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【2043250】私立中学の価値 2校め

投稿者: ようこそ!書き込み歓迎   (ID:4Xzxz71IPe2) 投稿日時:2011年 03月 02日 23:08

既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。

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  1. 【2407091】 投稿者: 通りすがりの企業人  (ID:7Xx1Q.DzapA) 投稿日時:2012年 01月 31日 21:43

    平均化でない教育について。

    今の指導要領では、トップクラスの生徒、学生は退屈しています。
    それで、入試問題が、妙にヒネられる、という非難を受ける。

    一方で、そういう指導要領ですら未消化の学生は、非常に多数、居るわけです。

    アメリカでは、消費者のための数学、というような科目があり、高度な大学教育を希望しない人、コミュニティカレッジくらいでいいや、という人は、こういう科目を取ります。
    非常に実践的な教育で、自宅をローンで買う、とか、車を買う、とか、株式投資する、とか、具体例をもうけて、最低限、利息で破綻しない、とか、悪徳ブローカーに騙されない知識をつけるわけです。

    日本のほとんどの高校生に、ベクトルとか積分とか教えて、消化不良を起こすなら、それは無駄なので、もっと生活に密着したことを、最低限学ばせる、というのは、いい案と思います。
    地方国立大学理学部や工学部ですら、高校課程の微積分はおろか、数式の単純計算すら怪しい学生が居るとのこと、地方大学に奉職した友人が嘆いています。

    一方で、あるレベル以上の人は、今の小学校課程でも高校課程でも、力が余ります。
    こういう人に、高度な教育をしよう、というモチベーションは、たとえば高校の先生にもあると思いますが、一律の指導要領に縛られて、おそるおそる、指導要領を超えた教育をしているように思われます。
    一方で、能力があってもサボりたいのが一般的なので、もう少し、強制力を発揮して、飛び級でもいい、上級クラスでもいい、学生をしごくことがあってもいいと考えています。

    例を挙げます。

    私が受けた授業(日本史)
    東大史料編纂所の原文(平安貴族が書いた、中国語とも日本語ともつかない、漢字の文章。和様漢文と言いますが、本人が中国語を書いているつもりになっているだけなので、まあ、無茶苦茶な文法)で、藤原道長の日記を読み、これも原文で、蜻蛉日記を読む。蜻蛉日記は平安朝を代表する名文ですが、枕草子などに比較すると、たいへん読みにくいです。この両者を照らし合わせると、藤原道長、頼道、道綱などの人間像が、鮮やかに浮かび上がってきます。
    私は感激してこの講義に夢中になったけれど、昔の教育大附属でも、評判悪かったです。

    子供が受けた授業(英語)
    帰国子女をしごき上げて、子供のバイリンガルを、知的レベルの大人のバイリンガルに育て上げる授業です。1クラスにNativeの教師が2名つき、課題を読み、レポートを書き、プレゼンを行い、ディベートを行う、というサイクルです。英検1級を持って中学に入学してくる一団がクラスをリードするので、常に激論、マシンガントークの応酬になり、レポートも、A4シングルスペースで3枚程度、3日後まで、というような分量になります。
    子供は、一般クラスから、突如、帰国クラスに放り込まれ、文字通り、死ぬ思いをしましたが、私から見ても、まずまずの英語を書き話すようになりました。

    Eduの某スレからの引用
    前後略
       
    中学の授業の1例を挙げると:
    ■一応教科書はあるが、先生が選んだ教材やオリジナルプリントを使う授業が多い。 
    ■数学の授業で使っているプリントには、代数や暗号の問題が載っており、出典は
     「京都大学の入試問題」 だった。
    ■RSA暗号を実際に解くためにフェルマーの小定理をやった時、先生は 
    「いま分からなくても高校でもう1回やるので楽しんでやって」 と。
    ■プリントは、代数に、双曲線暗号、RSA解読のためのフェルマーの小定理は事実
     として提示されるだけの超難問ぞろい。

    上記は中3の授業です。

    【2325661】 投稿者: スズキさまの投稿、筑駒の授業風景です。

    現状では、筑駒でも筑附でも、教える側が、指導要領を逸脱することに、若干の後ろめたさを感じていると思われ、これが、私のように、強制されないとやらない、やりだすと面白がってやる、という学生のチャンスを少なくしているように思います。自己責任ではありますが、もう少し、トップにはトップにふさわしいしごきかたがあるのではないかと思うのです。

