最終更新:

23
Comment

【1849375】幸せの定義

投稿者: 迷い人   (ID:qXESr0Ltkgc) 投稿日時:2010年 09月 12日 22:56

日々、子供の幸せを願い、皆様子育てを頑張っていらっしゃると思います。
そこで質問です。
それぞれ十人十色だとは思いますが、皆様の幸せの定義を教えていただけませんか?

返信する

管理者通知をする

マイブックマーク

「なんでも雑談に戻る」

現在のページ: 1 / 3

  1. 【1849641】 投稿者: 定義じゃないですが  (ID:WRVVvSZI2..) 投稿日時:2010年 09月 13日 09:05

    年収700万の人が一番幸せを感じれる・・・って、そういう記事をあちらこちらで見ますが、これって本当でしょうか?
    政治的工作というか、「2番手で満足しろ」って戦略でしょうか?


    都心で手取り700万なんて、生活できませんよね?
    私は地方ですが、それでも、子供2人で、その子供を大学に行かすには、手取り700万ではキチキチです。(年金が十分にもらえないと将来長生きできない)

  2. 【1849725】 投稿者: 本当に人それぞれだけど  (ID:kCbgN3/BdgU) 投稿日時:2010年 09月 13日 10:21

    私はやっぱり健康ですね~。
    食事をおいしく食べられて、夜ぐっすり眠ることができればそれで幸せ、と思ってしまいます。

    無口であまり面白みのないダンナではありますが真面目でしっかり稼いでくれますし、
    息子も「スポーツ万能でクラスの人気者のイケメン」からほど遠い、運動オンチのメガネちゃんですが、優しい子です。

    私自身はお金の苦労は今までした事はありませんが、健康面に関しては子供の時から自信がなくて苦労もしばしば。
    外で急に具合が悪くなることもあるため、人付き合いも「迷惑をかけては・・・」と思うと消極的になってしまいます。

    だからこそ、「欲を言えばキリがない、健康が一番」という考えです。

  3. 【1849729】 投稿者: いえいえ。  (ID:B6R4GClfChE) 投稿日時:2010年 09月 13日 10:25

    そういう意味じゃなくて。

    年収700万超えたとしても、結局は所得税率が上がったり住民税が増えたり、各種手当の対象から外れてもらえなかったり
    優遇される側ではなく詐取される側にまわってしまい、年収1000万になったとしても実入りは700万の人と変わらない。
    ならば、無理して働かない方がお得では?ということです。
    家族との時間も自分の時間も奪われ、身体も弱りますから。

    よくいわれる「パート130万の壁」と同じですね。

  4. 【1849789】 投稿者: いえいえ様  (ID:WRVVvSZI2..) 投稿日時:2010年 09月 13日 11:14

    新聞をあまり読まれないようですね。

  5. 【1849826】 投稿者: 生きたもん勝ち  (ID:8LgrUdhgDlo) 投稿日時:2010年 09月 13日 11:50

    宗教がほとんどないような状態の国ですから、
    ずばり「生きたもん勝ち」の論理。

    生きている間に好きなことができればよい。
    この世は、感情のゴミ箱。
    「幸せ」を考える、計るなどの基準なんかありゃしない。
    人夫々、脳内の満足を求めて、なんとないルールの中で最大の幸福を求める(まるで憲法条文ですね)。

    親の、子供を通しての幸せは
    親の脳内でほぼ決定。
    親が満足するかどうかで、厭でも「幸せ」の個人的な定義(?)が子供に洗脳される。感情の相続でしょうか。

    「かわいそう」なんていうのも似たような話で、自分がかわいそうな状態を見たくないだけ。
    「かわいそう、かわいそう」で、本当にかわいそうな人の心なんか分かりはしない。

    戦争の惨劇を見た人は、生き残ったものであり、その生き残った者がその惨劇を主観的に論評(当たり前ですが)。本当に惨劇で亡くなった人の声はどこに。
    よく他人の心の中を見通せるものだと感心しますが、昔子供の授業参観などで、一律に「かわいそう」と叫ぶ教育が行なわれているを見ましたが、不思議この上なく、どういう教育をしてるのかと。
    凄い自信家なのか、上からものを見ているのか、と唖然としてしまいました。

    事実はどこにあるんでしょう。
    最近流行っている、それこそ定義も何もない個人主義ですね。(このスレも千差万別とおっしゃっているくらいですから)
        
    個人的には、、、例えば、、
    フィリピンのコレヒドールのツアーで、
    戦争未亡人が亡くなったご主人の戦友と共に慰霊に訪れていました。
    「お父さん。子供はしっかり育てましたよ。内地の水です。たくさん飲んでください」の後に言葉は続くわけもなく、嗚咽です。戦友の海行かばの歌が暫く続きました。(初めて「嗚咽」の意味を実感したような思いでした)

    普通の観光ツアーでしたので、この慰霊は極個人的な希望。狭いとこながら若干コースも時間も変更。皆さんに「すみません、すみません」とだけの声を発して何度も頭を下げてお願いされていました。
         
    一般的には「悲しい」「かわいそう」と形容される場面なのでしょう。
    私は、戦死した親族が多いのでこの類の話は子供の頃から良く聞いていましたが、しかし、勿論そのコレヒドールの方々の心中を察することすらできるわけなく、少し外れたところで見ていたのですが、陽が当たる瞬間と申しましょうか、その人の幸せの結実を見たような思いでした。(これは勝手な思い込みでよ)

    簡略してつまり、幸せなんか元気に生きている間に分かるわけもなく、子供の読み物でないのですが、生きている真っ只中で「幸せ」の定義なんて、普通の人に出せるのでしょうか。
    生きたもん勝ち論理の「幸せ」は個々人の感情論であって、定義など言うレベルのものではないんじゃないかと。(まさか道徳論で幸せを定義するなんてできないですからね)

  6. 【1849845】 投稿者: 九月  (ID:v5ipxgm3Pok) 投稿日時:2010年 09月 13日 12:06

    幸せの定義は、それこそ千差万別だと思います。
    その人の心が満たされているかどうかが
    ポイントでしょうか。
    健康である事も心が満たされる事の大事な
    条件と思いますが、健康が心が満たされている事の
    必須条件だとも言い切れないとも思います。

  7. 【1849859】 投稿者: しあわせの素  (ID:TUv2iX8C2Ss) 投稿日時:2010年 09月 13日 12:19

    幸せと感じた人が幸せ者。
    究極の主観的な感覚ですよね。

    まわりがうらやむような環境で、あなたは幸せものねと言っても、
    その本人が幸せと感じていなければ、むなしい言葉になってしまう。
    もちろん、その反対もあり。

    学校、仕事、収入、そういう環境をどんなに整えても、
    ある種の限界を感じます。
    そんなことを最近しみじみ感じることがありました。

    その時感じたことは、
    本人が自分の存在に自信がもてるかどうか、
    そこで決まるのかなということでした。

    ・・・子供の自信をそぐようなことばかり言っている母です。
    今からでも、自信が持てるように接しなければと反省もしました。

あわせてチェックしたい関連掲示板

学校を探す

条件を絞り込んで探す

種別

学校名で探す