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【4906550】中学受験に大きな影響あり!地方創世って?

投稿者: 意義あり   (ID:UQ5OU2l8o/2) 投稿日時:18年 02月 28日 17:22

内閣官房の地方創世により教育が大きく歪められていると思います。
早稲田は2年間で合格者数半分に…。
本当に地方創世って教育を歪めるほどのスピードで行わないといけないものでしょうか?
東京都は2月に反対の緊急提言を出しましたが、本日の国会でも強行していくことを明言した政府。
教育の観点から合格者数を減らすならわかるけれど、「地方創世のため」で跡付けの理由というのはおかしいと思います。

中学受験はこれから早慶附属校を中心に、附属校の人気が大幅に高まるでしょうが、将来の日本にとって大きなマイナスとなると感じます。

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  1. 【5026375】 投稿者: ・  (ID:8Icr4NHQ86Q) 投稿日時:18年 06月 13日 23:53

    >「A判定」でも不合格
    ➔ A判定とはと、過去データでの80%合格可能性。20%は不合格の可能性あり。だから「A判定」でも不合格は毎年一定数(約20%)はいます。今に限った話ではありません。

    A判定は「80%以上」ではないのですか。

  2. 【5026415】 投稿者: 前衛党  (ID:V7hHwwhrRZg) 投稿日時:18年 06月 14日 01:10

    まさか、君から「噴飯もの」といわれるとはね。
    私はこれでもそれなりにマルクス主義を長く勉強してきたつもりなのだが。

    ところで、すでに述べたようにブルジョア社会は資本主義経済発展の為に、抽象的・均質的に構成された自由人という人間像を想定した。その自由人が自由な意思に基づいて契約を締結し経済活動を行うことを予定した。その結果、自由・平等・独立との概念での一般化が可能になるからである。経済合理性に適う。他方、そのために現実に社会関係を有し、多様な属性を有する個別性は無視され、切り捨てられた。

    しかし、当然ながら、実際の社会関係に登場する当事者はそのような抽象化された当事者ではない。むしろ、個々に異質で価値的に異なった、生ける具体的な人間像である。そうした異質性という現実の存在間での平等を実質化することにより公平な社会を建設する志向性がマルクス主義の契機である。

    修正主義者ばかり読まないで、まずマルクス主義の古典から目を通すことだ。原則を知らないで例外(亜流)ばかり渉猟しているように感じられる。また、金曜日に岩波ホールに映画『マルクス・エンゲルス』を観にいく予定。当日が最終日ゆえ、よろしければ君も足を運んでみないか。

  3. 【5026416】 投稿者: 前衛党  (ID:V7hHwwhrRZg) 投稿日時:18年 06月 14日 01:14

    いろいろ横から絡んでくれるお礼に、あなたに対して独り言の贈り物。

    反論を控えろといった口の端の乾かぬうちに、今度は反論しろと言ってみたり。
    それが私の指摘が図星であったことの証左であったにしても、その狼狽ぶりは笑止。
    ただせっかくなので、君に次の三点を申し上げておきたい。

    1.たしかに私は君の意見を批判した。それは、本件に関する限り失当だと思われたからである。受験生らに対して酷に過ぎよう。しかしながら、その私も君のように人様に対して「独善的」とまで述べた記憶はない。それほど自惚れてはいないからだ。君がそのように自らの表現の自由を謳歌されるなら、どうか私のそれも尊重願いたいものだ。

    2.行政府の長はアベ内閣総理大臣である。まして、本件に関わる内閣府の主務大臣もアベ氏だ。したがって、その責任がアベ総理にあることは当然である。また、その内容も「アホノミクス」同様に、アベ政権になる誤った経済政策の一環であると私は考えている。規制緩和による市場原理主義を声高に唱えるアベ氏にして、本件ではそれとまったく真逆の私学へのパターナリズム的規制強化。それは例の「三本の矢」それぞれにおける矛盾とまったく同じ構造である。

    3.本件で、私は自己の論証として中国の例を用いた覚えはない。それにも関わらず、なにゆえ唐突にそのような例を出し私を批判なさるのか、意味がよく分からない。国情や制度の異なる他国を引き合いに、それとわが国とを単純機械的に比べて、いったい何を立証しようというのであろうか。君の真意を疑う。
     まして、私は旧ソ連や北朝鮮同様に、中国も一国社会主義のスターリン主義国家だと位置づけ、その人権抑圧的体質をも含め本掲示板において批判を加えてきた。また、仮に広義の社会主義国のひとつと仮定しても、現在の中国が経済的には実質資本主義国家と変わらぬことはあえて指摘するまでもあるまい。実際に私も日々中国人留学生らと接するが、今の彼等から「社会主義」を感じることはまったくないのが実感である。

  4. 【5026417】 投稿者: ・  (ID:8Icr4NHQ86Q) 投稿日時:18年 06月 14日 01:19

    >「A判定」でも不合格
    ➔ A判定とはと、過去データでの80%合格可能性。20%は不合格の可能性あり。だから「A判定」でも不合格は毎年一定数(約20%)はいます。今に限った話ではありません。

    「毎年一定数(約20%)はいます」は誤りではないですか

  5. 【5026626】 投稿者: 考察  (ID:nydO6S8omec) 投稿日時:18年 06月 14日 09:23

    >しかし、当然ながら、実際の社会関係に登場する当事者はそのような抽象化された当事者ではない。むしろ、個々に異質で価値的に異なった、生ける具体的な人間像である。そうした異質性という現実の存在間での平等を実質化することにより公平な社会を建設する志向性がマルクス主義の契機である。

