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【4390727】朝鮮族の日本軍として出兵した者たち

投稿者: 無双   (ID:Oz8mtWhWddY) 投稿日時:2017年 01月 09日 14:03

洪 思翊
홍사익.jpg
フィリピンの戦犯法廷にて(右端が洪思翊)
生誕 1889年3月4日
朝鮮 京畿道安城
死没 1946年9月26日
フィリピン
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1914年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
発音: ホン・サイク
日本語読み: こう しよく
ローマ字: Hong Sa Ik洪思翊と家族
洪 思翊(こう しよく、ホン・サイク、1889年3月4日 - 1946年(昭和21年)9月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
日本統治下の朝鮮出身の日本陸軍軍人としては、王公族として皇族と同等の優遇を受けた李垠中将と並び、最も高い階級に昇った。太平洋戦争(大東亜戦争)後、戦犯としてフィリピンで処刑された。


1889年、李氏朝鮮京畿道安城の両班の家に生まれた。本貫は南陽洪氏である。1905年(明治38年)の日韓保護条約締結後、大韓帝国の陸軍武官学校に入学している。1909年(明治42年)に陸軍武官学校廃止にともない、日本の中央幼年学校に国費留学し、首席で卒業した後、間もなく陸軍士官学校に進学した。当時、陸軍士官学校には大韓帝国からの派遣留学生が何人も在籍しており、1910年(明治43年)の韓国併合に衝撃を受けて抗日・独立運動に身を投じた者も多数いたが、洪は、今決起するのは朝鮮の独立回復に繋がらず、しばらく研鑽を積み実力を養成した後戦うべきだとして級友達と路線を分かつ。
軍歴[編集]

