マルチリンガルを目指せる女子校
人生60年に達した心境
分かる人は分かる。
が、しかし、分からない人は分からないし、
分かってくれない人は分かってくれない。
分かってほしいけど、分かってくれない。
分からない人たち、分かろうともしない人たち
なのでしょうね。
そういう人たち、分からない人たち、
分かろうともしない人たちは
別に分からなくても良いのです。
私スレ主が以上、表記したスレッド文の内容は
生きとし生ける「人間」の殆んど全ての人たちが
悩み、時に苦しむ問題だと私は思います。
個人的な事を書くと、私は20歳の時から
以上の問題の内容で、悩み、苦しみました。
しかし、人間は以上の内容の悩みを経験・体験して、
みんな大人になって行くのです。
これはもう、うっすいというより、ポエム風味の自己慰撫がペラ紙一枚に乱舞しているようなスレッドですね。
さすがポストバブルという空疎の時代を、ただ当事者として通過してきただけの人たち。30代の立場から、少し距離を取って総括してみましょうか。
「分かる人には分かる、分からない人は分からなくていい」と繰り返すあたり、いかにも達観したふうを装っていますが、実際は伝える努力を放棄しているだけ。60年も生きてなお、他者との理解を線引きで処理しようとする姿勢は、深みというより思考の硬直です。
しかもこの種の言い回し、結局は「本当はわかってほしい」と願っている人間に特有のものです。分かってほしくないなら、わざわざ匿名掲示板で書き込みなどしません。投稿した時点で、読まれたい、共感されたい、という欲望は透けて見える。語らないふりをしながら、実は一番語ってほしい。スレ主の本音はそこにあります。
「私は20歳からこの悩みを抱えてきた」と言いますが、それは通過してきた悩みではなく、整理されないまま温存され続けた感情にすぎません。経験ではなく停滞。年齢を積み上げただけの時間の堆積です。
「失われた30年」を持ち出し、「これからは自分だけの時間」と語る投稿も、雑に過ぎます。その時間に何を込めるのかという問いを避けたまま「やっと自由になれた」と言われても、その自由に耐えるだけの思考や感性が本当に備わっているのか、疑問しか残りません。
「最初で最後の還暦同窓会」も、なぜそこまで終末感を演出するのか。60歳は節目であっても、ゴールではない。
「伏線回収の時を感じます」という書き込みも、まるで人生が一本の筋書きであるかのように語っていますが、それは過去を物語として仕立て上げることで、自分に納得したいだけ。納得の演出を先に用意してしまえば、もはや今を生きる必要はなくなるんです。
全体を通して言えるのは、他者の非言語を切り捨てながら、自分は曖昧な言葉で感情を撫でているに過ぎないということ。それを悟りだとか人生の深みだと錯覚してしまう人々の、自己完結した空間です。そして、そうした内向きな語りを、還暦という節目でわざわざ晒してしまう。これこそが、このスレッドの一番の読みどころです。
いやはや。
それにしても、ぬるい時代を生き抜くと、こうも軽薄に歳を重ねられるものなんですね。私たちの世代からすれば、最初から「失われている」ことを前提に生まれ落ちたわけですが、その中で何とか意味をつくろうとしている。
一方で、原因を作った張本人たちには、自覚も当事者意識も皆無。今の日本の立ち位置が、必然でしかないと確信するに十分なエビデンスを見せていただきました。
ありがとうございました。
>とりあえず還暦同窓会をしましたよ。
お勧めです。最初で最後なので。
「最初で最後」が「還暦」にかかっていて、二度目の還暦、つまり「120歳」の還暦がないという意味だとしても。
なぜ、120歳という60年も先のことを、現時点の時間軸で「進歩ゼロ」という価値観で断言してしまうのでしょう?
