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【4994973】パイロットになりたい!!

投稿者: ほうせい   (ID:r3HBeVUV6BQ) 投稿日時:2018年 05月 16日 01:26

で、法政はどうですか?
何割ぐらいパイロットになれますか?

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「法政大学に戻る」

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  1. 【5320805】 投稿者: 保護者  (ID:2NYzR/2Tj6Y) 投稿日時:2019年 02月 17日 19:35

    どうしても、パイロットになりたいのなら、自社養成か、航大に行ってほしいです。だって、お金かかりすぎでしょ?

  2. 【6532201】 投稿者: JALベテラン・パイロット  (ID:c9ht/BLc8QQ) 投稿日時:2021年 10月 27日 21:26

    近所のベテラン・パイロットさんに質問したら、その方は、実際に学生の選考で大学へ行っているそうです。
    適性検査の基準にあえば採用すると言ってましたよ。

  3. 【6735213】 投稿者: -  (ID:QOqMNIXuSUk) 投稿日時:2022年 04月 07日 08:28

    法政大学理工学部機械工学科航空操縦学専修卒業生のエアラインパイロット就職率は100%でした


    ■航空操縦学専修(全8名)2018年度就職先

    ANA1名
    JAL1名
    ANAウィングス2名
    スターフライヤー1名
    ソラシドエア1名
    バニラ・エア1名
    Peach Aviation1名

    https://www.toshin.com/obog/article/2417

  4. 【6735658】 投稿者: -  (ID:oGfvfrWifgk) 投稿日時:2022年 04月 07日 16:12

    法政の理系は下記のように航空部門からスタートしています
    航空操縦学専修は2008年に開設されました


    ■法政大学航空工業専門学校(1944年3月・法政大学工学部)
    川崎市木月の予科校舎内に開設[6]。
    1945年10月:法政工業専門学校に改称。
    1947年4月:習志野の旧陸軍騎兵学校跡地に移転[7]
    1950年:新制法政大工学部の発足にともない吸収される。

    ■大日本滑空工業専門学校(1948年・廃止)
    1941年:大日本飛行協会により大日本飛行協会中央滑空訓練所設立
    1944年:大日本滑空工業専門学校と改称
    1945年10月:筑波工業専門学校と改称。
    1948年:法政大学に吸収され廃止[8]。

    https://www.wikiwand.com/ja/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%B7%A5%E6%A5%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1

  5. 【6735689】 投稿者: 少数精鋭  (ID:MZhPbB1xK5.) 投稿日時:2022年 04月 07日 16:44

    1学年8名なの?
    8名入学で8名卒業?

  6. 【6735695】 投稿者: 文系  (ID:aP/uGvFVc3w) 投稿日時:2022年 04月 07日 16:56

    息子が4月に高校3年で、法政文系志望で、部にも所属します。
    最近、文系から入社した方いらっしゃいますか。

  7. 【6735706】 投稿者: 体が資本  (ID:TEL3pqfkDlQ) 投稿日時:2022年 04月 07日 17:03

    確か、喘息あるとダメですよ。まずはパイロット用の健康診断の基準にあっているかが大事。

  8. 【6735726】 投稿者: -  (ID:oGfvfrWifgk) 投稿日時:2022年 04月 07日 17:19

    後に全日本空輸(ANA)創立の中心的人物中野勝義は法政大学法文学部OBで、日本の大学で初の航空研究会を設立
    1931年には本学の学生2名が、完成したばかりの東京飛行場(現・羽田空港)から、小さな複葉プロペラ機「青年日本号」にてイタリア・ローマまで飛行しました
    ローマでは、吉田茂駐伊大使に迎えられ、ローマ教皇への謁見、ムッソリーニ首相との会見が行われ、現地の新聞でも大きく報道さるました


    「青年日本号」訪欧飛行関係資料
    http://www.hosei.ac.jp/gaiyo/daigaku_shi/museum/2011/111019.html

    「1931(昭和6)年5月29日、完成したばかりの東京飛行場(現・羽田空港)から小さな複葉プロペラ機「青年日本号」がイタリア・ローマを目指して飛び立ちました。
    操縦かんを握るのは法政大学航空研究会(後の航空部)所属の栗村盛孝2等飛行士(経済学部2年)と付添教官の熊川良太郎1等飛行士(朝日新聞社)。
    初の学生による訪欧飛行とあって話題を呼び、当時の新聞報道によれば、空港には数万の群衆が集まり、空には陸海軍の飛行編隊、新聞社や航空会社の航空機など30余機が舞い、
    「青年日本号」を見送ったといいます。

    この2年前、法文学部3年の中野勝義は、自家用飛行機と2等飛行士の免許を持っていた同窓の前田岩夫らとともに、日本の大学で初めての航空研究会を設立しました。
    このとき会長を引き受けたのが内田百閒(内田栄造教授)で、学生の訪欧旅行を最初に計画したのは内田会長でした。
    朝日新聞社航空部の後援を得、飛行機は逓信省航空局の援助により「法政大学かはせみ号」「法政大学ひよどり号」の2機が提供されて活動がスタートしました。
    中野・前田は翌年に卒業して、中野は朝日新聞社、前田は日本航空に入社。中野は同社の航空部に所属して訪欧飛行を陰で支えることになります。

    ・・・」

    上記、本学OB中野勝義は後に全日本空輸(ANA)創立の中心的人物となり、
    上記、内田百閒(教授)と法政大学生とのふれ合いを描いた映画が黒澤明の遺作『まあだだよ』である。

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