではあるが、競争淘汰圧は弱かった」
→ 競争淘汰圧が弱かった??
いやいやいや、日本の歴史を見れば、戦国時代の群雄割拠、幕末の急激な近代化、戦後の経済成長など、むしろ適応と競争の歴史でしょうに。淘汰圧が弱かったなら、ここまで急激な変化に対応できる筈がないよ。
つまり、あなたの評価は「大陸=強い」「引いた=弱い」という至極単純化された前提に基づいているけど、実際の歴史を見れば、そんな単純な話ではないのは一目瞭然。
寧ろ、日本は独自の条件を活かして生き残ってきた国であって、それを「弱い」と断じるのは歴史を理解していない証拠だと思うよ。
流石に頭使い過ぎた。本気でちょっと暑いよ。
食事もしてないし、中座します。でもありがとう!すごく楽しかった。最近のエデュは短文で揶揄か茶々入れか妄想自慢しかできない、おばさんかおばあちゃんばかりだったので。
あなたみたいな論客がいるなら、まだまだ捨てたもんじゃないね、エデュ。