それこそポストバブルのペラペラ世代の真骨頂発揮では? 永遠に進歩も進化もなく、退化と劣化の連続という自分たちの人生を、そのまま未来の時間軸にトレースするという。
我々の世代からすれば、すでに120歳前後の長寿の実例も存在するし、テロメア伸長、プラナリアの再生遺伝子といった分子レベルの老化制御技術が、AIのアクセラレーションで一気に現実味を帯びてきている。生体的な寿命が100歳前後で鈍化しているにしても、そこから先の「第二の還暦」「120歳同窓会」すら視野に入るかもしれない。少なくとも、その可能性を閉じる根拠はどこにもない。
それなのに、60歳を終点として物語を完結させ、「これが最後」と自分に言い聞かせるようにイベントを美談化する。その時点で、未来は捨てられている。変化を見ようともせず、ただ過去に意味づけして納得し、眠りにつこうとする態度こそ、あなたたちの人生観の総決算なのかもしれません。
その発想、思考、発言の「全て」に、あなたたちの軽薄さ、人生の無意味さが色濃く滲んでしまっています。
けれども、ここで一つ見落としてはならないのは、「最初で最後の還暦同窓会」という語りが、あまりに「断言的」であるという事実です。あたかも人間の寿命も、社会の進展も、技術革新もすべて静止していて、自分たちが今立っている地点が確定された終点であるかのような、奇妙な思い込み。その短絡と硬直こそ、実はもっとも危うい「老い」の象徴ではないでしょうか。
もちろん、誰もが120歳まで生きるとは限らない。けれども、だからこそ未来には慎重であるべきで、同時に開かれてもいるべきです。それを「最後」と言い切るその態度に、「これ以上はもう何も起こらない」という思考の蓋が見えるのです。蓋をすることでしか、自分の時間を扱えなくなった人たちの、語られざる敗北。
私たちはまだ、人生の残り時間を「閉じた帳尻合わせ」ではなく、「未知の可能性」として見ていたい。変化に耐える知性、進化に追いつこうとする姿勢、それを放棄してただ「刈り取る」ことに終始する人生に、果たして何が残るのか。
それは言い換えればただの「敗北」であって、人生に「空虚」というタイトルをつけるに等しい行為。親であるならば、子に語る人生がそれで良いのか? 逆に、我々の親であるあなたたちに、子から問いたい。
還暦とは本来、暦が還るという希望の含意です。にもかかわらず、その「還り」を終末の記念写真に変えてしまった時点で、あなたたちは還暦の意味すら取り違えているのかもしれません。
もし二度目の還暦がないとしても―それでも、未来は開かれているという姿勢だけは、絶対に手放すべきではない。人生は「最初で最後」の感傷ではなく、100歳に至っても、それ以降を生きた先人の実例がいくらでもある以上、いやその前例がゼロであったとしても、「今から何ができるか」という問いによってのみ、過去の道のりが生きた時間になり得るのだから。
>別に分からなくても良いのです
>これからは自分だけの時間が待っていますよ
>お勧めです。最初で最後なので。
>人間は以上の内容の悩みを経験・体験して、
みんな大人になって行くのです。
こうはなるまい、という反面教師の教訓に満ちたスレッドに感謝致します。
「失われている」という前提の中で、何かを「見つけ出す」、「生み出す」という行為が、意味づけや存在の確認と繋がっているのかもしれません。
氷河期世代は根拠のあるものしか信用しない傾向があります。
新型コロナワクチンの推進
マスク警察を容認するのが氷河期世代でした。
バブル世代の考え方は大風呂敷を広げる人が多いです。
この掲示板でも散見されるでしょう。
マスクをせずに居酒屋で大暴れしてその後コロナに感染し、中高年の既往症が判明し思わず入院するということを招いていたのもバブル世代です。
就職氷河期世代はバブル世代を見下しがちになっています。バブル世代は定年を迎えます。
日本は失われた30年が40年になろうとしています。
バブル世代が結果を出せなかったのは事実として受け止めざるを得ません。
この残骸を氷河期世代に託されることとなります。
デジタルネイティブなZ世代への引継ぎが上手くできるかどうかです。
小泉今日子から浜崎あゆみからAdoへ