高2が体験!金沢探究レポート
2026年東大合格者が伸びそうな学校
河合東大オープン第2回受験者数でみる
2025東大合格率
中学受験の参考になる情報です
合格率 高校 東大合格/東大オープン受験者
74.1% 筑駒 117/158
59.5% 渋渋 50/84
56.0% 渋幕 75/134
54.0% 聖光 95/176
50.5% 浅野 51/101
46.4% 麻布 83/179
43.7% 栄光 55/126
42.6% 開成 150/352
38.3% 海城 49/128
37.5% 早稲 30/80
35.4% 筑附 28/79
35.0% JG 28/80
33.3% 桜蔭 52/156
29.7% 豊島 19/64
28.9% 駒東 39/135
25.7% 広尾 18/70
23.3% 市川 17/73
確かに近年、難関校の出願動向や合格辞退の増加といった現象は観測されている。しかし、「偏差値信仰の崩壊→保護者が一斉に探究・国際化を選んだ」という単純な因果関係では説明できない。実際のデータと現場の声は、通学圏の拡大、併願戦略の多様化、政策的要因など、入試行動の複合的な変化が主因であることを示している。
「筑駒ショック」と呼ばれる現象も、通学区域の変更や近隣校との併願構造の変化、都県レベルの授業料実質無償化など、複数の要因が重なって生じたものである。現場の塾関係者や入試分析からは、生活実態(通学時間や家計の選好)が進路決定に大きく影響している実態が報告されている。
次に「探究」教育の盲点について。日本の学校現場で急速に導入されている探究型カリキュラムは、制度化・パッケージ化されることで形式化しやすく、深い学びを必ずしも保証しないという研究結果がある。実証研究によれば、探究の質はその設計方法、評価体系、教師支援のあり方によって大きく左右され、むしろ家庭の社会経済的背景による格差を拡大させる可能性さえ指摘されている。つまり、「学校が探究を実施している」という事実が、即「深い学び」を意味するわけではない。
「国際化」についても同様の課題がある。文部科学省の統計では、日本人の海外留学者数はコロナ後に回復傾向にあるものの、その内訳は短期プログラムが中心で、学位取得を伴う長期留学が爆発的に増加しているわけではない。また、「グローバル」を標榜する学校の広告やパンフレットは、往々にしてマーケティング戦略の一環であり、保護者の心理に訴える「見せ方」が先行している面が否めない。真の国際競争力は、華やかな文句や一部の成功事例だけでは培われない。
結論として、「偏差値の終焉→探究・国際化の勝利」という物語は、表面の現象を言い換えたに過ぎない。教育の質的転換を実現するためには、学校や塾のマーケティングに流されることなく、制度設計(評価方法・資源配分・教員養成)、地域格差、家庭の経済状況といった根本的な課題に正面から向き合う政策と実践が必要である。
言葉巧みな物語で安心を得るのでも、安易に学校を批判するのでもなく、現実と向き合い、変化を創り出す覚悟が求められている。
「風を待つな。制度という土壌を耕せ。ささやかな学びの芽は、やがて森へと育つ。」
いわゆる学校歴は資産移転の必要条件の一つで、安価に済めばそれに越したことはありません。大阪の方々が公立高校を志向し、自宅通学の京・阪・神大に進まれ、あまり東京へ行かれないのは、移転を確実にさせるためでしょう。以上については、橘木俊詔、井上章一さんが触れていますね。彼ら資産家にとっては、探求も、国際化も、お付き合いする程度の、カッコ付教育過程に過ぎないものと考えます。
レアケースが随分と重なるんですね〜。笑
特に翠嵐の受験生からしたら早慶附属受験なんて本番の予行練習くらいにしか思ってないですよ。塾の受験校縛りで受けなきゃならない人も多い。そもそも大学はワタクなどに行く気もないですし行くようなレベル帯の生徒さんたちでもないのですから。
確かに「学校歴=資産移転の条件」という視点は一面の真理でしょう。阪神間で公立高校から京阪神大へという進路が重視される背景も、資産の維持・移転という生活合理性で説明可能だと思います。橘木俊詔氏らの指摘も示すように、教育は資産階層の再生産と不可分の側面を持つ。
しかし、ここで止まると「資産家にとって探究や国際化はカッコ付」以上の議論が閉ざされてしまう。実際には、資産移転を超えた教育制度の設計が社会全体の学びの質を左右する。探究や国際化が「飾り」になるか「実質」になるかは、家庭の資産状況だけでなく、制度的な評価・教員支援・資源配分の仕組みに強く依存している。
資産家にとっては確かに「付き合い程度」で済むかもしれない。しかし大多数にとって教育は単なる移転手段ではなく、未来の生活可能性そのものを決定する。そこにこそ政策と実践の射程を据える必要がある。