毎日申報に掲載された陸軍大学に入学した際の記事(1920年12月16日)
1914年(大正3年)に陸軍士官学校を卒業し(26期。卒業時の成績は742人中31番)、陸軍歩兵少尉に任官、第1師団第1連隊に配属された。1923年(大正12年)には陸軍大学校(35期)も卒業している。日本統治時代に陸軍大学校に入学した朝鮮人は李垠、桃山虔一(李鍵)、李鍝と彼だけであり[1][2]、洪以外の3人は、いずれも大日本帝国で皇族同様の優遇を受けた王公族であった。1925年(大正14年)には陸軍参謀本部に配属され戦史編纂にあたった。1929年(昭和4年)には陸軍少佐となり、1931年(昭和6年)8月に陸軍歩兵学校教官を経て、1933年(昭和8年)4月関東軍司令部に配属され、満州国軍に顧問として派遣された。奉天軍官学校(陸軍士官学校に相当)の指導に当たったほか、軍官学校の募集対象に満州国在住の朝鮮人を含めることとし、それまで日本人・満州人・延安系朝鮮人に限られていた満州国軍将校への門戸を朝鮮人移民にも開放した。1934年(昭和9年)に陸軍歩兵中佐となり、1936年(昭和11年)まで関東軍司令部参謀部に勤務した。
洪は、旧韓国軍・日本陸軍士官学校時代からの旧友である韓国光復軍司令官池青天から、大韓民国臨時政府に加わったらどうかと誘われたが、朝鮮の独立には未だ時機が至っておらず、今立ち上がることは良策ではないとして、旧友の招聘を断った。だがその一方で、池青天を含む旧韓国軍出身の抗日活動家と秘密裏に友情を保ち、その家族を自費を以て支援したり(これは一歩間違えば洪本人にも危険が及ぶ行為であった)、創氏改名が行われた時も、最後まで改名を行わず、姓の洪をそのまま氏とした。洪は日本統治下における朝鮮人の立場を「イギリスにおけるアイルランド人のようなもの」と息子に説明していた。また、高宗皇帝が下賜した大韓帝国の軍人勅諭を、生涯身に付けていたとも言われている。
1936年(昭和11年)に陸軍歩兵学校の教官に転勤し、翌1937年(昭和12年)の日中戦争勃発に伴い12月に中支派遣軍司令部に配属され、中国戦線に派遣された。1938年(昭和13年)2月には中支派遣軍特務部員として上海に派遣され、3月に陸軍歩兵大佐に昇進して興亜院調査官(もとは文官のポストであったが、当時の軍の権限拡大により軍人が配属されるようになっていた)となり上海の華中連絡部に配属され、情報収集や政治工作に従事した。
1940年(昭和15年)8月に留守第1師団司令部に配属され、1941年(昭和16年)には陸軍少将に進級、華北の河北省に駐屯する歩兵第108旅団長となり、華北の八路軍を相手に戦った。八路軍傘下には朝鮮義勇隊の華北支隊がいたが、同年12月に胡家庄の戦いで日本軍に打撃を受け、主だった隊員が戦死したり捕虜となったりした。1942年(昭和17年)4月から1944年(昭和19年)3月までは陸軍公主嶺学校の幹事(副校長)となっていた。
1944年(昭和19年)3月に比島俘虜収容所長としてフィリピンに赴任、同年10月陸軍中将に進級、同年12月には在比第14方面軍兵站監となって終戦を迎えた。皮肉な事に、これが長年彼が心の中で望んでいた朝鮮解放の瞬間であった。終戦後は、故郷の朝鮮で教師になり静かに暮らしたいと望んだ彼だったが、結局解放された祖国を見ることは出来なかった。
連合国軍から、捕虜収容所長時代に食糧不足から捕虜に十分給養できなかった責任を問われた洪は、軍人として弁解や証言することを潔しとせず、自らについては一切沈黙を守った。但し自身の法廷では沈黙を続けたため一切の証言記録が残っていないが、他の戦犯被告人を弁護するための証言は積極的に行ったため、洪の置かれた状況や心情は他の裁判記録によって間接的に窺い知ることができる。韓国国内では日本の陸士同期生などを中心にマスコミで救命運動が行われたが、結局流れを変えることはできなかった。その結果、マニラ軍事法廷で戦犯者として1946年4月18日に死刑判決を受け、同年9月26日にマニラで処刑された。
辞世の歌は、「昔より冤死せしものあまたあり われもまたこれに加わらんのみ」、「くよくよと思ってみても愚痴となり 敗戦罪とあきらむがよし」。
子息[編集]
洪は独立後の韓国では親日派として糾弾の対象となった。長男の洪国善は早稲田大学を卒業後、朝鮮銀行に勤務していたが、当時の李承晩大統領の直接命令により辞職させられた。また、未亡人の李清栄も、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業していたが、韓国に帰国した後は一切の職業から追放され、日本に戻らざるを得なくなった。2人ともアメリカに移住したといわれる。
なお、洪思翊は戦時中に朝鮮出身脱走兵を隣家に匿っていたことがある。このとき単に「脱走兵を匿う朝鮮人の家」と考えて洪の自宅へ捜索に訪れた憲兵は、中から陸軍少将(当時)の軍服を着用した洪が出てきたことに仰天し、そのまま逃げ帰った。

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  1. 【4556875】 投稿者: 福本誠二郎  (ID:vqI8uCbYvbY) 投稿日時:2017年 04月 30日 14:56

    陳哲郎は、帰化して名前を福山哲郎に改め、日本国籍を取得して日本の国会議員にまでなっているものの、やはり「息を吐くように嘘を吐く朝鮮人」のDNAは変えることはできない。

    福本誠二郎

  2. 【4557107】 投稿者: 今の  (ID:KIu7EzX8fes) 投稿日時:2017年 04月 30日 18:19

    韓国軍は一人っ子が多く骨太な軍人は皆無
    例えば新しい大統領のもとでクーデーターを起こす度量もない
    人間ばかり
    自衛隊も同じことがいえる
    北朝鮮の軍隊とは月と鼈状態だろう
    しかし米国の新兵器の前に人間の力は虫けらと同じ
    トランプはベトナム戦争のようなダラダラした戦いは絶対しない
    一気に叩けなければ平和条約を結ぶ方向に舵を切るかもしれない
    その時また日本は半島に金をせびられるのがおちだ

