高2が体験!金沢探究レポート
中学受験有名校からノーベル賞が出ない理由
坂口先生、おめでとうございます。免疫学の業績でいつ受賞してもおかしくなかった。
中高は公立? 毎度この時期になると「なぜ中学受験の有名進学校からノーベル賞が出ないのか?」話題になります。
皆さん、どうしてだと思いますか?
Yahooニュース
「東大生はせいぜいクイズ王にしかなれない」上野千鶴子が"学歴エリート"に抱いた強烈な違和感
の中で田原総一郎さんが仰っているとおり
「日本人は正解のない問題にチャレンジする教育を受けていないために、創造力に欠けた」からではないでしょうか
坂口さんが74歳としたら、12歳の時は1963年ころ。
日比谷高校筆頭に公立高校全盛時代で、東大めざして私立一貫という発想がなかった時代。
公立高校改革が都から全国に広まったのは1970前後から1980年ころ、このころから国私立一貫校から東大への時代となった。
過去の受賞者は1970年以前世代が多いのでは。
研究、とくにノーベル賞クラスの業績は0から1を見いだすプロセスですので、有名塾→難関中高→トップ大学→高収入職、というキャリアを人生の最適解とみなしてそこに特化する鍛錬をしてきた人たちには、ちょっと難しいでしょうね。
(完全に無理とは言いませんが、明らかに輩出率は落ちるでしょう)
> 「日本人は正解のない問題にチャレンジする教育を受けていないために、創造力に欠けた」
ノーベル賞は、正解のない問題にチャレンジする教育を受けても取れないよ。創造力もそんなに必要ない。世の中をいかに洞察し、違和感を持ったことに根気よく突き詰めることができるかどうかだよ。常識を疑い、何かしらの仮説をたて、試行錯誤できる力といってもいい。
私立中高は合格に向けて最短コースを取ろうとするから遊びが少ない。ノーベル賞を取ろうとする道と対極にある。
「なぜ有名進学校からノーベル賞が出ないのか」
この問いを、「詰め込み教育の限界」や「正解教育の弊害」として処理してしまう限り、日本の知の停滞は続くと思う。
本質は、学ぶことを「評価構造の内部」に閉じ込めてしまったことにある。
子どもが抱く小さな違和感、非合理への興味、制度に対する疑い。。。それらは、採点の外側にある。だが、今の教育ではその「余白」が削ぎ落とされる。
研究とは、違和感を手放さず、仮説を編み続ける行為そのものの名称だ。
だからこそ、ノーベル賞に至る人々の多くは、既存の構造に「居心地の悪さ」を感じていた。坂口先生にしても、アカデミズムの外と内を行き来しながら、自らの違和感を研究に変えた人だ。
一方、今の進学校システムは「最短距離」を最上とする。
そこでは、問いを立てることより、正答を速く見つけることが評価される。
そして、「問いを立てない優秀さ」が量産される。
言葉を換えれば、日本の受験教育は「知の形式化」を極め過ぎた。
知はいまや生きる技法ではなく、「合格のための道具」になった。
だが、創造とは、形式の外にこそ生まれるものだ。
本当に問うべきは、「なぜノーベル賞が出ないか」ではない。
「なぜ、問いを立てる人間が減ったのか」だ。
灘も故橋本武先生が『銀の匙』を三年かけて読ませた「スローリーディング授業」は、読解の為の手段ではない。
「意味とは何か」を自分の中で問い直させる為の行為そのものだった。
それは、正答なき読書で、評価不能の学びである。
だが、その non-効率のなかにしか、創造の芽は生まれない。
ノーベル賞とは、学力の延長ではなく、「孤独な違和感」の果てにある。
偏差値で測れる知は、他者の定義の中にある。
だが、世界を動かす知は、定義をつくる側にしか宿らない。
それ故、私は日本が20年間受賞者を輩出し続けている、イグノーベル賞 に高い期待を抱いている。ふざけた見かけかもしれないが、そこには「日常の違和感を問い直す力」の萌芽が見えるからだ。
論文の数や影響力ばかりを追う時代に、笑いと寓意で問いを刺すその種は、未来の創造性の導火線に十分なり得る。
創造の条件とは、才能ではなく「構造を疑う勇気」である。
教育がそれを奪うなら、どれほど偏差値を上げても、未来は貧しくなる。
。。。坂口先生が育った公立校時代には、まだ「ゆとり」があった。
だが、そのゆとりとは、怠慢ではなく「考える為の余白」だった。
余白を持つ社会が、創造を生む。
余白を失った社会は、正解だけを消費して終わる。
日本が取り戻すべきは、「ゆとり」ではなく、「余白」だ。
正解を急がない教育、問いを抱えたまま歩く知性。
ノーベル賞とは、その遠回りの果てに見える灯である。
教育の本質は、いつだって、問いと余白の間に宿るのだ。




































