マルチリンガルを目指せる女子校
お気に入りのお菓子を教えてください
お菓子大好きです。下の子供が大学生になり子育てもほぼ終了したので、お気に入りのカップで美味しい紅茶を淹れて好きな動画を思う存分楽しめる時間が増えました。そのお供に皆さまのお気に入りのお菓子を楽しんでみたいと思っております。地方ですので、なかなか買えない物もあるかと思いますが、それも思いを巡らせて楽しもうかと。皆さまどうぞよろしくお願いいたします。
愚問を問うスレッドだ。
何故ならもう答えが一つしか存在しない事が自明だからだ。
敢えてわざわざ言うのも憚るが、ファイナルアンサーは「キャベツ太郎」でトドメである。
キャベツ太郎、それはもはやスナック菓子の枠を超えた“哲学”だ。コーンベースのあのサクッとした食感に、青のりとソースが織りなす絶妙な風味。袋を開けた瞬間に立ち上るあの香りは、ただの空腹を満たすためのものではない。人生の中に埋もれがちな「無垢なジャンクの歓び」を、ど真ん中からぶち込んでくる破壊力がある。
「キャベツ」なのにキャベツ成分ゼロ? そんなことはどうでもいい。あれは名前じゃない、“概念”だ。ソース味のスナックというジャンルに対して、日本が出した答えのひとつ。それがキャベツ太郎。
そして忘れてはならないのが、あのパッケージに鎮座するカエル……らしき謎の生命体。軍帽を被って仁王立ちしているその姿は、もはや人智の及ばぬ領域にある。なぜカエルなのか? なぜ軍服なのか? それらすべてが「キャベツ太郎」という名状しがたい宇宙に深く関与している。あのカエルはたぶん、スナック界の“賢者”だ。あの無表情に込められた思想は、食べるたびに我々に問いを投げかけてくる。「おまえ、それでいいのか?」と。
だが、気づけば手は止まらず、口に運び、舌は歓喜し、袋は空になる。キャベツ太郎とはそういう存在。時代が進化しても変わらない、変える必要のない完成形。
“スナック”という軽い言葉では到底収まりきらない。キャベツ太郎は、日本人の味覚に対する本能の記憶装置なのだ。
大仰にタイトルなんぞつけてみるか。
『主観的快楽の普遍化についての試論 〜すべての道はキャベツ太郎に通ず〜』
かつてフロイトは、人間の行動原理の一端を「快楽原則」に見出した。即ち、欲望の充足、緊張の解消、心的エネルギーの均衡こそが行動の動機となる、という仮説である。今さらフロイトが古いなどというのは、議論の本筋を見失った枝葉末節に過ぎぬ。不易流行、全ては移ろいゆく、泡沫なのだから
この理論は現代の消費行動や嗜好品の選択にも応用可能だが、ここで一つの問題が立ち現れる。
人は何故、”あえて“「キャベツ太郎」を選ぶのか?
これは単なる個人的嗜好の問題ではない。むしろ、そこにこそ文化的コードや快楽の普遍的構造が潜んでいる可能性がある。段階的に考察してみた。
①. 快楽の階層性と脱階層化の欲望
紅茶や高級菓子の享受は、形式・儀式・審美眼といった文化資本によって成立する。だがキャベツ太郎は、そのいずれをも拒否する。袋から直に取り出し、床に落としても5秒以内ならセーフという非制度的享受。ここに現れるのは「脱構築された快楽」であって、形式を解体することによる原初的な満足である。
②. ソース味の暴力と[削除しました]ーダンス
キャベツ太郎の味覚設計は、精緻なバランスをあえて破綻させることで、人間の味覚認知を強制的にロックオンする。青のりとソース、それぞれが“舌への制圧”という形で作用し、そこに“軽さ”という逃げ場が挿入される。これは反復を誘発する設計で、味の[削除しました]ーダンスにおける「究極形」である。
③. 結論:キャベツ太郎とは何か
それはもはや商品ではない。快楽の非対称性を顕在化させる実験装置で、すべての味覚判断を一度“無効化”してから再構築するプロセス“そのもの”である。
つまり、「キャベツ太郎が好き」という判断は主観ではなく、主観を超えた普遍構造への参加表明なのだ。
以上より、本スレッドにおける全投稿は「快楽に関する個別事例」に過ぎず、キャベツ太郎に至った時点で普遍性が回収される。ゆえに、再度言おう。
「最終解はキャベツ太郎である」
それは唯一無二、何も足さない、何も引かないと言う唯一の完成された真理なのだ。
それ以外を持ち出す行為は、もはや“味覚的神域”への侵入である
スレ主殿、沈黙でなくリアクションを。
何故か消えてるな。
問題があったとも思えんが。
あらためて追補しておこう。キャベツ太郎の真価は、どのような環境においても揺らぐことのない「食後の余韻」にある。たとえば、想定される至高のシチュエーションはこうだ。
舞台は初春の午後、南向きの小窓から柔らかな光が差し込むサンルーム。座す椅子は、19世紀イギリス製クイーンアン様式。肘掛けに刺繍の入った小さなマホガニークッションが載っている。
カップは東インド会社製・骨董のオールドチャイナ。裏にはEICの刻印が控えめに入り、ペルシャブルーの縁取りと金彩の細工が神経質なまでに美しい。中には、ニルギリにアールグレイをブレンドした紅茶が注がれ、ベルガモットの気配がかすかに漂う。
BGMは、イツァーク・パールマンによるパガニーニ《24のカプリース》第24番。技巧が芸術の域にまで昇華された演奏でありながら、何故かひどく俗っぽい。これが重要だ。あまりに完成されていて、逆に“茶番のように聴こえる”あの感じ。
そこに、キャベツ太郎である。
いいか、ここまでの精緻なセッティングはすべて「振り」だ。文化的権威、由緒ある食器、選び抜かれた音楽。これらすべてを、最後の一手で茶番へと落とし込むための伏線でしかない。
銀のトングではなく、袋に手を突っ込んでキャベツ太郎を取り出し、豪快に頬張る。EICのカップをそっとソーサーに戻し、再びキャベツ太郎を咀嚼する。パールマンが最後の変奏に入る頃には、ソースの香りが空間を支配している。
ここにおいて明らかになるのは、「高貴とは、選択における自由である」という皮肉な事実だ。真に上等な人間は、どんな高尚な場面にもキャベツ太郎を持ち込める。逆に言えば、キャベツ太郎を持ち込めないような空間には、最初から価値など無い。
つまり、キャベツ太郎は「最終審級」だ。どんなうんちくも、どれだけの格式も、最後にそれと向き合ったときの態度によって、その人物の本質が炙り出される。
よって、本スレッドの命題に答える行為そのものがもはや不要である。最終解としてキャベツ太郎を提示した時点で、議論は終わったのである。
お菓子になるのかな?
九州では給食にも出るという福岡のセリア・ロイルという会社のムースと言うアイス。
これ、ゼリー状のものを凍らせた、スティク状で袋から直接食べる「とけないアイス」。味も素朴なミルク味(チーズ味もあるけれど私は断然オリジナル派)で飽きのこない懐かしさを感じる味でほっこりします。
夏の間は特に、冷凍庫はムースで埋まっている状態。1個168kcalで罪悪感も少なく、ひんやりできるオススメスイーツです。
なかなかどこにでもあるわけじゃないですが、九州発のドラッグストア、コスモスや100ローソンにあったりなかったりします。お試しあれ〜