    余談ですが、現状では、筑駒には、上記のような授業の価値を感じない人は、行っても何の得にもならないと思います。筑駒の名前だけではいれる大学はありませんから。価値を感じる人は、こういう授業に没頭し、東大入試なんぞは、鉄緑にときどき行って、さっさと準備をするわけです。合格確実となったら、それ以上偏差値をあげる努力は無駄ですしね。
    慶應系は、価値を理解しなくても、最低限の努力でとにかく慶應の大学にはいる、というのは、メリットと言えなくもありませんけれどね。

  2. 【2407106】 投稿者: さくら  (ID:ddSIhNAHGBI) 投稿日時:2012年 01月 31日 21:50

    今丁度子供が蜻蛉日記を読んでいます。
    企業人さんのお話を読んで聞かせたところです☆


    深い勉強ができると面白いですね。
    ありがとうございました。

  3. 【2407402】 投稿者: 量的  (ID:FUkKPzZ.MIU) 投稿日時:2012年 02月 01日 06:52

    公立一貫は良いことださん

    自分では、特にスラブ・マジャール系の音楽が好みということはないのですが、好きなものはいろいろあります。
    (以下、クラシック談義ですので、興味の無い方はスルーください)


    プロコフィエフの「ロミオとジュリエット」の中に、「タイボルトの死」という曲があるのですが、これは量的としては、
    中高生のクラシック入門曲を聞かれたときのお薦め曲(=中高お薦め曲)にしています。他に、吹奏楽などでフルートやっている人には、オーケストラを聴く醍醐味を味わう入門編としては、コダーイの「ガランタ舞曲」という、一般にはメジャーでない名曲があります。この曲をうまくできるオーケストラはうまいオケですが、これらの曲の指揮者ではチェリビダッケ(*)のものがお薦めです。

    日本でも、1980年にロンドンシンフォニーと来日したとき、ブラ1,展覧会の絵とともに、プロコフィエフの(=チャイコフスキーのモノではない)ロミオとジュリエット(以下ロメジュリと記載)、ガランタ舞曲が紹介されましたが、圧巻でした。ガランタ舞曲の最後に静まりかえった中に響き亘るフルートはすごいのひとことです。

    このほか、ドヴォルザークスラブ舞曲もスラブ・マジャール系の小品としてはすばらしいお薦め曲ですが、セルのクリーブランド管がたしか大阪万博記念で出したLPがとても良かった記憶があります。確かスラブ舞曲(第8)だったでしょうか。CDで出ているかはわかりません。チェコ・フィルもスラブ系はうまいですね。ノイマン指揮などで「歌のある」演奏をしていました。CDで記憶に残るところでは、フルトヴェングラーのスラブ舞曲第3番、これは、量的の中高お薦め曲にしています。1930年の録音で、もっとも古い時代ノフルトヴェングラーが、なかなかこれを越えられない様に思います。色あせない名演です。鏡の上を玉が転がるような、精緻なアンサンブルでありながら味わい深いです。

    ヤナーチェックは、クレンペラーが良いモノを残していました。たしか、アムステルダムコンセルトセルとヘボウ管・・・
    プロコの5番は、いろいろ名盤ありますね。チェリビダッケや、ムラヴィンスキー、最近ではドュダメル?
    話はつきませんので、この辺で打切りさせていただきます。。

    (*)
    この指揮者は、ベルリンフィルがフルトヴェングラーが戦後指揮できなかった時期、つまり、カラヤン時代の前にお世話になった
    ルーマニア出身の指揮者ですが、のちにシュツットガルト放送響、フランス国立放送管(現:フランス国立管弦楽団)
    そして1980年代後半からミュンヘンフィルで黄金時代を築いていました。

    チェリビダッケのプロコ・ロメジュリは、フランス国立/シュツットガルト放送響/ミュンヘンフィル/ロンドン響 などがありますが、
    わたしはロンドン響とシュツットガルト放送響のCDが好き。かれは練習で、ストヴァイのプルと弾きさしていたそうですね。


    <公立一貫さん、Wrote >
    スラブ・マジャール系の音楽がお好みなのでしょうか。
    バルトークはともかくとして、正直、ヤナーチェクやプロコフィエフについて
    は殆ど知りません。せいぜいシンフォニエッタやキージェ中尉・交響曲第5番
    くらいなものです。でも確かにリズムは独特で面白いですよね。
    もう少し聞き直してみようかな。
    後、コダーイについては彼が合唱曲を多く残してくれたおかげでいくらかは
    親しみがあります。
    でも彼の合唱曲、演奏がとても難しくいまだ敷居が高いです。

