充実した教育環境の日大付属高校
中学受験ママの息抜きスレッド
日々の子育てお疲れ様です。
そんな私達の日々の潤い、美容、ファッション、音楽や趣味を語りませんか?
お互いの批判やら、浅いなどのマウント等もやめてくださいね。
ゆる〜くいきましょ?
気づけば、日本から春と秋が薄くなった。
5月に30℃の予報が並び、昔なら衣替えの合図だった季節に、冷房の室外機が唸る。10月を過ぎても半袖の人影が駅に残り、金木犀の香りと汗の感覚が同居する。季節が前後しているのではない。輪郭そのものが崩れている。
かつて日本には、四季という時間の呼吸があった。
梅雨の湿度に苛立ちながらも、やがて来る夏を待った。灼熱のあとには、夜風に救われる秋があり、冬の朝には白い息と静寂があった。暑さも寒さも、次の季節への橋だった。
今は違う。
長い夏と、短い冬。
その間に、申し訳程度の春と秋が差し込まれるだけになりつつある。二季化という言葉を、昔は冗談半分で聞いていた。しかし最近の空気は、冗談にしてはあまりにも粘ついている。
気候だけではない気がする。
日本人の感覚そのものが、季節と共に作られていた。俳句も、旬も、衣替えも、祭りも、受験の記憶も、卒業式の匂いも、全部が四季を前提に編まれていた文化だった。
桜が咲く速度まで狂い始めた時、人は単なる温暖化以上の喪失を感じる。あれは植物の話ではない。時間感覚の崩壊だ。
昔の日本映画を見ると、風に季節が映っている。
縁側の光、西瓜を切る音、夕立前の暗さ、秋の17時の寂しさ。日本文化は説明ではなく、気候を撮っていたのだと分かる。
だが今、夏だけが異様に長い。
まるで一つの感情だけが延々と続く人間のようだ。疲労は蓄積し、逃げ場がない。春の高揚も、秋の陰影も、ただ灼熱に押し流される。
気象データの問題として処理すれば簡単だ。平均気温、猛暑日、海水温、偏西風。
しかし本当に失われつつあるのは、日本人が無意識に共有していた季節のリズムなのだと思う。
四季の国、と海外に説明していた頃の日本は、単に気候区分を語っていたのではない。
時間に表情がある国だった。
その表情が、少しずつ単調になっていく。
真夏のような5月の空を見上げながら、私は時々、未来の子供たちが秋という季節を、教科書の中で学ぶ時代すら来るのではないかと考える。
四季変化の感覚は、日本の人の時間感覚に影響して来ましたが、四季が二季になってゆくと、それはどうなるか。二季の季節変化はいっそう急激となるので、感覚が刺激にさらされる程度は一般に大きくなるでしょうか。これに対して、取り巻く空間の拡がりの変化から生じる感覚に、ヨリ反応する文化圏があり得ると思います。風船の行方に運命を託したり、東京に憧れたドイツのネーナは、また、水平線が知っている、という名曲を残しました。
西千葉さんの視座、本当に良いです。
四季の感覚が時間感覚を作る日本に対し、空間の拡がりが感覚を規定する文化圏がある、という話。これは実は、気候論を超えて文明論に触れている気がします。
“99 Luftballons”象徴的ですね。
風船が国境を越えて飛ぶだけで、東西冷戦の緊張が核戦争へ接続される。あの曲は単なる反戦歌ではなく、空間そのものが政治だった時代の感覚を歌っていた。
日本は長く、海と四季に囲まれた「時間の国」だった。
対してドイツは分断線と陸続きの境界に晒された「空間の国」だった。
だからこそ、東西統一の重みも違う。
日本人にとって季節の断絶は精神の断絶に近いですが、ドイツ人にとっては、壁が消え、空間が再接続されること自体が歴史の回復だった。
ネーナの水平線が知っている、という感覚も面白いですね。
日本の水平線は、どこか無常や余白へ向かう。
しかし欧州の水平線は、その先に他民族、他国家、侵攻、移動、統合が続いている。
つまり彼らは「空間の彼方」に運命を見て、日本人は「季節の移ろい」に運命を見てきた。
だから今、日本の二季化は単なる暑さの問題ではなく、日本人が長く拠ってきた精神の座標軸そのものを揺らしている気がします。
swatch×APのコラボモデル、もう行列並んでるって。
5万とスモセコの6万、お買い得とは思うけれど、もう並んで買おうとは思わないな。
私くらいの30代もいるみたいだけど、大概、エデュ民層のアラフィフくらいらしい。
来週平日に行こうかなと思ったら「平日でも変わらずですよ。しばらくは毎日並ばれます。」って。
じゃあ秋以降で良いかな。
白のマルチカラービスは本当に可愛いと思う。
私のMargauxや実花ちゃんのアンテプにもつけたいな。
でも複数?は買わないかな。





