  3. 【4575161】 投稿者: 福本誠二郎  (ID:x571QU/NzdI) 投稿日時:2017年 05月 15日 22:41

    陳哲郎は、帰化して名前を福山哲郎に改め、日本国籍を取得して日本の国会議員にまでなっているものの、やはり「息を吐くように嘘を吐く朝鮮人」のDNAは変えることはできない。

  4. 【4575201】 投稿者: 気骨稜々  (ID:qIlgyDkZnxs) 投稿日時:2017年 05月 15日 23:14

    金 錫源(キム・ソグォン、김석원、1893年9月29日 – 1978年8月6日)は、大日本帝国陸軍及び大韓民国陸軍の軍人、教育家、政治家。日本名は金山錫源(かねやま しゃくげん)。

    日本統治下の朝鮮出身の日本陸軍軍人としては、王公族軍人を除き、洪思翊中将(陸軍大学校卒業者)に次ぐ高い階級であった。現在の韓国では親日反民族行為者に認定されている。

  5. 【4683032】 投稿者: 志願兵  (ID:kJHRloAUDuo) 投稿日時:2017年 08月 26日 21:08

    日韓併合の真実
    志願兵制度導入前から朝鮮人の志願が殺到
    朝鮮人に対する徴兵制について、戦後の朝日新聞は、嫌がる朝鮮人を無理やり徴兵したように報じている。だが、当時の「朝日新聞・朝鮮版」を読み込むと、その実態はかなり異なる。徴兵制導入以前から多数の朝鮮人が兵士に志願するという下地があり、日本人と同様の「愛国心」が発露していた様子が窺える。
    朝鮮半島で「志願兵制度」が導入されたのは1938年、「徴兵制」が実施されたのは1944年からである。志願兵制度が導入されるまで、朝鮮人が旧日本軍に入隊する術は、陸軍幼年学校か陸軍士官学校に進むしかなかった。1937年に日支事変(日中戦争)が勃発した。山西省の戦いで一個大隊(約1000人)の指揮を執って中国軍をせん滅した大殊勲により、朝鮮半島出身軍人で初めて金鵄勲章(きんしくんしょう)功三級を授けられた金錫源大隊長(少佐)は、1915年に陸軍士官学校(27期)を卒業している。
     日支事変の遠因となった、1937年7月29日の「通州事件」(北京近くの通州で日本人・朝鮮人居留民二百数十名が中国兵に惨殺された)により、朝鮮人の中国への怒りが頂点に達していたこともあり、朝鮮半島では志願兵がまだなかったにもかかわらず、志願が殺到するのである。
    『志願兵申出で百五名に達す 沸る半島同胞の熱血』
    「暴戻支那を討つべしと朝鮮同胞の義憤の血はいやが上にも沸ぎり、朝鮮憲兵司令部の調査によれば七日現在志願兵を申出たものの数は京畿道の二十五名を筆頭に全鮮で百五名に達している」(『大阪朝日・南鮮版』1937年9月8日付。)
    このような世情を反映して、1937年に東京府4区選出の朴春琴衆議院議員は、「朝鮮人志願兵制度」を請願した。
    実際に志願兵制度が公布されたのは、1938年1月23日だったが、それを如何に朝鮮人が待ち焦がれていたかが報じられている。
    『反響呼ぶ志願兵制度 忽ち志願者殺到 応接に転手古舞いの憲兵さん 微笑ましい朗景展開』
    「朝鮮人志願兵制度実施が発表されるや半島同胞の間に一大センセイションを巻き起こし、十六日夜から十七日にかけて熱誠溢れる志願者がどつと繰出し京城憲兵隊、京城憲兵分隊、龍山憲兵分隊の受付は問合せの電話や志願者との応対でほかの仕事は全然手がつけられぬ有様だ(略)」(『大阪朝日・南鮮版』1938年1月18日付。)

