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投稿者: 学芸大学附属高校の校舎 (ID:9Ysz802Aeec) 投稿日時:2013年 11月 30日 01:47
先週初めて見学に行きましたが、あまりの校舎の古さに衝撃を受けました。説明では冷暖房もないとか…?あれだけ古いと不便ではないですか?日本を背負ってたつような優秀な子が集まる学校。あの
校舎ではあんまりだと思うのですが…。建て替えを求める声などは出てないのでしょうか?
うちはアトピーがあるのでクーラーなしは多分無理です。残念ですが、志望から外しました。
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【3314870】 投稿者: 昔ホックをはずした頃… (ID:HjqayekaqMM) 投稿日時:2014年 03月 07日 18:49
久しぶりに掲示板を見ていたら、紛争と制服との関係が書き込まれていたので、補足させて
ください。
紛争の状況や、その前後の附高の様子などは、「茂木健一郎さん」というスレッドの4~5
ページ目に、このHNで書き込んでありますから、重複を避け、そちらを参照してください。
附高での紛争が都内の高校でも指折りの激しさだったことは、自由さんの言われるとおり。
しかし、制服自由化をはじめ、ほとんど何も獲得できなかったのは、自由の気概さんの言わ
れる通りです。
紛争前、学校側は生徒にかなり強圧的に臨んでいたので、生徒からの要求に耳を傾けるという
考えなどなく、とにかく、バリケードなど違法だからと警察を呼んで、首謀者と目された生徒
を警察に逮捕させ、退学処分にしました。こうした校長らの方針に反対し、お辞めになった
先生もいらっしゃいました。
制服が残ったのは、生徒側の力量不足というより、こうした学校側の姿勢によるところが大き
かったでしょう。
しかし、紛争の後の附高は、以前の強圧的な学校でなくなり、虚脱感の中、「自由への憧れ」
が生徒の間に台頭し、無帽になり、襟元を開けました。これへの先生方からの指導はもはやなく、
制帽は自然消滅、ホックを留めない襟が附高の自由のトレードマークのようになりました。
ですから、当時はずすようになったのは、「第一ボタン」ではありません。「第一ボタン」は、
皆当時きちんとかけて着ていました。すると、第一ボタンあたりが、茂木健一郎さんのブログ
写真のように、開いたままの左右の襟の力で引張られて型崩れしてきます:
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/03/index.html
の、「なつかしい校章」という写真の第一ボタンのあたりがそれです。
しかし私などは、学校で決められた制服をこのように型崩れさせて、襟元の開きが時と共に大き
くなっていくことが、「ファッション的な抵抗」として、実は密かに気に入っていたものです。
茂木健一郎さんに、このことについて書いた『第一ボタンをはずした頃』というエッセイがある
ことを初めて教えていただきました。今度探して、読んでみたいと思います。
まもなく4月、男子新入生のみなさんにも、ホックをはずして制服を着ると決める人もいるでしょ
う。そのとき、この昔の自由の歴史を、すこし思い起こしていただけると嬉しく思っております。 -
【3341232】 投稿者: 校舎の話 (ID:E.d5wqlc2po) 投稿日時:2014年 03月 28日 02:52
興味深いスレッドだと思います。
建物の話に戻りますが、
先日附属高校の先生のお話を聞く機会がありました。
あの古い校舎については、専門機関に耐震診断をしてもらったところ、非常に珍しいほど頑強にできており、耐震補強の必要全くなしという診断だったそうです。
建てた時代背景から、国立大学の建物ということで、予算や設計思想、施工に求めるクオリティが高かったのでしょうか。
大正期から昭和初期の古い建築物、特に公共建築で、最新鋭の合理化された建築とはまた違った、
武骨ながら従来工法ならではの本質的に頑健な構造を持った、
優れた建築は全国に散見されるように思いますが、
震災後の現代の基準で見ても安心ということがわかった、ということで、改めて納得しました。 -
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【3369402】 投稿者: 古すぎではなく、伝統の重み (ID:rOpWUdHghTo) 投稿日時:2014年 04月 27日 17:17
「校舎の話」さまへ:
附高の建物は、「国立大学の建物」ではなく、「青山師範」と呼ばれた、師範学校の校舎として作られたのです。
東横線の最寄り駅名も、もとは「青山師範」と呼ばれていました。
青山師範は、国立ではなく東京府立でしたから、せっかくの御高説ですが、この建物はもともと国立でもなく、大学でもなく、二重に誤っていますので、念のため書き込ませていただきます。
その後戦時中に青山師範は他の学校と合併して国立に移管され、そして東京学芸大学という新制大学になりました。この建物が国立大学の建物になったのは、戦後のことです。
戦前、この校舎を頑丈な造成にしたのは、おそらく、関東大震災の苦い経験が10年少し前に起こっていたからでしょう。また、戦前の日本が、教育というものをどれだけ重視していたかの証でもあります。
私が興味あるのは、この建物の建築様式です。この当時欧米で流行っていたのは「アールデコ」という様式(ロサンゼルスなどにこの様式の建物が多数今でも残っています)でした。前面の4本の柱のようになっている部分には、その特徴の気配が感じられます。また、前面の左右と最上階の窓の上部が曲線になっていますが、これには、建物に曲線美を取り入れる特徴のある、アールヌーボーの残り香が漂います。そして、全体として過度の装飾を排した様式は、バウハウス運動の影響のようにも理解できます。このように、当時欧米で流行っていた建築様式を折衷的に取り入れた設計であり、十分に建築史のなかで意味を持っているとおもいます。「いくらなんでも古すぎ」などといわず、その伝統の重みを校舎の建物に感じ取ってほしいものと思います。
「昔ホックをはずした頃…」さまへ:
紛争後、「ホックを留めない襟が附高の自由のトレードマーク」となったとあります。確かにかつてはそういう生徒がほとんどで、その後さらに第1ボタンまで外すだらしない制服の着こなしが増殖してしまいました。
しかし、最近は、街で見ておりますと、第1ボタンはもちろん、襟のホックまできちんと留めて制服を着用している生徒が以前と比べかなり増えてきていると感じます。学校に向かう朝の電車内で、あわててホックを留めている生徒も見かけます。附高でも、都立と県立の伸長に反比例するような近年の進学実績の低迷に危機感を抱き、ワイシャツへに校章をつけることの義務化をはじめ、全体に生活指導を強化する方針を取り始めたのでしょうか。
詰襟とセーラーは、確かに「古い」デザインで、機能的でないところがあります。しかし、中学でブレザーだった新入生がまだ真新しい詰襟に慣れておらず、ホックを留めた襟の中に指を入れて、カラーの苦しさを和らげながらきちんと着ようと努力している姿はほほえましく、生徒一人一人の中に、学校の生活指導を真面目の受け止めて制服に込められた創立以来60年の伝統の重みを自覚し、附高生としての誇りをもって規律正しい着こなしをしようとする自覚が戻ってきているように感じます。この傾向を、ぜひ先生方はしっかり受け止め、育てていただきたいものと思います。