  4. 【2407455】 投稿者: 量的  (ID:FUkKPzZ.MIU) 投稿日時:2012年 02月 01日 08:26

    地域時代さん、企業人さん、公立一貫さん、


    ジャポニズムは、われわれの思う「日本的」と違うよね、というのは、入り口の議論としては、わかりやすい議論の仕方であります。(*)
    しかしながら、ある意味でレッテル貼りの議論で、底の浅い議論になる可能性もあるように思います。そういうレッテルを外したときに、何が見えてくるのかを考えて行くことも大事かもしれません。


    まったりと、動と静で思いつく3つの作品例でかんがえると、・・

    (1) 広重の「大橋あたけの夕立」

    ゴッホがほぼ忠実に描いたものがありますね。
    (h)ttp://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gogh_sluie.html

    300~400枚の浮世絵を所蔵したというゴッホが描きたくなった、この絵の魅力というのを、構図、細部の表現、そして絵の持つメッセージ生から、素人的に考えてみると、

    この絵は、橋を行き交う人々のディーテールと夕立の表現、川を挟んで行き交う文化圏の違う人々を活写していますが、安政2年(1854年)の安政の大地震で被害を受けた復興から立ち上がる江戸を励ます意味を込めた百景なので、背景の安宅の船着き場は幕府のもので、描いてはならないという状況の中で、その「復興」を遠景でとらえたところにも目線に妙味があります。ゴッホの絵の方は、画面の明るさと彩度はわれわれの感覚とはすこし違う気がします。でも、この最後のメッセージの部分も、理解して描いている様に見えます。それがある意味で驚きですね。

    (2)北斎の「神奈川沖波浪」
    でも、、構図の与える、瞬間からイメージされるダイナミズム(動から静の切り出し)は見るものを圧倒します。しかも、それが砕ける直前の波濤のディーテール(**)を伴って持っていることで、スケールの大きさと、リアルさ、緻密さ、の3つながら強い印象を与えていると思います。ある意味で、その印象の強さが日本的というにはあまりにおおきな感動を与えているのかもしれません。そういう部分を考えると、ドビュッシーの「海」とは、一部については、われわれ日本人が逆に発見していない北斎でもアルのかもしれません。
    (続き、後で書きます)


    (*)
    「私立は・・・」「公立派・・・」「東大は・・」「灘は・・・」という議論に近い?

    (**)
    波がくだける細部の構造については、「アインシュタインの目」のような高速度カメラの撮影で、瞬間的な映像としても、リアルにかなり近いものがあり、北斎の目のすばらしさも指摘されていますね。

  5. 【2407479】 投稿者: 量的  (ID:FUkKPzZ.MIU) 投稿日時:2012年 02月 01日 08:43

    (続きです。雑駁な絵画談義なので、ご興味無いかたはスルーをお願いします。)

    (3)宮本武蔵(伝)の「芦雁図屏風」
     江戸時代初期の宮本武蔵が書いたもので伝わっているものでは、「枯木鳴鵙図」「達磨図」の味わい深いイメージがありますが、「芦雁図」では、さらに動から静を印象的に切り取っています。大きな空間で、一瞬の切り出しがされた雁の映像は鮮烈です。わたしは京都国立博物館で10-15年前に見ましたが、感動が大きかったです。これは、北斎や印象派の時代の先駆の江戸時代初期の作品ですが。


    こういったような(1)(2)(3)のダイナミズムを思い浮かべて、これらのもつ共通な特徴としてメッセージ性の背後には、静けさをもった目線からの風景が表現されている(*)ように思います。これは自然を改変して意志を持つ、主張をする、という文化にとっては、表現しないもの。あるいはにくいもの、・・・見方によっては、否定し去ることが出来ず、かなりショッキングでかつ羨ましい表現。高級なことに映っていたのではないかなと思います。(*)


    ・・西洋絵画でも、そういう身近な目線からの感じ方を表現したものはありますが、宗教的な祈りに近くなったりすることが多いです。ひたすら見ることで現れてくる動きを静かな画面に閉じ込めようというのは、かれらの生活の醸す自由な雰囲気、思想的な好み、あるいは目指す表現などの前提(**)にもマッチしはじめていた。