    「能力に応じて働き必要に応じて取り出す」という例の共産主義の理想ですね。でも、実際のコルホーズ・ソホーズ、人民公社での実験の結果はどうであったか。平等は実現したかもしれないが、生産性が上がらず、みんな貧しいままというのが実態だったんじゃないですか?それもあなたは、そんなのは「スターリニズム」であって本来の共産主義ではないと言い張るのかもしれません。
    それとはまったく別なところで、私が意識しているのはルソーの「社会契約論」です。鎌倉孝夫(宇野学派の重鎮)がかつて学長をやっていた大学の経済学部の1年生は、全員「社会契約論」を読まされたそうです。ルソーの「社会契約論」は経済学の基礎をなしている社会思想で、経済学(もちろん宇野経済原論)を理解するにはまずこれを読まなければならないという趣旨で読まされたそうです。
    ここでは、人間の自由ということが問題になっているのですが、人は利己的でそのままでは他者の自由と衝突してしまう私的自由を一度放棄して、公共性に全面的に譲渡したのちに公共性から受け取りなおして、社会的自由として享受することによって、はじめて本当の自由人になれる、という思想が展開されています。
    ロックのように、一部放棄ではなく、全面放棄、譲渡です。そして、本当の自由は公共性から受け取りなおした相互扶助、連帯という社会的性格が付与された自由だとしています。
    どうやらこのへんが、前衛党さんがおしゃっている「実質的自由」に近いのではないかと思っております。
    でも、ルソーに心酔し、その思想を現実社会に実現するためにルソーの手足となることを目指したロベスピエールが、歴史に残した血塗られた痕跡を思うと、前衛党さん理想にも疑問符が付きまといます。

    残念ながら、金曜日には先約が入っております。あしからず。

  6. 【5026635】 投稿者: 考察  (ID:EtZYEIjvJgk) 投稿日時:18年 06月 14日 09:27

    あ、「実質的自由」ではなくて「実質的平等」でしたね。失礼しました。

  7. 【5027334】 投稿者: ・  (ID:W7dYRHQdfY.) 投稿日時:18年 06月 14日 23:38

    >「A判定」でも不合格
    ➔ A判定とはと、過去データでの80%合格可能性。20%は不合格の可能性あり。だから「A判定」でも不合格は毎年一定数(約20%)はいます。今に限った話ではありません。

    A判定=80% は、どこの模試を言っているのでしょうか。
    「20%は不合格の可能性あり」は、誤りだと思います。したがって、それ以下の記述全てが誤りだと思います。

  8. 【5027410】 投稿者: 前衛党  (ID:V7hHwwhrRZg) 投稿日時:18年 06月 15日 02:03

    アベよ。
    もっと人文科学を大切にしなさい。学問はカネ儲けのためだけにあるのではないぞ。
    大学の自治に不当な干渉するな。唯物論者の私がドイツ観念論者を応援するのも妙だが、この先生は応援したい。以下、長いが引用させて頂く。

    「 私たちは何のために哲学をするのだろうか。差しあたっては、『生きるため』、それも『より良く生きるため』と考えることができるだろう。しかし、さらに、『何のために生きるのか』、また、『より良く』とは何を基準にそう言えるのか、という問いが重ねられよう。哲学とは、簡単には答えられないこうした問いを引き受けることなのだと、私は思う。容易ではないが、そのためにこそ私たちは哲学をするのではないか、と。

     今日、人文社会科学に対する世間からの風当たりが強いことは、誰もが感じていると思う。卒業生の就職先に困らない法学部や経済学部はまだしも、教育学部と文学部に対してはその風圧も一入である。東北大学ほどの規模の大学ではそれほどでもないと思われるかもしれないが、現に文学部・文学研究科では様々な改革の試みが進行中だと聞いている。哲学専攻もその波をもろに、しかも大きくかぶりそうな気配である。『哲学』といえば、洋の東西の文化の伝統のなかに位置づけてみれば、最も古い、根源的な知の営みであることは周知の事実であり、知識人ならずとも『考えること』をこととする人たちは誰もがその大切さを口にする。どうやら根本的なことを探究しているらしくて、文系理系を問わず、どの分野の研究者にしてもそれなりに『哲学』をもっていることが重要だと考えられるからであろう。

     けれども『哲学とは何か』と問われて、『事柄の根源を探究する学問』という以上のことを、しかも自らの体験に基づいて語ることのできる研究者はそれほど多くはないだろう。『哲学』という言葉もまた、一種のお題目と化していると言えるのかもしれない。ことは、『哲学』を専門に研究している人たちにしても別ではないように思われる。もちろん私とて決して別ではない。ただ幸いなことに、私(および私たち)が研究しているヘーゲルという哲学者は、西洋のみならず世界に目配りをしつつ学問を綜合的な視点から包括的に捉えようとしてきた人であっただけに、人一倍幅の広い、様々な、かつ根本的な『哲学観』を示してくれていると思う。(略)

     もちろん、ヘーゲル哲学のなかにそのすべての答えがあるなどと言うつもりはない。大切なのは、哲学をする私たちの意欲を力強く惹起する何ものかが確かにそこにはあるということの方である。」

    座小田(ざこた) 豊(東北大学)「『哲学によって、哲学を通して生きることを学ぶ』とはどのようなことなのか」『ヘーゲル哲学研究』vol.23(こぶし書房、2017)

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