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【5109619】都立西、青山あたりの旧学区制をご存知の方、是非に教えてください。

投稿者: 学区制?   (ID:ZBH94DrIvJ2) 投稿日時:2018年 09月 09日 17:00

スミマセン。ご存知の方がいらっしゃれば教えてください。
祖父が、旧学区制があった際、3学区32群?の西高出身で、当時は凄かったと豪語しております。西はもちろん悪くないのですが、その学区制というものを全く知りません。祖父が、引っ越して2学区の青山に行った友人の娘が私学の○○へ行った。賢いなぁ。。。ほかに1学区11群の日比谷は別格だったがあそこの併願校は○○だった。。。的な事を言っていて、今では考えられない事を言います。私学の名前は、間違えが合ったら先方に迷惑が掛かるので明記しませんが、ご存知の方いらっしゃったら、是非に教えてほしいのです。
私としては、今では考えられないようなレベルの学校の名前が出てきて、絶対に間違いと説いても、お前は知らないだけと平行線。1~3学区辺りの私学併願校が分かれば有難いです。

一生懸命、色々調べたのですが、ヒットせず。出来ればソースも踏まえて教えて頂ければ幸いです。出来れば、男子校、女子校、共学が分かると助かります。
既に高校受験を取りやめた一貫校も多いと思います。祖父が私に伝えた学校というのも女子校だったのですが、現在は高校受験は廃止し、中学受験のみの中高一貫校でした。。
古い話でスミマセン、分かる方、宜しくお願い致します。

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  1. 【6488397】 投稿者: 多摩の老人  (ID:UN3jwWeqAEE) 投稿日時:2021年 09月 19日 15:57

    2018年に立てられたスレですね。
    今や学校群、学校群以前の話一般になっているようなので
    私の思い出話も書きましょう。
    学校群以前は話に出ていましたが、学区合同選抜。
    居住地で学区が決まっており、原則その学区内の都立高校しか受けられませんでした。
    丁度公立小・中が居住地で決められるのと同じ事です。
    高校の場合は同じ学区内に複数の高校があり選べた点が小中とは違います。
    但し単一の高校を志望して受験です。
    志望校に落ちても、学区全体の合格ラインを越えていれば、定員に空きがある高校に回されて合格となります。
    私の義兄がこの制度で第一志望を落ちたのですが府中高校に拾われました。
    この時代が都立全盛時代です。
    学区制があっても、日比谷辺りは越境入学が結構いたと聞いています。

    学校群は日比谷集中の排除が第一の狙いだったと言われています。
    (学校群導入直後戸山・西は日比谷に比べてダメージが少なかった話が出ていますが、戸山・西は直接の排除対象に入っていなかったからと考えられます。)
    学校群制度は同時に越境入学に對しても非常に厳しくなりました。
    私の高校進学は学校群時代に入っていました。
    私は地方の中学出身でした。四月から東京に住むことが決まっていたのですが都の教育局は都立受験を認めてくれませんでした。
    私の本当の志望校は立川高校でしたが結局受験出来ずに諦めました。
    学校群以前は多摩地区の都立トップは断然立川でした。
    多摩の東大と呼ばれていたそうです。
    これは地方にいても知っていました。
    桐朋が進学実績を伸ばしたのはこの後です。
    (但しそれ以前から多摩地区の医者や名家の子弟は桐朋に入っていたようです。)

    多摩地区は当時合同で一学区になっていました。
    その後どういう経緯を辿ったのか多摩地区が四つの学区に分割されました。
    四つの学区のトップ都立は都立武蔵、国立、立川、それに新設の八王子東でした。
    私の研究室の一年上の先輩が学部卒業後都立高校教員試験に受かり八王子東に採用されたので、八王子東は私が大学四年の頃」に新設されたのでしょう。

  2. 【6492546】 投稿者: 立川高校について  (ID:GpWn.hQGuGI) 投稿日時:2021年 09月 23日 01:07

    これから受験に臨む受験生と保護者さんが受験校を選択する際のご参考までに多摩地区の経緯を説明します。
    多摩地区は昭和50年代後半まで慢性的に都立高校の不足に苦しんでいました。人口の急増と高校進学率の上昇に高校の新規開設が間に合わない状態でした。
    立川高校は120年前に東京府立弐中として開校しましたが、中央線東中野から以西には昭和12年に十中(今の都立西高)ができるまで旧制高校・大学予科などの上級学校に進学する府立中学校がありませんでした。
    これが戦後もしばらくの間、立川高校のポジションを決定した原因でした。
    戦後の都立高校の入学制度で都心部の学校が大きく変容したのは、「学校群制度」で1967年から82年の15年間に大学進学先に大変化が起きたことに対し、多摩地区は人口増加によって入学難が続いたので立川高校の進学先には変化が起きませんでした。変化が起きたのは学区制の縮小で、北・西・南多摩という広大な学区から西・北多摩の一部に狭まった結果、東大進学者数が激減しました。
                   卒業生   東大進学者   国立高
    大学区単独選抜 1951年~69年 7,694名  378名 6.3% 38
    大学区学校群選抜 70年~85年  5,539名  373名 9.4% 366
    小学区単独選抜 86年~06年  7,418名  99名 2.3% 204
    学区制撤廃 07年~21年 4,900名   22名 0.5%  324

    もちろん東大進学者数で学校の優劣を論じることに私は無意味さを覚えますが、データで集計できるのは東大だけなので一応掲出しておきます。
    現在は、多摩地区の都立数校に東大進学者が分散しているので受験先選択が多様にできることは受験生にとって良いことではないかと考えます。
    来年から「創造理数クラス」が創設されるそうですが、立川高校の良さである「進学先は自分の考えで決める」校風と調和した教育が継続されることを望みます。 また、立川高校同窓会が在校生の家庭の経済状態に応じて返済不要の奨学金を支給している点も同校の校風の質の良さを感じます。
    なお、私は学校群の時期、父は旧制中学の卒業者で、東大に進学しています。 

  3. 【6561021】 投稿者: レレレのれ  (ID:qMved4a6Xps) 投稿日時:2021年 11月 19日 16:34

    亀レスすみません。

    学校群は今の70歳の方からですね。
    私の入った32群(西・富士)だと、私の高校受験前年の東大合格者数ランキングがそれぞれ全国6位、18位くらいでした。まあいいか、と思って高校受験したらその年の西高からの東大合格者数ががっくり減って愕然。

    滑り止めは海城。ここは1500人ぐらい合格者出してて、34群(大泉・石神井・井草)を落ちたら進学って感じでしたね。女子は富士見とか受けてた記憶が、、。1年後輩の人には、西じゃなくて富士に回されたから開成に進学って人もいました。

    32群に受かって、早大学院や慶応日吉・志木に行く人も居ましたが、ちょっと不思議に思う雰囲気でしたね(東大目指さないの?って感じ)。

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