    例えば、モネの「ラ・グルヌイエール」は特別な名品で、水面の揺らぎを見ることや、「日傘の女」で、なびく風を描いたものなど、動きのがあるものがあるにはあるけれど、そこには普段の目線がある。しかしながら、瞬間の細部の明晰さからはむしろ反対の色を印象で描くことに重きがおかれる。そこには違う方向性をも感じます。(・・・輪郭や線描の中に思いを込める手法はもはら放棄されてなくなっている。)また、中国の北宋、南宋の山水画では、思い浮かべるに、静の中の質感そして背景にある峻厳さを表現しに行っているモノが多い要に感じますが、一方、日本の作者により表現されている対象は等身大で曇りのない目線を貫いたときに見えてくるさまざまなフェーズの面白さを、デフォルメして明晰に書きながら楽しんで伝えているように見えます。

     (1)(2)については、とりわけ、(3)とは違う、そういう安定で意識としては自由闊達な市民の生きた社会の中にある表現作品ですね。(***) 一方の(3)の見方ではそういう文脈よりも、もっと個人対対象の向き合い方に近いように思われます。後に有名にはなるが、当時はパリからは離れていたセザンヌとか、ゴッホとかには、こちらとの意識の近さも画面から感じてしまいます。厳しさもある。・・・
    (3)には、(1)(2)と同じ自然への向き合い方の目線が感じられる一方、目線の「優しさ」よりも、「厳しさ」を強く感じさせるところがあります。この違いは、もっぱら生きた生活背景、生き方の感覚の根っこの部分での違いがあるように思います。そういえば、バルトークの音楽などにはその意味の、生きてきた社会の「厳しさ」が反映されているように思われますよね。


    雑駁ですが、思いつくままニ。


    (*)  構図の卓越差、細部の技術の確かさ、緻密さはありますが、それらを別として。

    (**) フランス革命→ナポレオン→ウィーン体制を契機にでてきた市民社会を土台にし、第二帝政、共和制などの欧州の各種の動きに影響を受けた”生活感覚”。モノの見方。生活の変化では、1750年代のイギリスの産業革命の成果が、大陸にもおよび、日々の生活にようやく浸透・定着した時代でもあります。

    (***) パブリックとしての鑑賞家の感覚を、強く意識せざるを得ない時代に生きたドビュッシーは、浮世絵の佐草として必死に生きていた北斎や広重の時代環境にも特に似ているようです。フランス革命から100年間の人々の意識の変化を背景として、モノの見方・楽しみ方が漸くかわってきた欧州、洗練のどを深めていた江戸町人文化とは、交差して交流できる共通の基盤・土台があったように思います。表現の可能性の自由度・方向性にも、その土台にたって「共通なところ」があるのではないでしょうか。

  6. 【2407488】 投稿者: 視点  (ID:1pHT5OfLTaw) 投稿日時:2012年 02月 01日 08:53

    >余談ですが、現状では、筑駒には、上記のような授業の価値を感じない人は、行っても何の得にもならないと思います。筑駒の名前だけではいれる大学はありませんから。価値を感じる人は、こういう授業に没頭し、東大入試なんぞは、鉄緑にときどき行って、さっさと準備をするわけです。合格確実となったら、それ以上偏差値をあげる努力は無駄ですしね。


    学校で基本をした上でプラスアルファをするならいいですが、学校は趣味に走ればいいというのはおかしいですね。
    受験勉強は外で習えってことなら、経済的に塾に行けない人はどうするのか?
    子供を塾に行かせる余裕がないなんて人は中学受験をする家庭にはいないのでしょうけど、世間ではいくらでもいますからね。
    それを納得して入ってるというならそれまでですけど。

  7. 【2407506】 投稿者: 通りすがりの企業人  (ID:lxlA.EoHOo6) 投稿日時:2012年 02月 01日 09:09

    趣味ではなく、本質を掘り下げるのです。
    受験勉強の効率を求めるなら、一流校への合格実績を合格者数で教育委員会に目標管理されている都立高校にどうぞ。

    授業料無料だし、鉄緑も特待だろうし、そのレベルの人は、鉄に行けなければ、通信教育でも、参考書でも、べつに何使ってもどうにでもなります。

    #視点さんの求めに応じて、二回にわたり、相当詳細に、事実に基づく意見を述べました。いまさらお礼は期待しないけれど、まともな議論のしかたではない。
    文句をつけるため、あらさがしのために私に意見を求めるなら、今後お断りです。

  8. 【2407542】 投稿者: 視点  (ID:1pHT5OfLTaw) 投稿日時:2012年 02月 01日 09:35

    >趣味ではなく、本質を掘り下げるのです。


    本質を掘り下げるプラスアルファというのであれば、何故鉄緑なんていかないといけないのか?というのが疑問なだけなのですけどね。

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