    『志願兵制度に感謝の電報 欣喜雀躍の在満同胞』(1938年1月22日付。)
    朝鮮人志願兵制度は、日本在住の朝鮮人の間でも大きな反響があったようだ。
    『志願兵制度に内地在住同胞も大感激 各地で我先にと志願』
    「(略)内地在住朝鮮人間にも至るところ歓喜の渦を巻き起し現在憲兵隊に出願したものは関西だけでも大阪六名、京都五名、神戸、名古屋にも数名あり、京都では十七日夜半島人青年会員五十名が祝賀提灯行列を行った(略)」(『大阪朝日・南鮮版』1938年1月23日付。)

    これらの熱気は、男性陣だけのものではなかった。
    『聴け! この愛国の純情 私たちも男ならば率先軍人を志願 乙女の胸に映った志願兵制度 』
    「(略)一方半島女性もこれに関し新たなる抱負を強く刻み込んでいる、(略)感想文中二、三を拾って見ると左のとほりである
    一、本当にこれで半島人も国家の義務をもつ一人前になったのです
    一、私も男ならば志願兵になるのにと思いました」(大阪朝日・朝鮮西北版1938年1月27日付。)

    当初7倍だった倍率は、5年後には50倍になった
    朝鮮人志願兵制度をまちわびる熱気に押されるように、1938年2月23日、志願兵令が正式に公布された。
    『待望の志願兵令公布さる』
    「(略)半島二千三百万大衆の待望久しき陸軍特別志願兵令は二十三日公布され、ここに朝鮮統治二十八年はつひにこの輝かしき結実として燦然たる一大金字塔はうち樹てられた」(『大阪朝日・南鮮版』1938年2月24日付)

    志願兵募集初年度となった1938年度は、志願者2946名中、406名が合格した。以後も志願者数は右肩上がりで増え続けた。
    1938年度  志願者     2946名    406名合格
    1939年度  志願者  1万2348名    613名合格
    1940年度  志願者  8万4443名   3060名合格
    1941年度  志願者 14万4743名   3208名合格
    1942年度  志願者 25万4273名   4077名合格
    1943年度  志願者 30万3394名   6300名合格 

    もちろん、当時の報道には戦意発揚の意図はあっただろう。
    また、職を求めた朝鮮人たちが軍に志願した面も考えられる。
    しかし、この志願兵急増の背景には彼らなりの「愛国心」があったことを窺わせる記事がある。
    戦中の日本在住の朝鮮人についての記事だ。

    『在阪朝鮮人一丸 暴英膺懲(ぼうえいようちょう)に蹶起(けっき) 十六日大会を開催』
    「東亜の敵老獪イギリスを討てと在阪朝鮮人が一丸となって十六日午後七時から大阪天王寺公園運動場で暴英排撃大会を開催することになつた、(略)参加大衆五万余といふ素晴らしい人員である(大阪)」(『大阪朝日・北鮮版』1939年8月16日付)

    志願者が増え続けた結果、当初7倍程度だった倍率は1943年度には約50倍となり、不合格を悲観して自殺するものまで現れた。
    『純情の愛国青年 志願兵に不合格を悲しみ 失望の余り自決』
    「(略)李昌萬君(十八年)は去る六日午後十時ごろ自宅から約十町離れた林野内で死を遂げた、(略)『僕が念願していた志願兵は遂に駄目になつた この苦しみを免れるには死んだほうがましだ』と漏らしていたさうで今日まで宮城遥拝、里洞祠参拝を怠らなかつたといふ」(『大阪朝日・西鮮版』1945年5月22日付)

    『志願兵に不合格を悲観して自殺』(『大阪朝日・南鮮版』1940年7月13日付)