資産家が「飾り」で片付けてしまうのは自由だが、社会全体としては「飾りを実質に変える制度」をどう設計するかが問われている。
旧制神戸一中不合格の子弟のために、造り酒屋さん達が立てた灘校は、今や世界の医学界へも人材を出していますね。開校当時の様子は、遠藤周作が描いていますが、正にそのころ着任した橋本武さんが、探求、の実践を始められた日々は、岩波ジュニア新書からも伺えます。以上の教育的資産に、さすがの桜蔭学園も一目置くのでしょうが、灘校のものを含めた、今風に言えば、探求、の教育成果を、ご新興勢力がどう観ておられるのかに、興味はありますね。
貴重で興味深いご指摘、ありがとうございます。
旧制神戸一中不合格者の受け皿として始まった灘校が、今や世界を牽引する人材を輩出しているという歴史、まさに教育が持つ「反骨と創造」の力の体現。造り酒屋の意思に始まり、やがて共同体の精神的資産として昇華したその営みは、単なる資産移転ではなく、既存の序列を問い直し新たな価値を創造するもの。
遠藤周作が描いた創設期の物語、そして故橋本武先生の3年間、『銀の匙』だけを精読するというスローリーディング。当初は保護者だけでなく、生徒からも不満の声が上がる中、結果として、生徒の論理力・表現力が向上、逆説的に懸念されていた東大合格者を過去最高まで押し上げた。
授業は脱線に次ぐ脱線の連続だったと聞く。それを知るに、教育の本質は「非構造」そのものにあると私は思う。授業が横道であるか主道であるかは、それにより刺激され、知識や理解が連なることで自然に形作られる構造的結果であって、先に正解があるわけではない。
仮にそれの脱線が「無駄」「ノイズ」に見えたとしても、その混線を通してこそ浮かび上がるものもある。それは、見えない地層に分け入っていくような「非効率の効能」を示す一例だと私は受け取っています。
「探究」の実践は、私たちがエデュで議論している「形式としての探究」と「実質としての探究」の本質を浮き彫りにする。
重要なのは、教育制度が「資産階層の再生産」という機能を持ちながらも、同時に「学びの質的変容」をも可能にするという逆説。灘校の事例が示すのは、資本が単なる再生産ではなく、教育の実質を変えるイノベーションへと転化された稀有なケースであったという事実。共同体が次世代に託した「精神的資産」の結晶。遠藤周作が描いた風景も、その根底に流れる気配を伝えている。
灘の歴史に学ぶべきは「探究」という名札そのものではなく、「無名の時代に培われた必然なき挑戦」が、後に制度や文化を超えて生き残るという事実。これこそが「本物の探求教育」。
それは特定の「評価指標」や「カリキュラム」に縛られることなく、生徒一人ひとりの知的好奇心と内なる動機に火をつけ、知を深く掘り下げるという、教育の最も純粋な形。灘校が単なるエリート養成校に留まらず、世界的な人材を輩出する場となった理由は、ここにこそあると確信する。
真の知性や創造性は、資産の多寡だけで測れるものではなく、むしろ既存の枠組みを乗り越えようとする意志から生まれるもの。
現在の「探究」ブームを考える際、私たちはこの二重性を直視すべき。一方で探究教育が新たな格差装置となる危険性を孕みつつ、他方で橋本武氏の実践のように、既存の教育の枠組みを根底から問い直す可能性も秘めている。
教育を通じて資産を「維持」するだけでなく、社会全体をより豊かにする「知」へと転換できるかどうか。「資本は制度を生み、優れた制度は資本を超える」。教育の未来を考えるとは、この弁証法的な運動を見据えつつ、単なる再生産ではない、真に解放的な学びの場を如何に設計するかという不断の挑戦である。
桜蔭が灘に一目置く時、それはエデュ的日常、コピペされた偏差値一覧の序列を超えて「学びの厚み」という文脈をそこに感じ取るからにほかならない。同時に、今日の新興勢力が模倣的に「探究」を唱えるとき、その背後に共同体の意思や文化的土壌があるのかを冷ややかにも見る。
教育的資産とは、単に校史に刻まれるものではない。それは社会全体の学びの風土をどれだけ耕すかにかかっている。制度やパンフの言葉ではなく、時代の中で生まれる「不可逆の学びの厚み」こそが次世代を形作る。
教育の価値は、社会の風向きに応じて変遷する。今、問われているのは、資産や地位といった既存のフレームワークを超えて、いかにして次世代の「知の創造者」を育むか、という普遍的な問いなのです。
銀の匙は、単なる銀の器ではなく、言葉という海を漕ぎ出す櫂となる。。。教育の本質は、常にそのような変容の可能性のなかに宿っている。




