    一方で何とか合格しようとして血書を持参する志願者まで現れた。
    『鮮血「皇民の誓ひ」 一家を代表して志願』(『大阪朝日・南鮮版』1940年2月9日付)
    『また血書の志願 爆発点の慶南志願兵熱』(『大阪朝日・南鮮版』1940年2月8日付)

    徴兵制実施にともない皇居前で万歳奉唱も
    このように激増する志願者数と歩調を合わせるように、1942年、「徴兵制」の実施が発表された。
    『待望の徴兵制実施 輝く最大の栄誉 半島青年よ今ぞ起て』(『大阪朝日・南鮮版』1942年5月10日付)と題した記事で大々的に報じられている。
    この記事の中で朝鮮人の反響も紹介されている。
    『責任は重い 旭医専校長 呉競善氏』
    「わたくしは早く朝鮮にも徴兵制を施行してくれるやうに総督府にお願ひして来たので、まことに愉快です(略)」
    『熱望が実現 朝鮮生保社長 韓相龍氏』
    「(略)半島民衆のただ一つの願ひは徴兵制実施の待望でありました、その切なる愛国の希望がここに実現したことは半島民衆の歓喜絶頂に達した観があります」
     この時期には朝鮮人が徴兵制を歓迎する様子を伝える記事が数多く掲載されている。
    『徴兵制に感激 軍司令官へ感謝の電報殺到』
    「徴兵制施行の感激は朝鮮全土から板垣朝鮮軍司令官への感謝電報が奔流となって集まっているが、十八日迄にその総数は四百五十通を突破し、なほ続々増加の傾向を示している」(『大阪朝日・南鮮版』1942年5月20日付)


    日本でも朝鮮半島出身者が徴兵制施工に対する感謝の集いを行ない、皇居二重橋前で万歳奉唱をしている。
    『徴兵制度実施に 感謝の市中行進 歓喜に沸く東京府協和会員』
    「(略)在京半島同胞十万の代表者として八百名が明治神宮前に参集 (略)堂々の市中行進に移り、靖国神社では護国の英霊に「私たちの兄弟、友人たちも、これからはどしどしあなた方のお仲間に入れて頂けます」と奉告し、(略)最敬礼、国歌斉唱(略)喜悦遠く郷土にも轟けとばかり万歳を奉唱し、坂下門外の濠端で解散した(東京)」(『大阪朝日・西鮮版』1942年5月23日付。)

    実際に朝鮮人に徴兵令が適用されたのは、1944年9月からで、徴兵検査を済ませて訓練所に入所したのは、1945年1月~7月の半年間だった。そして7月から朝鮮半島や日本国内の「防衛部隊」へ配属されたが、徴兵制度で入隊した朝鮮人のほとんどは、実戦経験することなく8月15日の終戦を迎えたのだった。





    しかし戦後の朝日新聞及びNHKの論調によれば、戦地へ送られなかった事実「巧妙な強制連行」ということになる。
    『朝鮮人徴兵し、食糧生産 巧妙な強制連行 旧陸軍電報発見』
    「【大阪】(略)塚崎さんは『両部隊は本土決戦に備え、兵士の食糧などをまかなうために開墾や耕作をさせた。軍のため労働力を集めた巧妙な強制連行だ』と分析する」
    (『朝日新聞』夕刊2003年3月15日付)
     
    戦後の朝日新聞やNHKが日本の朝鮮半島を悪魔の所業のように演出しても、当時の朝鮮半島の「空気」「温度」はそれとはまったく異なることを
    「朝日新聞・朝鮮版」は訴えかけているのです。

  6. 【4683769】 投稿者: 通州事件  (ID:S5LlCnoxUjM) 投稿日時:2017年 08月 27日 15:23

    通州事件では日本人も虐殺されましたが
    朝鮮人の方もたくさん中国人の手によって虐殺されたのです。

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